ブログ2025年一覧

今日から二月です。  投稿者 青梅

一年で最も寒さが厳しい頃ですが、同時に、光が少しずつ「ちから」を取り戻していく時でもあります。朝の散歩で見上げた空は、冬の鋭さを残しながらも、どこか高く澄んで見えました。日差しの角度が、わずかに変わってきたようにも感じられます。

まだ春とは言えません。手袋を外せば指先はすぐにかじかみ、木々も固く身を縮めています。それでも、自然は止まってはいません。目に触れないところで、次の季節への備えが着実に進んでいるように思えます。

人の歩みも、これに似ているのかもしれません。変化を感じられない時期や、前に進んでいる実感を持てない日々があります。しかし、その沈黙のような時間の中でこそ、支えられ、守られている歩みがあるのだと思います。

寒さの中に身を置きながら、急がず、比べず、今日与えられている一日を大切に受け取りたいものです。この二月も、それぞれの歩みに、やわらかな光が注がれますように。

2026年02月01日

冬尽く(ふゆつく)   寄稿者 李想

朝の冷え込みはまだ残っているのに、日差しの角度が少し変わったことに気づきました。吐く息は白いままですが、どこか重たさが和らいでいるのです。季語「冬尽く」という言葉が、ふと心に浮かびました。長く続いた冬が、静かに終わりへ向かっている合図のようでした。

「尽く」という響きには、耐える時間が満たされ、役目を終える安堵があります。寒さに身をすくめながら歩いた日々、心まで縮こまっていた時もありました。それでも冬は、ただ厳しいだけではなく、立ち止まり、内側を見つめる時間を与えてくれていたのだと思います。

信仰の歩みも、冬のような時があります。祈りの言葉がすぐに実を結ばず、沈黙が長く感じられる時です。けれども、神はその沈黙の中でも働いておられるのかもしれません。土の下で芽が備えられるように、見えないところで整えが進んでいるのだと、今は思います。

冬が尽きるとき、春はまだ姿を見せていなくても、確かに近づいています。今日という一日も、主の時の中に置かれている。そのことに静かな希望を覚えました。急がず、比べず、与えられた季節を受け取りながら、やがて来る春を信じて歩みたいと思います。

2026年02月02日

聖句の学び ヨブ記1章   寄稿者 ホームページ管理人

人生には、理由の見えない喪失が突然訪れます。努力や信仰では防げない出来事の前で、私たちは何を支えに立つのでしょうか。ヨブ記1章は、その問いに答えを急がず、神の前に立つ一人の人の姿を描いてはいないでしょうか。今日は、その一節に耳を澄ませてみたいと思います。

選んだ一節
「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」(ヨブ1:21 )

この言葉を読むとき、わたしの心は一瞬、立ち止まります。与えられることは理解できても、取られることを神の御手として受け止めるのは、容易ではありません。

ヨブは、すべてを失ったその場で、この告白を口にしました。嘆きの只中にありながら、彼は世界の中心に自分ではなく、主を置いたのです。感情が整ったからではなく、整わないまま、神の前に立ったのでした。

わたし自身の歩みを振り返ると、恵みがある間は神を見上げ、失い始めると理由を探している自分に気づかされます。理解できない出来事の前で、神の御名をどう扱ってきたのか、静かに問われます。

ヨブの言葉は、苦難を説明する答えではなく、神との関係を保つための告白でした。与えられる時も、取られる時も、主は主であられる。その事実の前に、今日もまた、わたしは沈黙のうちに立たせていただきたいと思うのです。

2026年02月03日

ママレードおばさん      寄稿者 色えんぴつ

今年は甘夏の実がたくさんなった。

子どもが小さかった頃、実がなる木が庭に一本ほしくて、若木を植えた。
すぐにでも実をつけると思っていたのは間違いで、木が大きくなっても何の気配もなく、庭の片隅でどんどん枝だけを伸ばしていた。数年後、たった三個の実をつけたが、また静かに木だけが大きくなっていった。

何年たったころか、突然十以上の実をつけたのである。私は「初穂」といって、祈祷会で数人に喜びのおすそ分けをした。次は何時実をつけるかわからなかった。

ところがそれからは毎年、小さい実が付き、淘汰されて残った実が大きく色づいてくるようになったのである。以来、ママレード作りが冬の行事になった。

今年は壜を十五個買った。我が家のを作るときにどなたかに瓶詰する。友人に、親せきに、味見をしてもらう。糖尿病の方にも差しさわりないところを目指して、砂糖はぎりぎり控える。材料は甘夏ミカンと砂糖とレモン汁、ほんの少しの塩のみ。果汁とペクチンでほんのりトロリとなる。若い方は子供のおやつにぴったりとか。

