聖書エッセー一覧

新約聖書雑話

聖書と言えば新約聖書だけと思っている人も多い。新約だけまとめて手軽な一冊にもなっている。教会やキリスト教系の教育機関などでは、誕生日、入園、入学、卒園、卒業祝いなどによくプレゼントとして使ったり、父兄に配布している。
聖書贈呈で世界的に大きな運動をしているギデオン協会は学校、病院、更正施設などで訪問贈呈もしている。

クリスチャンでなくても家の書棚に聖書があるとはよく聞く話である。私が教会へ行くきっかけになったのも一冊の聖書からである。

古いことになるが、昭和二十年代、日本中に聖書が配布された時期があったようだ。それは新約聖書全体ではなかった。ヨハネの福音書が『ヨハネ傳』と銘されて、手のひらに収まるほどの小型の冊子になっていた。おもちゃのように小さくて真っ赤な表紙をしていたのですっかり気に入ってしまった。教科書すら満足になかった時代であった。そのころはヨハネ傳も聖書も知らなかった。知っていたのは、教会というところへ行くともらえると、その魅力的な本がもらえるということだけであった。

数年後、私は小さな赤い聖書が作った糸のような細い道をたどって教会へ行くことになった。

私と同じように、ミニチュアのヨハネ傳を通して、どれほど多くの人が教会に導かれ、イエス・キリストの救いに与ったことだろう。この書の果たした役割は測りしれない。

新約聖書は二十七の書巻から成っている。最初の四巻がイエス・キリストの生涯を記している。あとはキリスト後の弟子たちの言行録である。大部分は、パウロという新約時代最大の伝道者が各地の教会へ送った手紙である。以後、今日まで約二千年、正統的なキリスト教会では、旧約も含めて聖書六十六巻を神のことばとして受け止め、正典として重んじ、イエス・キリストを救い主と信じ、聖書の教えに則った活動をし続けている。

聖書六十六巻を愛し、支えられて信仰生活五十年余が過ぎた。その間、この一書の深淵を知りたくて学び舎に通い続けて二十年になる。消化能力は不十分だが、聖書は私の血肉になっていると思っている。そこをベースにして二十七巻を歩いてみたい。断言するが説教ではなく、もちろん講義でもない。一キリスト教徒の聖書雑話である。

2023年01月28日

マタイの福音書

マタイの福音書(章の数は28章) インマヌエルの神イエス・キリスト

新約聖書のトップ、マタイによる福音書は、キリストの12弟子の一人であるマタイが書いた。彼は取税人であった。当時、取税人は支配者ローマ政府から委託され、同胞ユダヤ人から容赦なく徴税した。そのため人々からは、取税人や遊女と、一括りにされて蛇蝎の如く嫌われ憎悪された。陰で私腹を肥やす悪徳取税人も多かった。イエス・キリストはそれを承知で、闇に住むマタイを選んで弟子にした。
福音書のはじめに、イエス・キリストの誕生のいきさつが語られている。マタイはイエスこそ神の子、約束のメシヤであると説く。その証拠を700年前のイザヤ書から引いている。

『見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる』(訳と、神は私たちとともにおられる、という意味である)1章23節

マタイは、神の子イエス・キリストが、自分のような罪人のそばに来てくださり、いつもいっしょにいてくださるという事実に驚嘆し、師を慕って生涯をささげたのであろう。

福音書の終りにも、インマヌエルのイエス・キリストを掲げている。
『見よ。わたしは、世の終りまで、いつも、あなたがたとともにいます』28章20節

神が自分に付き添ってくださっている、この事実によってどれほど多くの人が救われたことだろう。物理的に独居の人、心の孤独に苦悩する人、失意に沈む人など、人はいつも孤独である。インマヌエルの主を我が主、我が神、我が友として受け入れたいものである。 

2023年01月29日

マルコの福音書

マルコの福音書(16章)かいがいしく働く神イエス・キリスト

新約聖書の初めの部分はイエス・キリストの生涯を記録した4つの福音書が位置している。マルコによる福音書は2番目になるが、4書のうち一番早く書かれたという。

マルコはイエス・キリストの直弟子、いわゆる12弟子ではない。生前のイエス・キリストには会ったこともない。マルコは一番弟子のペテロから折に触れて聞かされた話を正確に記録したと伝えられている。

この書にはイエス・キリストの誕生物語はない。いきなり、イエス・キリストの宣教から始まる。第一声は『時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ』である。この力にあふれた呼びかけは、2000年の歳月を越えてすぐそばで聞こえてくるようだ。このひと言からキリストに従った人は数知れない。

