山里に差した影 寄稿者 歴想

山あいの集落で、柿の実が橙に色づく頃、すべてを取り尽くさず、鳥や獣のために一つ二つ残す――「木守り柿」という風習があると知りました。分け合う知恵のようで、わたしは静かな温もりを覚えました。

けれども昨年、その情景は別の意味を帯び始めたのです。山里に近づく熊の出没が、報じられるようになったからです。残された柿は恵みであると同時に、境界を越える合図にもなり得る。そう考えたとき、胸の奥で何かが冷えました。

「柿を残すことが、誰かを危険にさらすのではないか」。その思いが浮かんだ瞬間、わたしは自分の善意を疑いました。美しい話を守りたい気持ちと、身を守りたい気持ちが、心の中でせめぎ合いました。正しさよりも、まず安全を選びたいと思った自分を、否定しきれませんでした。

木守り柿の話は、今も消えずに残っています。ただ、それはもう無垢なやさしさの象徴ではありません。怖れを知った上で、それでもなお何を残すのか、何を手放すのか――わたしは答えを出せないまま、その問いを抱えています。神の前に立つ前で、しばらく足を止めたままです。


2026年02月14日