故郷の山と人生の友                   石垣 亮二
私は北海道夕張市に生まれ、高校時代までの少年時代を過ごした。
夕張には代表的な山が二つある。夕張岳と冷水山という山である。夕張岳は標高千六百六十八メートルで、高山植物に恵まれ花々が豊富に咲いて、脚本家田中澄江氏より「花の百名山」にも選定されている。もうひとつの冷水山は標高わずか七百二メートルだが、現在は日本でも屈指のスキー場として知られている。
この夕張岳へは私が中学三年生の時、兄や友人たちと共に一泊登山をした思い出がある。頂上からの眺めは壮大で、大自然の素晴らしさに息を飲む思いであったのを昨日のように思い出す。

また冷水山では少年時代のわんぱく仲間とスキーを担いで、日帰りのスキー遊びを何度も何度も楽しんだ。
神さまは、この雪深い夕張の地で私に家族の絆を教えて下さり、多くの忘れられぬ恩師に巡り合わせて下さった。そして私にとって何よりも素晴らしい人生の友人を与えて下さった。間もなく喜寿を迎える現在も、年に一度は数人の仲間との一泊旅の逢瀬を楽しんでいる。
神様の摂理というべきか。私の家族と恩師と友人仲間を通して、私の人生に深くそして熱く関わって下さる神様へ感謝している。


一本の杖                        遠藤 幸治
教会に導かれ、聖書を読むようになったころ『狭い門から入れ』とのマタイ七章13節のみ言葉に心を惹かれた。
これから登る人生の山は険しいので、この杖を頼りに登りなさいと、神は信仰という一本の杖を与えられたのだ。
たどってきた道を振り返ると、戦争中に類焼によって路頭に迷ったこと、その後、日本経済が発展する中で、昼夜を問わずがむしゃらに働き過ぎ、三十歳の時尿毒症になって危い目に遭ったこと、不思議に癒されたことが思い浮かぶ。
四十代半ばから自営の道に進み、ようやく仕事を後の者に託し、これからは妻と二人で旅でもして気楽に暮らそうと思っていた矢先、透析が待っていた。一日置きにベッドに繋がれるが、神は祝福の場に変えてくださった。

他にも目に見えない、越えなければならない困難な山がたくさんあったが、若い日に頂いた信仰の杖を頼りに、今は八一歳になった妻の後押しもあって乗り越えてきた。
最近、この杖にも手垢が付いてきていることに気づく。神の前に絶えず悔い改め、主の聖餐
を重んじていきたいと強く感じている。
 『キリストにあるならば日々新たなり』聖書

    

あの日                        西山 純子
「そうやってお前がゆっくり坐っていてくれると、とても気が休まるよ。」ベッドから父は声をかけてきた。
私はめずらしく、縁側の日だまりの中で、子どもたちの遊び着のほつれを繕っていた。   
庭の樹木が若葉を茂らせているのが快かった。   
その折の父がどんなに孤独であったか、私には理解できなかった。
「なかなかそうもしていられないのよ」と、私は半ば父に弁解するように、半分は身に余る忙しさの中に置かれている自分を慰める思いでつぶやいた。
母の突然の死、兄の発病、そして父の病と立て続けに襲った出来事の中で、一日を生きるのが精一杯な日々。

あの時の私は、突然立ち塞がった険しい山の頂を前に、慄然としながら精一杯もがいているばかりだった。
父との貴重な安らぎの時間を無にしてしまったのではなかったか。長い年月、私はこの傷みを忘れずにいた。そうして今、ようやく柔らかな赦しの時をいただいている。
「もう、いいよ。充分にわかってくれてるじゃないか」
父の声に重なって、神の頷いて下さる姿も見えるようだ。

    

すきま富士                      亀井 正之
ここは東京杉並の端っこである。いつも通っている図書館に行く途中にゴルフの練習場がある。台風一過珍しく良く晴れたその日、そのゴルフ練習場の網に向かってカメラを構えている人がいた。
この練習場は、高台にある。よく見ると網に囲まれた向こうは、結構遠くまで見渡すことができた。といっても高い建物などが見えるだけであったが。サラリーマン風のその人は何にカメラを向けているのかわからなかった。私は立ち止まってその人に聞いてみた。