イエス・キリストは、確信に満ちた力強いことばで伝道しながらユダヤ全国を飛ぶように巡回した。ことばの人(神)であったが、同時に実行力にも長けていた。この書からは働きに働くイエス・キリストの姿がくっきりと見える。

世には座して道を説くだけの宗教家が多い。しかし、イエス・キリストはいつも歩き走っていた。嵐の海(ガリラヤ湖)の中も突き進んだ。寝食を忘れて働いた。弱っている人を励まし、病人を癒し、罪人を赦した。こんなにまめまめしく身を粉にした働く神がいるだろうか、なんと頼もしい神だろう。

身をもってお手本を示したイエス・キリストは、この書の終りでその使命を弟子たちに、さらに後の世に託している。次の言葉は遺言とも言える。

『全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい』16章15節

文字通りこのことばに生きるのが教会でありクリスチャンではないかと、怠慢な自分を省みつつしきりに肯かされている。

2023年01月30日

ルカの福音書

ルカの福音書(24章) 医者の書いたイエス・キリスト
 
新約聖書3番目はルカによる福音書。ルカはユダヤ人ではなく異邦人であり主にギリシャ人を対象にして書いたという。職業は医師であった。

この書は聖書の中でもたいへん読みやすく、美しい楽しい物語が多い。中でもイエス・キリストの誕生の記事は抜きんでている。天使ガブリエルの受胎告知、マリヤの賛歌、ベツレヘム郊外で野宿する羊飼いたちへの、天の軍勢による誕生の知らせなど、あまねく世に知られるクリスマス物語はすべてこの書に由来する。これをもとに、古今の芸術家たちは名作を創作していった。

この書には、王室の役人から金持ちの門前で食を乞う病人まで多種多様の人々が登場する。特にイエス・キリストは社会的弱者に近づき、彼らの心身をいやして福音を伝えた。その様子がていねいに綴られている。たとえ話の放蕩息子や、エリコの取税人ザアカイの悔い改めの場面は、深く心を動かされ何度読んでも新しく感動する。

神の御子であるイエス・キリストが人となられて、どんなに人間と密着して働いたか、どんなに愛と赦しを注がれたかが、自分のことのように伝わってくる。たしかに、イエス・キリストは、神に背いた放蕩息子であり、非道なザアカイであった私を、捜し歩いて、救ってくださったのだ。

この書を代表するみことばをあげなさいと言われたら、ためらわずこれに決める。

『人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです』19章10節

2023年01月31日

ヨハネの福音書 その1

ヨハネの福音書(21章) その1 ロゴスなる神・はじめにことばあり

この書の冒頭部分はあまりにも有名である。好んで暗誦され、よく引用される。

『初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった』

私が10歳そこそこで手にしたのはこの書であった。15歳で受洗したとき、教会から文語訳の旧新約聖書をいただいた。最初に開いたのは当然ながらこのヨハネであった。文語訳では『ヨハネ傳福音書』であった。字面の意味さえ難しかったが、文語のリズムとともに今でもたくさんの聖句が魂に刻みつけられている。そのいくつかを文語体で掲げてみる。

1章1節
『太初(はじめ)に言(ことば)あり、言は神と偕(とも)にあり、言は神なりき』

3章16節
『それ神はその獨子(ひとりご)を賜ふほどに世を愛し給えり、すべて彼を信ずる者の亡(ほろ)びずして、永遠(とこしえ)の生命(いのち)を得んためなり』

8章37節
『人もし渇かば我に来りて飲め。我を信ずる者は、聖書に云へるごとく、その腹より生ける水、川となりて流れ出づべし』

11章25節
『我は復活(よみがえり)なり、生命(いのち)なり、我を信ずる者は死ぬとも生きん』

この書は学べば学ぶほどさらに学びたくなる書と聞く。一方で、くり返しくり返し、読んでは祈り、祈っては読むのに最適である。原文や外国語で読めなくても、数種類の日本語訳を読むだけでも深い真理に導かれるだろう。

2023年02月01日

ヨハネの福音書 その2

ヨハネの福音書 その2 ロゴスなる神・我は道なり、真理なり、生命なり

この書の各所で、イエス・キリストは御自分について紹介している。それによってイエス・キリストが神の子であることがよく理解できる。いくつかをピックアップしてみる。

6章35節
『わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません』

8章12節
『わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです』

10章9節
『わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます』

10章11節
『わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます』

11章25節
『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです』

14章6節
『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです』

15章5節
『わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです』

人生の様々な戦いに傷つき疲れ果てたとき、イエス・キリストの『わたしは……です』という力強い宣言にどれほど助けられ励まされ、希望を与えられたことだろう。この世だけでなく、死後の世界まで保障してくださっている。
最後に聖書のまことの筆者である神様は、代筆者ともいえるヨハネに、この書の書かれた目的を明記させている。深い愛のみ心の発露である。心して受け取りたいものである。

