ソクラテスの生涯を伝記で読み進めるうち、わたしの中に一つの問いが浮かび続けていました。それは、彼という哲学者の姿を通して、「人間とは何者か」という聖書の問いが、思いがけず身近なものとして迫ってきたからです。
ソクラテスは、自らを賢い者として装うことを拒み、「自分は無知である」と繰り返し語りました。とりわけ、デルフォイの神託をめぐる逸話――「ソクラテスより賢い者はいない」と告げられた意味を探るため、人々に問いを投げ続けた姿――に、わたしは立ち止まらされました。自分が知っていると思い込んでいる限り、人は真理に近づけない。その態度は、「主を恐れることは知恵の初め」(箴言9章10節)という聖書の言葉と、深いところで響き合っているように思われました。
また、彼の対話のあり方も印象に残ります。相手を論破するためではなく、問いを重ねることで相手自身に考えさせる。その姿勢は、イエスが人々に問いかけを通して心を開かれていった場面を思い起こさせます。真理は、上から押しつけられるものではなく、自らの内側で目覚めていくもの――そのことを、両者は異なる時代と背景の中で示しているように感じました。
さらに、ソクラテスの死に向かう姿勢は、わたしに重い問いを残しました。『クリトン』で描かれるように、逃亡の機会がありながらも法の下にとどまる決断をした彼は、「善をもって悪に打ち勝ちなさい」(ローマ12章21節)という聖書の言葉を、結果として生きた人であったように見えます。よく生きることを第一とし、命さえも目的のための道具にしなかったその選択は、人間の尊厳とは何かを静かに語っています。
ソクラテスは救い主を知りませんでした。けれども、高慢を退け、自らの無知を認め、真理を愛そうとした歩みの中に、神がすべての人の心に刻まれた「良心の働き」(ローマ2章15節)を見る思いがします。この伝記は、信仰者であるわたし自身に問いを投げかけてきました。――わたしは本当に自分の無知を認めているだろうか。答えを急ぎ、問いを避けてはいないだろうか、と。