するとその答えはとても意外なものであった。「富士山を撮っているんです」とちょっと照れながらその人は言った。「えっ、どこに…?」私は目を凝らして見たがとても肉眼では見えない。
「あの向こう、あの遠くに見えるビルの間に富士山が見えるんです」
最近遠くからそれも大きなビルなどの隙間から見える富士山を超望遠で撮るのが流行しているのだそうで、それを「すきま富士」というのだそうだ。
チクリと胸が痛んだ。私は天地をお創りになった偉大な神をすきま富士ほどに発見しようとしているだろうか。『あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。』(箴言三・6)

    

父を想う                       安東 奈穂美
開業間もない北陸新幹線、教会の鉄道ファンの仲間と行く日帰りの旅である。
停車駅の中に「糸魚川駅」がある。二十年以上前に亡くなった父の郷里である。長野を過ぎ、次第にその駅が近づいてくると子供のように期待が高まった。
座席を離れ、デッキから車外を眺める。少し前までは曇っていたが、急に雪の残った山並みが見えた。(山だ!)心の中で叫んだ。

父を育んだ空気をつくった山々。いつまでも離れたくない気持ちだった。もう地上では会えない、穏やかで優しかった父に再び会えた気がした。ここに来れば、いつでも父を感じられるのだと思った。
大きな山を見ると、心には懐かしさと共に、思慕の情や憧憬の気持ちが広がる。同時に、何か厳かなものも感じるのである。自分の意識を越えたところで創造主を感じ、畏敬の念を抱くことの表れかもしれない。
聖書の一節が思い浮かぶ。
 『私は山に向かって目をあげる。
 私の助けは、どこから来るのだろうか。
 私の助けは、天地を造られた主から来る』
父の故郷に続く山々は、今日も雄大にそびえ立っているだろう。

    

どこから来る                      荒井 文
「朝はどこから来るかしら/あの山越えて、野を越えて/光りの国から来るかしら/おはよう/おはよう」
戦後間もない頃ですが、私が小学生のとき毎日のようにラジオからこの歌が聞こえてきました。
私は、この歌から自然のすべてのことを考えるようになりました。
三年生の時、群馬県草津町に引っ越し、はじめて登山を体験しました。白根山の頂上から見た自然の美しさ、連山のすばらしさを感じ、こんな美しい風景を誰がいつ、どうやって創ったのかを知りたくなりました。
高校生になり、キリスト教主義の学校に入学。はじめて神様の言葉といわれる聖書に出会ったのでした。聖書の創世記には、この世のすべてのもの、人間をはじめ、自然のすべてを創られたのは神様だと記されていました。ところが、あんなに知りたかったのに信じられませんでした。

数年後に、どんなに頭が良くて器用でも、天地創造の業は人間にはできないと思い、神様のいることを信じました。
 『私の助けはどこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る』
                            (詩編一二一1~2) 

    

明治から平成へ                    島本 耀子
母は曾祖父の秘蔵の孫娘だったと聞く。その祖父の死を前に、遺産分割を迫った大叔母達の忌まわしい姿は記憶の底に深く刻まれ、戦後の民法改正による平等な相続権を放棄して、ただ一人の弟に譲った。明治生まれの母は、旧民法の世界に生き抜いたのである。
母は、大叔母達が要求したあの土地だけを相続した。私には、祖父から孫へ贈られた土地だとしか思えない。今は平地だが、地目は「山林」である。父は退職後、竹や木の根と格闘して、小さなアパートと家を建てた。

母が亡くなると、アパートの跡地は三人姉妹と兄弟と、その妻の七人に贈るとの遺言があった。
母の方針が姉妹は兄弟を支えるべき存在だから、「嫁たち」への遺贈分は姉妹よりも多い。兄弟の家の相続税の一部は、税理士の計算で姉妹も分担した。世にいう「争族」とならないために、皆で穏やかに話し合った。
母の還暦から百三歳で亡くなるまでの四十年余り、自分たちの加齢は顧みず母を支えてきた。
母は最期まで旧家の娘としての誇りを保ったが、多くの山坂を超えられたのは、母が共にいたお蔭でもある。跡取りの兄は実家を売り、有料ホームに入った。
山坂は遥か彼方に消え、今はすべて平安のうちにある。

  