神様ありがとう。教会では高齢者や一人暮らしの方が喜んでもらってくださる。私の元気のバロメーターでもある。ママレードおばさんは今年も元気だ。神様、ありがとう。
     コリントの信徒への手紙一・3・6   

2026年02月04日

ほのかな香りが告げるもの   寄稿者 花守

冬の冷たい空気の中で、ふと足を止めさせる香りに出会いました。見上げると、枝先に小さな梅の花が咲いています。風はまだ冷たく、景色も硬さを残していますが、その花は春の近さをそっと知らせていました。

梅の花は、目を奪うほどの華やかさを持ちません。白や紅、淡い桃色の花は控えめで、近づいて初めて香りに気づくほどです。それでも、寒さの残る時期に先んじて咲く姿には、耐えながら待つ強さがにじんでいるように思います。

聖書に「忍耐は練られた品性を生み出す」とあります。梅の花を前にすると、この言葉が自然と心に浮かびました。すぐに実を結ばなくても、備えられた時は確かに進んでいる。その歩みを信じることが求められているのかもしれません。

梅の名所に集う人々の姿を思い浮かべながら、わたし自身の歩みもまた、このように支えられてきたのだと感じました。ほのかな香りに背中を押されつつ、与えられた今日を大切に歩みたいと思います。春は、すでに足もとに来ています。


2026年02月05日

宮沢賢治『よだかの星』   寄稿者 歴想

冬の午後、バスの窓から淡い空の色を眺めていると、ふと宮沢賢治の『よだかの星』が胸によみがえりました。日差しは弱く、街路樹は冷たい風に揺れ、どこか物寂しさを帯びていました。けれども、その静けさの中にある透明な光が、よだかが夜空を飛び続けた姿と重なって見えたのです。小さな鳥が居場所を求めてさまよいながらも、ひたむきに光を探し求めていくその姿は、冬の空気にぴったり寄り添うように感じられました。

『よだかの星』は、弱い存在が嘲られ、追いやられ、それでもなお生きようともがく物語です。よだかは、自分の姿の醜さを責められ、つばめにも拒まれ、どの鳥たちからも受け入れられませんでした。孤独はよだかの翼を重くし、心の奥に積もっていく雪のようでした。それでも彼は、誰かを恨むより先に、「どうして自分はこんな姿なのだろう」と静かに思い悩み、光のほうへと飛んでいきます。賢治が描くよだかの心には、怒りよりも深い悲しみと、どこか祈りのような願いが宿っているように思うのです。

バスはゆっくりと坂を上り、遠くの空が広く開けていきました。その瞬間、よだかが星に向かって飛び続けた場面が、胸の奥で淡く輝き始めました。息が切れても、翼が震えても、なお光をめざして舞い上がる姿には、どこか人間の歩みに通じるものがあります。誰かに理解されない日があり、努力が報われない時間が続くこともあります。けれども、よだかは自分が誰かから認められることよりも、「光のあるところへ行きたい」と願い続けました。その願いは、冬の道を淡々と走るバスの揺れの中で、静かな励ましのように感じられました。

やがて、よだかは星の光に迎えられ、その身を小さな光として夜空に宿します。賢治はその瞬間を、悲劇としてではなく、深い救いのように描きました。誰からも嘲られ、拒まれた鳥が、最も高く澄んだ場所に導かれていく結末には、読むたびに不思議な温かさが残ります。弱さや孤独が消え去ったわけではありませんが、それらを抱えたまま、静かに光へと溶け込んでいく姿は、冬の冴えた空気の中にそっと寄り添ってくれるようです。

バスの窓に映る街の灯りが、まるで小さな星のように瞬いていました。行き交う人々にも、それぞれに語られない苦しみや願いがあるのでしょう。よだかの物語が胸に残るのは、彼が決して強くはなかったからかもしれません。弱い者が、その弱さのまま光に向かって歩んでいく姿には、どこか救いの予感があります。冬の日差しの下で読み返すと、その光はよりいっそう柔らかく感じられました。

2026年02月06日

聖句の学び ヨブ記2章   寄稿者 ホームページ管理人

人生には、理由を探しても答えの見つからない出来事があります。誠実に歩んできたはずなのに、思いがけない痛みが重なり、心も体も削られるような時です。ヨブ記2章は、まさにそのような場面を私たちの前に差し出します。病に侵され、灰の中に座るヨブの姿は、遠い昔の物語でありながら、私たち自身の弱さと重なって見えるのではないでしょうか。そこで語られる一言が、静かに胸に残ります。