20章31節
『これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである』 

2023年02月02日

使徒の働き

使徒の働き(28章)世界を駆け巡る福音

新約聖書5番目の本書から、時代はイエス・キリスト後に移る。人となった神イエス・キリストは十字架の死と復活によって人類救済の偉業を成し遂げ、天に帰った。もう地上には人間イエスはおられない。しかし、聖霊となった神(イエス・キリスト)は、人の心の中に住み、弟子達を愛し、導いていく。

聖霊の力によって、別人のように強くなった弟子たちは、イエス・キリストの福音を抱えてエルサレムから出て行き、ユダヤ、サマリヤ、さらに地の果てにまで伝え広めていく。彼らは権力者の前でもひるむことなくイエス・キリストを伝え、言葉とわざにおいて、あたかも生前のイエス・キリストのようである。

彼らの働きを記したのがこの【使徒の働き】である。それはまた福音の足跡であり、聖霊の旅でもある。

本書の初めは、12弟子のリーダー格であるペテロが都エルサレムで一大説教をし、その日一日だけで3000人もの人々が信者になった記事がある。最終章28章では、キリスト後に弟子になったパウロが、なんとローマ帝国のど真ん中で、福音を語っている。

その後の歴史は、ペテロもパウロも迫害のために殉教したと伝えている。ローマの皇帝たちはキリスト教を目の敵にし、なんとかして撲滅しようとやっきになったが、キリスト教はますます勢いを増し、ついにコンスタンティヌス帝自身が信仰を持ち、AD313年にはミラノ勅令が出され、キリスト教はローマ帝国の公認宗教となった。(これは新約聖書後の歴史の事実である)聖霊のみわざとしか言いようがない。

1章18節
『しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなた方は力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります』

28章30節
『こうしてパウロは満二年の間、自費で借りた家に住み、たずねて来る人たちをみな迎えて、大胆に、少しも妨げられることなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた』 

2023年02月03日

ローマ人への手紙 その1

ローマ人への手紙(16章)信ずるだけで義とされる その1

この手紙はパウロがローマの教会に宛てたものだが、パウロはこの教会に行ったことも教会の人と面識があったわけでもないといわれている。

手紙の内容はキリスト教の教理が理論的に述べられていて、まるで教科書のようである。この書を読めば、キリスト教とは一体どのような宗教なのかが判然としてくる。

パウロが一番強調している教理は、救いの本質にかかわることで、罪人である私たちが神様のみまえに罪のない人、義人と認められる(救われる)唯一の方法は、イエス・キリストを信じる信仰だけである、その他にはなんの条件もないということである。非常に単純で明快な理論であり、説得力に富む文章が脈々と連なっている。中心的なみことばを肯定しそこに立つとき、自分自身の信仰の枠組みががっしりと構築される。

救いに導く有名なみことばをいくつか書き出してみる。
1章17節
『なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる。」と書いてあるとおりです』

3章23、24節
『すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです』

4章25節
『主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです』

5章8、9節
『しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです』

6章23節
『罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです』

クリスチャンはこの書のみことばをいつくも暗誦している。それらは魂の血肉になっている。時に触れ折に触れては思い出し、美味な食物を味わうように咀嚼すると、救われた喜びと感謝があふれてくる。 

2023年02月04日

ローマ人への手紙 その2

ローマ人への手紙 信ずるだけで義とされる その2

この書簡は、前半で、キリスト教の教理を整然と展開しており、それは建物を支える強固な鉄骨のようである。キリスト教は耐震強度抜群の高層ビルのようだ。

この書の頂上とも言える8章以下は、キリスト者が信仰を貫いて生きていくための杖となる方法や考え方が具体的に掲げられている。それらのみことばを見ると、ひとつひとつに思い出がある。患難、困難、病気、貧困、無力感、失望感、孤独感、疎外感、人間不信など様々な問題に襲われて苦悩の中にあったときの頼もしい武器であった。
しかしみことばは思い出の品ではない。今も生きていて、今日の助けにもなるのである。

いくつかを抜き書きする。
8章26節
『私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます』

8章28節
『神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています』
8章31、32節
『神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう』
私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう』

8章37節
『しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです』

10章9、10節
『なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです』

12章11~15節
『勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。 望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。 聖徒の入用に協力し、旅人をもてなしなさい。あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません。喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい』 

2023年02月05日