山に魅せられて                    佐藤 晶子
高校生の夏休みに北アルプスの剱岳に登る機会を得た。それまでのハイキングとは異なり、縦走と名の付いた本格的な登山と知り、得体の知れない不安が私を襲った。それでも私は気を取り直して参加することにした。
濃霧で一寸先も見えなかったのに、突然視界が開けた時には辺りは一面のお花畑。
悪天候で仕方なく宿泊することになった小屋で眺めた朝日の美しさや、道中ですれ違う度にかけ合う挨拶。それらの体験は、重い荷物と長時間の歩行で体力の限界を覚えた私への、神様からのプレゼントだったのだろうか。

『目をあげて、わたしは山々を仰ぐ。わが助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る。天地を造られた主のもとから』( 詩篇一二一篇 新共同訳)
長男を連れて通っていた教会で、この詩篇を歌う讃美歌に出会い、目が開かれた。私たちをいつも守ってくださるのは、天の父なる神様お一人であると知って心強く思った。
これから先、どんな困難な山に登らなければならないか今は知る由もないが、その度に神様は必ずみ言葉によって導き、豊かな恵みで満たしてくださるに違いない。私はそのお方に信頼して歩んで行きたいと思う。

    

夏の思い出                       臼井 淳一   
ある夏の日に、アイリーン・ウエヴスターースミス先生と大学生だった吉田君と私は、清里の駅から八ヶ岳の南麓にある清泉寮を目指して、今にも覆い被さってきそうな草深い砂利道をとぼとぼと登って行きました。大学生を対象にしたキリスト教の修養会に参加するためでした。
この辺境な地の開拓者であるポール・ラッシュ博士が行っている数々の偉業など知る由もなかったのですが、どうやら先生と博士は旧知の間柄だったようです。

それから三十年経った平成七年の夏に、私は近所に住む中学生を連れて再び清里の地を訪れました。あの草深い砂利道や高原は見違えるほどに綺麗に整備されておりました。
その美しい景観や涼風を満喫しつつ、博士が信仰を持って進めた清泉寮を始め、モデル農村センター建設状況、教会や保育園、高冷地野菜の振興状況などをつぶさに学習して回りました。
生徒たちを連れてそこを何度か訪ねた折、八ヶ岳連峰を背に建つ大きな石柱を見つけました。
そこには詩編一二一篇『われ山に向かいて目をあげん わが助けはいずこよりきたるべきぞ』と刻まれていました。

    

信仰と山登り                      富岡 国広
私は登山の経験が全くない。
なのに、そこで神への信仰と山登りとの共通点につき当った。山登りで何よりも大事なのは、危険から身を守るためにも、山のことをよく知る必要があるだろう。
同時に、万一に備え、装備には万全を期す、ということだろうか。
信仰もそれと似ていて、神がどのようなお方かをよく知る必要がある。
単に「神は全て御存知」と口にするだけでは、苦難の時に何の助けにもならないに違いない。正に、信仰のある・なしは、苦難の時にこそ真価が問われるだろうから。

生兵法は大怪我の基とのたとえがある。
浅知恵に頼ると身のためにならないといった意味か。やはり、信仰でも山登りでも、初心者
なら経験豊かな者から学ぶことは多々あるはずである。
どんなに年齢を重ねても人は誰しも完全にはなれない。故に学びには終わりがないとも言えるのではないか。
こうして、神への知識が増し加えられ、確信が与えられ、山を登るように一歩また一歩と信仰の高嶺を目指し歩み続ける者とされるのであろう。

   

ウスユキソウに励まされて                 槇 尚子  
岩手県に早池峰山という山がある。早池峰ウスユキソウが有名で、エーデルワイスの仲間の花である。
小学生の娘たちを連れてある夏、その山に登った。四十代前半の私は体力には自信があったはずだが、すぐに息が上がり足がふらふらになった。かたや娘たちはたいして疲れも見せずに歩き続けた。下ばかり見てやっとの思いで山道を歩いていた。