選んだ一節
「私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいも受けるべきではないか。」(ヨブ2:10 )

ヨブは、財産と子どもを失った後も信仰を保っていました。しかし二章では、ついに彼自身の体が病に打たれます。逃げ場のない痛みの中で、彼は灰の上に座り、沈黙します。

妻は彼に、「神を呪って死になさい」と語りかけます。それは残酷な言葉であると同時に、苦しむ者の心から自然に湧き上がる問いでもあります。なぜ神は沈黙されるのか、という問いです。

そのときヨブは言います。「私たちは神から良いものを受けているのだから、悪いものも受けるべきではないか。」この言葉は、痛みを肯定する宣言ではありません。理解できなくても、神を神として手放さない決断でした。

私たちもまた、答えのない時を通ります。その中で、すべてを説明できなくても、神の前にとどまることはできるのか。ヨブの言葉は、信仰とは説明ではなく、関係に生きることだと、教えているのではないでしょうか。


2026年02月07日

東風の先触れ   寄稿者 季想

冬の終わり、まだ空気に冷たさを残しながら、ふと風の質が変わる瞬間があります。北からの鋭い風ではなく、どこか柔らかく、頬に当たっても拒まれない風──東風です。梅のほころびとともに、その存在に気づくことがありました。

菅原道真が「東風吹かば」と詠んだように、この風は春を告げる使いでした。厳しい季節が終わることを、大げさにではなく、静かに知らせてくれます。自然はいつも、急がず、騒がず、次の時を準備しているように思えます。

けれども、わたしの心はどうでしょうか。長い冬のような思い煩いの中で、変化を恐れ、固くなってはいなかったかと省みます。主は「恐れるな」と繰り返し語られましたが、その声に耳を澄ます余裕を失っていたのかもしれません。

それでも、東風は吹きます。人の心の準備とは関係なく、恵みは先に訪れます。わたしはこの小さな風を、神が静かに差し出してくださる希望のしるしとして受け取りたいと思います。今日も心を少し緩め、新しい歩みに備えさせていただきたいのです。

2026年02月08日

分からなさの前に立つ   寄稿者 青梅

NHKドラマ10「テミスの不確かな法廷」で、裁判官・安堂清春(松山ケンイチ)が語った「分からないことを分かっていないと、分からないことは分かりません」という一言が、心に残りました。回り道のようでいて、逃げ場のない言葉です。分かったふりをした瞬間、問いは閉じてしまう。その警告を含んでいるように聞こえました。

社会は今、速さと明確さを求めます。白か黒か、正しいか間違いか。判断を先送りすることは、弱さや無責任と見なされがちです。けれども、難しい問題ほど即答できないものです。「分からない」という地点に立ち止まることは、責任を回避する姿勢ではなく、むしろ引き受ける覚悟なのではないでしょうか。

信仰の歩みを振り返っても、同じ思いに至ります。聖書の言葉は確かでも、現実の出来事は理解を超えることがあります。祈っても答えが見えない夜がありました。そのとき、結論を急ぐよりも、分からないまま主の前に立ち続けることが、わたしには必要でした。

分からなさを抱えたまま考え続けること。沈黙の中で耳を澄ますこと。その姿勢こそが、社会にも信仰にも、失われてはならない土台なのかもしれません。急がず、偽らず、その場にとどまる。その小さな誠実さが、次の一歩を整えているように思うのです。

2026年02月09日

川面のゆっくりした流れ    寄稿者 季想

川面は、冷たい空気を受けながらも光り、ゆっくりと形を変えながら流れていました。岸辺には霜が残り、吐く息が白くなるほどの朝でしたが、水だけは途切れることなく進んでいきます。急ぐ様子もなく、ただ淡い陽の光を抱きながら。

「あなたがたは静かにしていて、わたしこそ神であることを知れ」(詩篇46篇10節)。その御言葉を思うと、凍りつくような季節にあっても、川の流れは主の御手の働きを映すように見えるのです。表面は冷たくても、その奥深くでは水が大地を潤し、次の時を備えているのでしょう。

わたしたちの歩みもまた同じなのかもしれません。変化が見えず、心が凍りつくように感じる日にも、主は人知れず導きを進めておられるのだと思います。速さではなく、確かさによって働かれる方です。