頂上近くにウスユキソウを見つけた。その神秘的な美しさに何とも言えない力を感じた。斜面にびっしりと咲く花、薄い毛で覆われ真ん中にかすかな黄色の芯がある地味な花だった。スイスの『エーデルワイス』の歌でよく知られているロマンチックな花は自分が人々から愛でられていることも知らず、ただ咲いていた。あんなに苦しかった登山がいつの間にか山草を楽しむ道行きになった。会いたいと願っていた花に出会えた嬉しさで、しっかり目に焼き付けて下山した。目を上げたからこそ見つけた花だった。
何のために山に登るのか、そこに山があるからと言われる。登りの山も下りの山もある。思いもかけない山が目の前に現れた時、登るしかない。しかし神様はきっとそこに何かを備えてくださる。

山と空と                        森田 勝之
数年前の八月、カナダのブリティッシュ・コロンビア州の北にあるフォート・セント・ジョンという町にしばらく滞在した。北緯六十度近くにあって、カナディアンロッキー山脈に囲まれている。アラスカまで荷物を運ぶトラックの中継地点となっている。 
町の名フォートは「砦」を意味する。その名前の通り、空を突き刺すように伸びる山脈が、外の世界を拒絶するように遮っている。滞在して数日後には一種の「息苦しさ」を感じ始めていた。
ふと見上げると、青い空がまるで半透明のテントのように広がっていた。それは、数時間前にアイスランドの人々が眺めた空かもしれない。半日前にはフィンランドの町を覆っていた空かもしれない。そう想っていると、この空の下で何年も繰り返されてきた人々の生活や息遣いが感じられた。

キリストは山上の説教の終りに、天国へ入りたいと思えば、御教えを実行するように説いた。
空を見上げながら、山と空、山上と天国が出会うという不思議な感覚がしていた。この感覚が、山上の説教の最後に登場する生活という「土台」と人生という「建物」のことだったと、後になって気付かされた。

  

山のあなた                        駒田 隆
上田敏の名訳で知られるカール・ブッセの詩『山のあなた』は、よく口ずさんだものです。「山のあなたの空遠く/「幸い」住むと人のいふ。/噫、われひと々尋めゆきて、/涙さしぐみ、かへりきぬ」、と始まるこの詩の言葉に、わたしは魅せられました。
そしてわたしは、幸いを求めて、何回この山のあなたを捜したことでしょう。自分が努力を重ねれば、きっと幸福は得られる、途中で帰ることはまだまだ力が足りないのだ、と思って自分を励ましたものです。しかし、結局は、「涙さしぐみ」戻ることになりました。

けれども、自分に頼ることを捨てたとき、そこに思いもかけない展開が待っていたのです。自分が、自分が、と言う気持ちを捨てた時に、それが見えて来たのです。今までは、自分が努力すれば必ず得られる、と思っていた「幸い」が、その思いを捨てて、至高の存在にお任せした時に、その山のあなたはわたしの前にありました。
「山のあなたになほ遠く/「幸い」住むと人のいふ」そうなのです。「幸い」住むところが、彼方に見えてきたのです。イエスが、手を振って招かれている、その山のあなたへの入り口が、見えてきたのでした。

山懐に包まれて             長谷川 和子 
伊香保温泉への高速道路を走っていると、やがて右側になだらかな赤木山が見え、正面に子持山、左に榛名山が見えてくる。
山を見ただけでホッとするのは何時ものこと。雄大な山に出会うだけで安堵するこの気持は新潟県の南西、四方山に囲われた田園風景豊かな村で育ったせいだろうか。「山に抱かれていたのだ」との思いは関東に住んでから実感として気づかされたこと。
我家は父が酒乱のため、幼い頃から平穏な日々はなく、南の彼方の三つの山を見上げては、「山の向こうから優しい小父さんが助けに来てくれないかと切実に思っていた。

『わたしは山に向かって目をあげる。わが助けは、どこから来るであろうか。
わが助けは天と地を造られた主から来る』
一七歳でこの聖書のことばに出会ったとき、私の願いが凝縮されていると衝撃に似た感激を味わったものである。その後、「わが助けは主からくる」と称えつつ、三つの山を見上げては我が家族を守り導いて下さいと祈ったものである。
埼玉に住んで三〇数年、山は何処にも見えない。だが澄み切った冬空の彼方に秩父連山がうっすら見えたとき、歓喜に包まれる。

    

愛と信仰を備えて                    志田 雅美       
一度だけ、夫と山登りをしたことがある。栃木県日光市の中心部にある、鳴虫山という標高一一〇三・五メートルの山である。その日、わたしたちはハイキングをしていて何気なく登山口に足を踏み入れた。二人とも軽装のまま十分な備えもしていなかったが、若さと体力があればなんとかなるだろうと、安易な気持ちでの初登山だった。
わたしたちは軽快な足取りで登山道を歩き始めた。道はなだらかで見通しも良く、樹木の隙間から射す太陽の光や、鳥のさえずり、なにもかもが新鮮で心地良かった。が、登るにつれて山は表情を変え、道はどんどん険しくなっていった。生い茂った雑草や盛り上がった木の根に足をとられ、一歩踏み出すごとに気力体力を失っていった。その時ほど、「備えあれば憂いなし」と痛感したことはない。浅はかだったと後悔したが、後の祭りだった。

あれから二〇年。もはや、わたしには山に登る体力はない。夫も亡くなり、健康も失った。しかし、代わりに信仰が与えられた。イエス・キリストの愛も賜った。おかげで憂いはない。愛と信仰があればなんとかなるだろうと、安らかに暮らす今日この頃である。

谷と山                         松下 勝章
神さまは、明らかな預言や摂理とは別に、何気ない出来事を通して何かをそっと語られるのかもしれない……。
阪神大震災が起こる前、仕事でミスをして、工場に左遷された。突然、「工場へ行け!」と命じた上司の名は『谷津』という人だった。
(嗚呼……)と、呻きつつ異動に赴いた先の岐阜県のド田舎の、墓場横の職場には、『谷』という同僚がいた。まさに谷底のような職場で現場仕事に汗を流した。自分でも、なぜ此処に来ないといけなかったのか、薄々はわかっている。裁きなのだと想う。交通事故を二回やってしまった。
そのうちの一回は、もう少しで人を殺していたかもしれない事故だった。けれど、振り返れば、あの異動のために、震災の被災から逃れていた自分や家族がいる。また、その地で、次女(光歩)が与えられた。

その後、再々々就職した。路上で、ふと高校時代のラグビー部の先輩に出会った。誘われるまま、高校時代の仲間の集まりに導かれた。『山口』という今では、大企業の社長をしている同級生と再会した。銀行の支店長、開業医、電鉄企業の社長、専務、大阪弁護士会副会長、元首相のステートメントを考えたという高級官僚T氏ら、元仲間が待っていた。

信仰の山                       土筆 文香
信仰を山に例えると、洗礼を受けた時はまだ麓にも着いていなかった。
三浦綾子の本を読んで自分の罪が示され、教会へ通うようになった。イエス・キリストを信じれば、罪を赦してもらえると聞いて、洗礼を受けた。ところが、罪が赦されたかどうか確信が持てなかった。洗礼を受けたのに、罪を犯してしまう自分にがっかりして教会を離れてしまった。
転機が訪れたのは長男を出産するときだった。難産で四八時間苦しんだとき、「やっぱり神様なんかいなかったんだ」と思ってしまった。でも、その次の瞬間に長男が誕生した。  
両手を握りしめ、大きな口を開けて全身で泣いている我が子を見て、感謝の気持ちでいっぱいになり、涙があふれてならなかった。 

神様がこの子を造り、いのちを与えてくださったのだ。不信仰の自分を赦してくださいと祈った。ようやく信仰の山の麓にたどりついたのだ。
我が子にも創造者である神様を伝えたいと思い、再び教会へ通うようになった。こうして信
仰の山登りの一歩を踏み出した。
それから三〇年。まだ中腹にも至ってないが、山の頂を仰ぎながら一歩一歩登っている。

新たな山に向かって                   篠田 一志
教会の友人から、クリスチャン・ペンクラブのことを教えてもらったときは嬉しかった。すぐにでも入会したいと思った。
しかし、日が経つにつれて決心が鈍ってきた。日常の手紙や仕事の上で必要な文章以外ほとんど書いたことがなく、まして、あかしの文章など作った経験が無いからだ。
どうしょう。例会の日が近づいてくるのに、ブレーキを踏んだようで一歩も前に進むことができない。
祈ろう! そう思ってわたしは祈った。祈っているうちに、ブレーキとなっていた本当の理由がわかってきた。
「拙い文章」と笑われるかもしれない。そう思って恐れていたのだ。