どうか、見えないところで続くその恵みを信じ、今日も主にゆだねて歩みたいと祈ります。


2026年02月10日

聖句の学び ヨブ記3章   寄稿者 ホームページ管理人

人生には、言葉を選ぶ余裕さえ失われる時があります。慰めの言葉が届かず、前向きな祈りも浮かばない。ただ、生きていること自体が重く感じられる夜です。ヨブ記3章で、ヨブはついに沈黙を破り、自分の生まれた日を呪いました。その言葉は荒く、痛みに満ちています。けれども、そこには一つの事実が残ります。ヨブは、その嘆きを神の前で語ったのです。沈黙の後に差し出された言葉に、わたしの心も引き留められました。

選んだ一節
「なぜ私は、胎内で死ななかったのか。胎を出たとき、息絶えなかったのか。」(ヨブ3:11 )

ヨブは、苦しみの只中で神を賛美することができませんでした。代わりに、自分が生まれた日を呪い、生きる意味を見失った思いを率直に語ります。

「なぜ生まれたのか」という問いは、信仰の敗北のようにも見えます。しかしヨブは、その問いを神から切り離してはいませんでした。嘆きは、神に向けられていました。

わたし自身も、答えの出ない問いを抱えたまま、言葉を失うことがあります。そのとき、立派な祈りをしなければならないと思い、かえって神から遠ざかってしまうことがありました。けれども、ヨブの姿は、壊れた言葉でも神の前に差し出してよいのだと教えてくれます。

神は、ヨブの嘆きを沈黙で終わらせませんでした。時を経て、神ご自身が語られます。理解できない夜にあっても、神との関係は断たれていない。そのことを信じて、わたしもまた、言葉にならない思いを神の前に置いて歩みたいと思います。

2026年02月11日

民の声に耳を澄ます  寄稿者 青梅

朝の川縁を歩くと、風に揺れる枯れ草の間から、小さな鳥の声が聞こえてきました。姿は見えなくとも、確かにそこに息づく気配があります。人の声もまた、遠くで重なり合いながら、静かに場の空気を形づくっているように思われました。

「民本主義」を唱えた吉野作造は、選挙において民意が尊ばれるべき根拠を、有権者一人ひとりの判断力に置いたといいます。政策の細部までを知り尽くさずとも、生活の現場で培われた感覚が、時代の行き先を示す――その見方は、どこか素朴で、同時に重みを帯びています。

今回の衆議院選挙の報に触れながら、わたしは自分の内にある迷いにも気づかされました。声を上げることの軽さと重さ、同調と沈黙のあわい。流れに身を任せるだけでよいのか、と足元が揺れる思いが残ります。

それでも、主は人の弱い判断のただ中にも働かれる方である、と聖書は語ってきました。完全な知識ではなく、委ねきれない思いを抱えたまま差し出す一票。その小さな選びの積み重ねの中で、なお導きが備えられているのではないでしょうか。民の声に耳を澄ましつつ、与えられた良心に正直でありたいと思います。

2026年02月12日

パンジーに学ぶ二月の歩み  寄稿者 花守

ビオラと並び、冬の定番の一年草であるパンジーは、二月の庭に静かな色を添えてくれます。寄せ植えでも花壇でも、場所を選ばず受け入れられるその姿は、決して目立とうとはせず、ただ与えられたところに根を下ろして咲いているように見えます。冷たい風にさらされながらも、花弁をすぼめることなく、淡い光を受け止めている様子に、わたしは足を止めました。

冬は、何かを成し遂げるよりも、耐える季節なのかもしれません。思うように進まない日々、言葉が実を結ばない時間。けれどもパンジーは、春を急がず、今ここで咲くことを選んでいるようでした。大きく育たなくても、華やかでなくても、寒さの中で色を失わない。その在り方は、信仰の歩みにも重なるように思います。

聖書には、「時が良くても悪くても、みことばを宣べ伝えなさい」とあります(Ⅱテモテ4章2節)。整った条件を待つのではなく、置かれた季節の中で忠実に歩むこと。その小さな積み重ねが、やがて神の時に用いられるのだと、パンジーは語っているようでした。

二月の冷たい空気の中で、変わらず咲く花を見つめながら、わたしもまた、今日という一日を大切に受け取り、与えられた場所で歩みたいと思います。


2026年02月13日

山里に差した影 寄稿者 歴想

山あいの集落で、柿の実が橙に色づく頃、すべてを取り尽くさず、鳥や獣のために一つ二つ残す――「木守り柿」という風習があると知りました。分け合う知恵のようで、わたしは静かな温もりを覚えました。

けれども昨年、その情景は別の意味を帯び始めたのです。山里に近づく熊の出没が、報じられるようになったからです。残された柿は恵みであると同時に、境界を越える合図にもなり得る。そう考えたとき、胸の奥で何かが冷えました。