クリスチャン・ペンクラブに入会して、他人から褒められたいのかといわれているような気がして、体が熱くなってきた。
「いいえ、違います。神の栄光を伝えたいのです」
わたしはしっかりした声で答えた。
すると、今まで踏んでいたブレーキから解き放され、クリスチャン・ペンクラブでの学びという新たな山に向かって、一歩踏む出す勇気が与えられた。 

神を探して                      三浦 喜代子
四十年前の夏に、就学前の娘たちや妹家族いっしょに奥志賀高原に遊んだ。毎日ロッジの裏山に付近の沼めぐりにと、狭い起伏の多い山道を元気に歩いた。
まもなく父母と犬吠崎へ出かけ、灯台下の磯の岩を飛び越えたり、海水浴をした。続いて教会学校のキャンプがあった。
「今年の夏は山にも海にも行けたね」、「いつもの夏よりずっと楽しかったね」
幸せな思いに満ちて、感謝し合った。

八月末の残暑厳しい朝、私は自転車で近所に出た。信号が変わって、車たちがいっせい走り出したその一瞬、左折するトラックの後輪に巻き込まれた。足一本失う危機にさらされ、夏の思い出は木端微塵に砕け散った。
神様は私の幸いをもぎ取って山のあなたへ去ってしまった、こんな足ではもう二度と海にも山にも行けない……。
くり返される手術の中で、私は神様を探して苦悩苦痛の闇底をさまよった。
しばらくして気が付いた。神様はどこにも行かず、ずっと私のそばにおられたのだ。私が神
様を見失っただけであった。
怪我は最悪を脱し、起居の動作に大きな不自由はなく、何よりも生きる希望が生まれた。

知恵子の山                       長山 知子
「知恵子は東京には空が無いといふ。ほんとの空が見たいといふ。
私は驚いて空を見る。桜若葉の間に在るのは、切っても切れない昔なじみの空だ。
どんよりけむる地平線のぼかしはうすもも色の朝のしめりだ。知恵子は遠くを見ながらいふ。安達太良山の上に毎日出てゐる青い空が知恵子のほんとの空だといふ。あどけない空の話である。」
彫刻家、高村光太郎が妻である知恵子を書いた詩である。私は、山があってこそ空があると思っているので、知恵子の気持がよく分かる。
海は砂場である波打ち際があって、自然の美しさも感じるのである。山もなく、家と平地だけの空には味がない。

私の故郷、静岡県三島市も伊豆の山々に囲まれている。しかし、新聞記事で福島県の安達太
良山を見て驚いた。山の深さが伊豆の山より深く感じたのである。
知恵子と私はよく似ている。高村光太郎は台東区下谷出身、私の夫は上野桜木生まれ育ちだ。
上野の空が一番だと思っていたが、今は千葉県柏に住んでいる。二人で人生の山を登っている。

   

伝わってくるもの                     山本 千晶
興味深く見続けている番組がある。「日本百名山ひと筆書き踏破」。登山家で作家の深田久弥が記した日本百名山を一切の交通機関を使わず自分の足だけで踏破しようとする若者が紹介されている。南は屋久島から北の利尻岳まで全行程七八〇〇キロ。その登山の様子を山ごとに紹介する番組。
二〇一四年春に始まり、秋には予定通り井百座踏破完了。六一座目の富士山登山時を節目に彼の姿は、それまでと変わったように思えた。それまで断崖絶壁等、困難な状況に遭遇しながら、いつも鍛え抜かれた体力、訓練された判断力で力強く乗り越えていた。

しかし、富士山という世俗的に親しまれ誰もが登ってみたい、と思えるような山が以外にも過酷な登山になってしまった。登り始めに肩を脱臼した。「力んじゃいましたね」と、痛みと戦いながらの登山になる。八合目あたりからは高山病に苦しむ。山頂直下の鳥居をくぐり、最高峰の剣ヶ峯まであと一歩のところで強風に阻まれる。急く心を抱きつつ風がやむのを待ち山頂に。
数々の山を踏破してきた彼の逞しい表情がこの日、がらりと変わって見えた。
「この山を登れて幸せ者です」
清々しい彼の声から伝わってくるものがあった。