「柿を残すことが、誰かを危険にさらすのではないか」。その思いが浮かんだ瞬間、わたしは自分の善意を疑いました。美しい話を守りたい気持ちと、身を守りたい気持ちが、心の中でせめぎ合いました。正しさよりも、まず安全を選びたいと思った自分を、否定しきれませんでした。

木守り柿の話は、今も消えずに残っています。ただ、それはもう無垢なやさしさの象徴ではありません。怖れを知った上で、それでもなお何を残すのか、何を手放すのか――わたしは答えを出せないまま、その問いを抱えています。神の前に立つ前で、しばらく足を止めたままです。


2026年02月14日

窓辺に残ったもの    寄稿者 季想

朝、書斎に入り、机に向かう前に窓の外を眺めていました。そこには、いつもと変わらない裏山がありました。冬を迎え、葉を落とした姿は色味も乏しく、どこか寂しさを帯びています。それでも、その稜線は崩れることなく、静かにそこに在り続けていました。

しばらく見ているうちに、理由のはっきりしない安堵のようなものが、胸の奥に触れた気がしました。何かを考えたわけでも、答えを得たわけでもありません。ただ、立ち止まることを許された一瞬でした。

しかし、その感覚は長くは続きません。時計に目を戻し、机に向かえば、いつもの時間が再び動き出します。それでも、消えてしまったはずのあの一瞬が、完全に失われたとは思えないのです。

目に見えないものは、すぐに過ぎ去ります。けれども、人の心がふと緩むとき、そこに「恐れるな」という声が、形を持たずに寄り添うことがあるのかもしれません。そう思いながら、今日もまた窓を背に、静かに一日を始めました。

2026年02月15日

葉なき枝に灯るもの     寄稿者 花守

冬の山裾を歩いていると、ふと甘い香りに足を止めることがあります。見上げると、葉をすべて落とした枝に、小さな黄色の花がいくつも灯るように咲いていました。ロウバイでした。まだ寒さの残る頃、春を待たずに花を開くその姿は、どこか控えめで、それでいて確かな存在感があります。

ロウバイは、葉が出る前に花を咲かせます。枝は一見すると乾き、力を失ったようにも見えますが、その内側では、すでに花を咲かせる備えが整えられていたのでしょう。人の目には何も起きていないように見える時にも、静かな準備は進んでいるのだと、教えられる思いがしました。

わたしたちの歩みも、似ているのかもしれません。実りや変化が見えず、ただ季節を耐え忍んでいるように感じる時があります。けれども、その時を無意味だと決めつける必要はないのだと思います。神は、葉のない枝の内側でさえ、次の時のための働きを止めておられないからです。

花期が終わる頃、ロウバイはようやく葉を広げます。順序を急がず、与えられた時に、与えられた姿で咲く。その静かな在り方に、信仰の歩みもまた、同じであってよいのではないかと思いました。寒さの中で香りを放つロウバイのように、わたしもまた、今与えられている場所で、静かに主を信頼して歩みたいと思います。

2026年02月16日

聖句の学び(ヨブ記4-5章)   寄稿者 ホームページ管理人

ヨブ記4章と5章は、友エリファズの語りとして続いています。4章では、苦しみの原因を「人の正しさ」に結びつけ、神の前に立つ人間の弱さを語ります。5章では一転して、神は低い者を顧み、打っても癒やされる方だと、慰めの言葉が添えられます。二つの章を並べて読むと、正しさを語る言葉と、慰めを語る言葉とのあいだに、どこか微妙なずれがあるようにも感じられます。

選んだ一節
「人は神の前に正しくあり得ようか。・・・」(ヨブ4:17)

心に留まったのは、「神の前に、だれが正しいとされるだろうか」(4:17)というエリファズの言葉でした。

たしかに、人はだれ一人として完全ではありません。その事実は、聖書全体が語っています。しかしエリファズは、この真理を、苦しむ友を支えるためではなく、原因を特定するために用いました。

わたし自身も、誰かの痛みを前にしたとき、説明や結論を急いでしまうことがあります。沈黙よりも言葉を、共感よりも整理を選んでしまうのです。正しさの陰で、相手の嘆きを聞き逃しているのかもしれません。

ヨブ記4章は、正しい言葉よりも、正しい姿勢が問われている章だと思います。神はすべてをご存じであり、説明できない苦しみの中にもおられます。その神の前で、まず黙して共に立つ者でありたい――そう願わされました。


2026年02月17日

「持たずに歩いた旅」  寄稿者 青梅

旅にスマートフォンは欠かせない。行き先を調べ、経路を確認し、天気を知る。宿も食事も支払いも、すべてが一つの画面に収まる時代である。そんな中、スマホを置いて旅に出た若い記者の記事を、今朝のニュースで読んだ。