道しるべ                         前原 薫
イギリスに留学していたときのことだった。ある山を、地図も持たずに駆け回ったことがある。
体力には自信があったし、方向感覚はある方だと自覚していたので、大丈夫だと思っていた。
しかし、峰を歩いていると急に霧が立ちこめ、何も見えなくなってしまった。完全に迷ってしまったのだ。立ち止まって、自分の力を過信していたことに気づいたが後の祭りだった。
目的地へのルートも分からず不安を覚えながら歩いているうちに日が沈み、やむなく、野宿をすることにした。遠くの方に町の明かりが見えていた。

朝になって、辺りを見るとそこは登山道ではなく、周りで羊が草を食んでいるのだ。とにかく下山しなければと思い、町の方に向かっていると、犬の散歩をしている人がやってきて、「なんでこんなところを歩いているんだ」と笑われた。しかし、私の心は平安だった。温かいその人の声が、まるで「私から離れるな」という、神様の声に聞こえたのだ。
神様がこの人を送ってくれたのにちがいない。そう思って私はその人の後を歩いた。

微分積分の山を越えて                   田中 明美
三年前、近くの算数教室の門をたたいた。中学まで数学は得意な科目だった。ところが高校に入ったとたん、授業に付いて行けず辛かった。分らぬ物があるのはとても悔しいことだった。
初めて塾に行った時先生は「私、クリスチャンです」と言われた。仏教王国の富山でクリスチャンの先生に出会い、主のお導きを感じた。先生は「あなたの目標とする微分積分までは十年かかります。私生きてないかもしれません」と言われた。

教室に通いプリントをこなす毎日へと一変した。一年半を過ぎた頃それまで順調だった学びのペースがガクンと落ちた。因数分解の厚い壁である。説明を聞いても呑み込めず、何度も質問した。
三年目に、もうすぐ微積に入りますよとの嬉しいお知らせがあった。微積を終えると終了試験を受けるように勧められた。
二五年振りのテストは大変だった。これを始めるに当たって与えられた『神はあなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです』(ピリピ二・)が支えだった。
小さな者への神様からの大きなプレゼントだったと思う感謝の日々である。

露天風呂に誘われて                  山本 披露武
家内と那須に登った時の事だった。前日の雨で道がぬかるみ、予定していた時間通りに歩く事ができず、北湯入口からの黒磯行き最終バスに遅れてしまった。
「仕方がない。湯本まで歩こう」そういって歩き始めたものの、下山してからの六キロはきつく、汗だくになって歩いていると後ろの方から車が近づいてきた。しめた! そう思って手を振ると、ありがたい事に車が止まってくれた。乗っていたのは作業服を着た四十歳前後の男性二人。事情を話すと快く乗せてくれるという。が、その後の、「近くにいい露天風呂があるんです。只ですから一緒にいきませんか」という誘いに返事ができなくなってしまった。

どうしょう? 断れば二人を疑う事になる。それに、自分の方から頼んでおいて今更降ろしてほしいというのも勝手すぎる。そう思い直して腹をくくり、お願いする事にした。
お陰で山を背に掘られた珍しい温泉に浸かって疲れを癒し、その上、黒磯駅まで送ってもらうという恩恵にあずかり、一瞬でも二人を疑った事を恥じ、大反省をして帰ってきたのだった。

   

主の山に備えあり                    山本 悦子
私は何度も人生の岐路に立ちました。中でも二一歳の時、教会職員への献身召命は、前途を考えると厳しい選択でした。
信仰の父アブラハムは、わが子イサクをささげよとの命令に、苦しみと葛藤の末に実行します。
次の朝早く出かけたのは、決心が変わらないためだったのでしょう。モリヤへの山道は今迄味わったことのない厳しいものでした。晩年にやっと与えられた最愛の子イサクです。ひと足ひと足踏みしめ、心の中では号泣し、出来ることなら自分が変わりたいと思いつつ登ったことでしょう。
決心を一日延ばして昼か夜にしていたら、楽な道を選んでいたかも知れません。しかしアブラハムは、従順に従ったのです。

今、わが子に手をかけようとしたその時、「その子に手をかけてはならぬ」との声があり、うしろを振り向くと、捧げものになる小羊がいたのです。従う者に神様は大いなる祝福を与えます。
若き日に召命に従った私は、四〇年後、郷里茨城に教会を建設し、牧師になりました。一体、だれが思ったでしょうか。
今また新たな召命を前にして、山に退き祈る日々です。