紙の地図も時刻表も読めない世代が、あえて情報から離れて歩く。その試みは、不便で心細く、同時に新鮮だったという。人に道を尋ね、迷い、立ち止まりながら進む旅路が、そこにはあったそうだ。

この記事を読みながら、わたしは思った。聖書のない人生と、聖書のある人生も、どこか似ているのではないかと。自分の判断と情報だけを頼りに歩く道と、御言葉に導かれて歩く道。その違いは、歩いてみて初めて分かる。

「あなたのことばは、私の足のともしび、私の道の光です」(詩篇119篇105節・新改訳)。信仰の証しとは、理論ではなく、歩いた結果の報告書なのかもしれない。わたしもまた、その道を歩み続けたいと思うのです。

2026年02月18日

免許の更新近づく   寄稿者  季想

高齢運転者の事故の報道に触れるとき、胸の奥が静かに痛みます。判断の遅れや踏み間違いという出来事の背後には、その方が歩んできた長い年月が淡く映り込んでいるように思うのです。社会では「免許返納」がすぐに語られますが、その選択には単純な善悪では捉えられない重さがあります。

返納は事故を防ぐ大切な手段である一方で、「移動の自由」を手放す現実でもあります。車が生活の基盤となっている地域では、返納が“安全”ではなく“孤立”に変わることもあります。老いとは、身体だけでなく心の自由も少しずつ手放していく歩みなのかもしれません。

わたし自身も運転を続けるかどうかで迷ったことがありました。安全への願いと長年の生活のリズムを失いたくない思いは、どちらも大切で、簡単に答えは出ませんでした。だからこそ返納を迫るのではなく、共に考え、別の移動手段を探し、地域で支え合う関係が必要だと思います。

「あなたの道を主にゆだねよ。主はそれを成し遂げてくださる」(詩篇37篇5節)。老いの中にも主の静かな備えがありますように。そしてわたしたちもまた、その光のそばで誰かをそっと支える者でありたいと願います。

2026年02月19日

偉人の中に見る光(ソクラテス)   寄稿者 歴想

ソクラテスの生涯を伝記で読み進めるうち、わたしの中に一つの問いが浮かび続けていました。それは、彼という哲学者の姿を通して、「人間とは何者か」という聖書の問いが、思いがけず身近なものとして迫ってきたからです。

ソクラテスは、自らを賢い者として装うことを拒み、「自分は無知である」と繰り返し語りました。とりわけ、デルフォイの神託をめぐる逸話――「ソクラテスより賢い者はいない」と告げられた意味を探るため、人々に問いを投げ続けた姿――に、わたしは立ち止まらされました。自分が知っていると思い込んでいる限り、人は真理に近づけない。その態度は、「主を恐れることは知恵の初め」(箴言9章10節)という聖書の言葉と、深いところで響き合っているように思われました。

また、彼の対話のあり方も印象に残ります。相手を論破するためではなく、問いを重ねることで相手自身に考えさせる。その姿勢は、イエスが人々に問いかけを通して心を開かれていった場面を思い起こさせます。真理は、上から押しつけられるものではなく、自らの内側で目覚めていくもの――そのことを、両者は異なる時代と背景の中で示しているように感じました。

さらに、ソクラテスの死に向かう姿勢は、わたしに重い問いを残しました。『クリトン』で描かれるように、逃亡の機会がありながらも法の下にとどまる決断をした彼は、「善をもって悪に打ち勝ちなさい」(ローマ12章21節)という聖書の言葉を、結果として生きた人であったように見えます。よく生きることを第一とし、命さえも目的のための道具にしなかったその選択は、人間の尊厳とは何かを静かに語っています。

ソクラテスは救い主を知りませんでした。けれども、高慢を退け、自らの無知を認め、真理を愛そうとした歩みの中に、神がすべての人の心に刻まれた「良心の働き」(ローマ2章15節)を見る思いがします。この伝記は、信仰者であるわたし自身に問いを投げかけてきました。――わたしは本当に自分の無知を認めているだろうか。答えを急ぎ、問いを避けてはいないだろうか、と。

2026年02月20日

寒中にひらく白い約束   寄稿者 花守

冬の公園を歩いていると、思いがけず澄んだ香りに立ち止まることがあります。足もとを見ると、白い花を静かに掲げた日本水仙が咲いていました。冷たい空気の中で、その香りは驚くほどやさしく、けれど確かな存在感を放っています。

日本水仙は、寒さの底にある季節に花茎を伸ばします。地中で力を蓄え、凍える時期を選ぶようにして咲く姿は、不思議な忍耐を思わせます。厚みのある葉も、派手さはなく、ただ黙々と伸びていきます。花は小ぶりですが、中心の黄色がほのかな光のように見え、冬の景色に静かな彩りを添えています。

聖書には「時が来れば、実を結ぶ」という約束が語られています。目に見える変化が乏しい季節にも、神の備えは密かに進んでいるのだと、日本水仙は教えてくれるようです。寒さの中で香りを放つその姿は、希望が決して失われていないことのしるしのように思えました。

二月は、春を待ちながら心が揺れる時でもあります。けれども、この小さな白い花に目を留めると、待つことの意味を思い返します。静かな時を通して与えられる恵みを信じ、今日も一歩ずつ歩んでいきたい、そう思わせてくれる花でした。

2026年02月21日

潤いを待ちながら 寄稿者  季想

二十四節気の「雨水」は、雪が雨へと変わり、乾いた冬の気配がほどけていく頃とされます。庭の土がゆるみ、木々の芽がほころぶ支度を始める――そんな移ろいの中に、造られた世界を静かに潤そうとされる御手の働きを思います。けれども今年は、雨水を過ぎても、空は固く閉じたままのように感じられます。

東日本の太平洋側や西日本では、晴天が続き、二年続けての記録的少雨になる可能性も伝えられています。乾燥注意報の文字が日常の風景となり、肌や喉の渇きに、季節のずれだけでなく、わたしたちの無力さをも覚えさせられます。恵みは当たり前ではなかったのだと、遅れて気づく思いがします。

乾きは目に見えないところにも及びます。流行の続くインフルエンザにとって、乾燥は追い風だと聞くと、被造物の調べが乱れるとき、人の弱さが際立つのを思わされます。室内に小さな加湿器を置くこと、湯気の立つ茶をいれること。ささやかな手当てを重ねながら、守りと支えを与えてくださる方に心を向けたいと思います。

雨水の名が示す潤いは、まだ十分に届いていません。それでも、乾いた日々の中にも、息をつぐほどの小さな潤いは備えられているのかもしれません。目に見える雨だけでなく、心の乾きを潤してくださる恵みを待ち望みつつ、今日与えられている一滴を感謝して受け取りたいと思います。


2026年02月22日

聖句の学び(ヨブ記6-7章)  寄稿者 ホームページ管理人

◇心に留まった聖句
「落胆している者には、友からの友情を。さもないと、全能者への恐れを捨てるだろう。」((ヨブ6:14 )

◇黙想
夜ごとに続く痛みと眠れぬ時間。ヨブは自分の苦しみを量り、言葉にならない重さとして差し出しました。耐え難い現実の前で、人は静かでいられなくなります。

友の言葉は正しく聞こえました。しかし、乾いた谷川のように、喉の渇きを潤すことはできませんでした。正論は時に、寄り添いの代わりにはならないのだと思います。

それでもヨブは、神から離れませんでした。荒れた言葉のまま、神に向かって訴えます。整った祈りではなく、嘆きそのものが祈りになっていました。

「落胆している者には、友からの友情を。」(ヨブ6:14 )。この一節が心に残りました。わたしもまた、誰かの嘆きの前で正しさよりも、あわれみを差し出せる者でありたいと思います。

2026年02月23日

アンリ・ナウエン『神の声を聞く』を読んで  寄稿者 歴想

祈ろうとしても、言葉が出てこない時があります。聖書を開いても心が伴わず、ただ頁をめくるだけの時間が続くこともありました。アンリ・ナウエンの『神の声を聞く』は、そんな沈黙のただ中にいるわたしに、静かに差し出された一冊でした。

本書においてナウエンは、神の声を「努力して聞き取るもの」としてではなく、沈黙と孤独の中で待ち続けるものとして語っています。何かを成し遂げる信仰ではなく、立ち止まり、何もできない自分のままで神の前に在ること。その姿勢が、全体を通して繰り返し示されていました。

読み進めるうちに、わたし自身が神の声を「早く、はっきりと」求めすぎていたことに気づかされました。祈りさえも成果のように求め、沈黙を不安として避けてきたのかもしれません。聞こえない時間を、信仰の欠如と決めつけていた自分がいたのです。

しかしナウエンの言葉は、沈黙のただ中にも、神が共におられることを示します。神の声を聞くとは、新しい答えを得ることではなく、共に在ることを信じ続けることなのかもしれません。今も沈黙は続いています。けれども、その沈黙の中を、祈りつつ歩んでいきたい——そう思わされています。

2026年02月24日

待合室の時計    寄稿者 青梅

病院の待合室で順番を待っていると、時計の針ばかりが気になりました。予約の時間はとうに過ぎ、名前を呼ばれる気配もありません。椅子の硬さや空調の音がやけに耳につき、喉の奥の渇きが、じわりと意識に残ります。心は落ち着かず、早くこの場を離れたい思いばかりが募っていきました。

そんなとき、「自分のことだけでなく、他の人のことも顧みなさい」という言葉が、ふと胸に浮かびました。待つことは、ただ時間をやり過ごすことではなく、同じ場に置かれている人の存在に目を向けることでもあるのだと、そのことが胸の奥でひっそりと残りました。

隣の席では、白い杖を膝に置いた方が、呼び出し番号の紙を握ったまま目を閉じています。同じように呼ばれずにいるはずなのに、わたしの内側だけが苛立ち、狭くなっているようでした。その落差に、自分の心の浅さを見せられた思いがしました。

待たされる時間も、他者と共に与えられた時間なのかもしれません。すぐに穏やかになれなくても、同じ疲れを抱える人がそばにいることを忘れずに歩めたらと思います。焦りや苛立ちを、短い祈りに変えながら、今日の一歩を重ねていきたいのです。

2026年02月25日

飛び梅の季節に   寄稿者  季想

水戸の偕楽園をはじめ、各地で梅まつりの便りが聞こえてきました。まだ空気は冷たく、指先に冬の名残が残るころですが、ほのかな香りが人の歩みをやさしくほどいてくれます。つぼみの奥で、春はそっと準備をしているようです。

二月二十五日は、菅原道真の命日にちなむ「梅花祭」。左遷された大宰府へ梅の木が飛んでいったという「飛び梅」の伝えは、離れてもなお主人を慕う心の物語として語り継がれてきました。事実かどうかを越えて、人の願いが花の姿に託されているように思います。

遠く離れること、思いが届かないと感じること。日々の暮らしの中にも、小さな“左遷”のような寂しさはあります。けれども、声にできない思いが、いつか誰かのもとへ届くと信じる心が、人を支えてきたのではないでしょうか。

梅は、まだ寒さの残る枝に咲き、先に香りだけを放ちます。見えないところで育つ思いもまた、時を経て形を得るのかもしれません。今はただ、静かな期待を胸に、ひとつひとつの季節を受け取って歩みたいと思います。

2026年02月26日

空もいっしょに歩いているみたい   寄稿者  歴想

散歩の途中で、わたしは空を見上げました。
白い雲が、ゆっくり流れていました。
地面ではわたしが歩いていますが、空でも雲が歩いているみたいに見えました。

雲の形は、ずっと同じではありません。
ちぎれたり、くっついたり、うすくなったりしながら、流れていきます。
空の上のほうの雲と、下のほうの雲は、ちがう動きをしています。
空には、見えない川が、何本も流れているみたいでした。
わたしが歩いているあいだも、雲は止まらず、動きつづけていました。

いそいでいる日は、雲がゆっくりに見えます。
心がおちついている日は、雲がはやく流れているように感じます。
本当は、雲の速さが変わるのではなく、
わたしの気もちが、そう見せているのかもしれません。
わたしが立ち止まっていても、空はどんどん先へ進みます。

「神さまは、わたしの歩みをたしかにしてくださる」
という言葉が、心にうかびました。
空を見上げながら、
わたしも神さまに守られて、毎日を一歩ずつ歩いているのだと思いました。

2026年02月27日

聖句の学び(ヨブ記8章)   寄稿者 ホームページ管理人

心に留まった聖句
「見よ。神は誠実な人を退けることはなく、悪を行う者の手を取ることはない。」
(ヨブ記8章20節)

黙想
山道を歩いていると、岩場で根を張れずに倒れかけた草を見ることがあります。風雨にさらされ、踏み固められた土では、力を蓄える場所がないのだと気づかされます。

ビルダドは、神は正しい方であり、神を忘れる者の繁栄は続かないと語りました。「手を取ることはない」という言葉は、突き放す宣告のようにも聞こえます。

けれども、その言葉の背後には、拠りどころの向きを問い返す静かな呼びかけがあるのかもしれません。わたし自身、正しさを保とうとしながら、いつの間にか自分の力に寄りかかっていたことがあります。支えを失った草のように、心が乾いているのに気づくまで、時間がかかりました。

神は誠実な人を退けない、と聖書は語ります。手を取られない現実に出会うとき、それは見放されたしるしではなく、より深いところで神に向き直る機会なのだと思います。今日も、足元の土を選び直すように、拠りどころを主に向けて歩みたいと願います。


2026年02月28日