エデンの流れ 臼井 淳一
春の小川は、さらさら行くよ 岸のすみれや れんげの花にすがたやさしく 色うつくしく 咲けよ咲けよと ささやきながら富士山のすそ野に広がる美しい田園風景と山々に囲まれて育った私は、この童謡が大好きだ。
その情景を思い浮かべる度に胸が熱くなる。何とも慈愛に富んだ、祝福に満ち溢れたのどかな雰囲気が伝わって来るからだ。
春の夜半に自宅の一階の小さなバルコニーに出て見ると、ブルーベリーの樹の下に可憐な水仙の花が一輪、咲いているのが目に留まった。屋敷から漏れるほのかな明かりに照らされて、何とも優雅に精彩を放って咲いているではないか! 私は思わず声を掛けた。
「綺麗だヨ!こんな夜更けによく頑張って咲いてるネ。暗闇の中独りで怖くない? 寂しくない?」
翌朝、私は再びバルコニーに出て、朝日に輝く薄黄色みがかった色白の佳人に語り掛けた。
「おはよう! 神様の栄光を顕して咲いているんだね。ありがとう!」
すると、淑やかな佳人はその立ち姿を微笑みながら心なし揺るがせてくれた。
小川の岸辺で 遠藤 幸治
一日おきに透析ベッドに臥していると、ふるさとの山や川、優しかった両親や兄弟、また幼馴染の顔が思い浮かんでくる。ときに涙することもある。
一人しかいない姉だが、お嫁に行く日、小川の岸辺で泣いていた。姉は学校の成績が良く、級長などをしていた。また私を含めて弟七人の面倒をみながら、学校の勉強も教えてくれた。田畑の仕事も、姉とはいつも一緒だった。
姉夫婦は結婚して六三年経ったが、原発事故によって二本松市の郊外で未だに避難生活を強いられている。気の毒でならない。
笹舟を清流に浮かべて遊んだ幼馴染も、一人また一人と去った。兄弟四人も先に逝ってしまった。でも、自分は透析ベッドに繋がれて二二年が経ってしまった。
一昨年、末の弟が突然世を去ったとき、―神様、私でなくてどうして弟なのですか。末っ子の妹に続き、今度は末の弟を召されるのですか。どうしてなのですか、と問うたが、納得のいく返答はいまだにない。
ただ、『私に従いなさい』(ヨハネ二一章19節)のみことばがあるだけだった。人の生死については人間は知ることはできない。神だけがご存知なのだ。川は今も静かに流れている。
生きた水 駒田 隆
坂東太郎、筑紫次郎、四国三郎。いえ、人の名前ではありません。利根川、筑後川、吉野川の別名です。昔の人は、それぞれの国を代表する川を、愛着を持ってこんなふうに呼びました。
それだけ川は、その土地と深い関係を持っていたのです。時には暴れる川を、子供のように思っていたのかも知れません。
そんな川も、その原点をたどれば、小さな泉にすぎません。でも、流れる途中で、いろんなところから流れて来る水を集めて、大きな川に育ったのです。川は、生きています。
そんな川の流れを、土手に座って見ていると、いろんなことを思い出してきます。川はわたしに、さまざまな物語を聞かせてくれました。時には悲しみを、時には喜びを。そして、小さな泉から流れた水が、より多くの水を集めて大きな流れになったように、わたしに、未来への希望を抱かせてくれたのです。
人を愛することによって生まれて来る未来を、川の流れは、わたしに示しました。
初めは、小さな泉であったわたしの愛の泉は、人々の愛の水と一緒になって大きな川となり、わたしを、人の世という大海原の中の、愛のうず潮に導いてくれたのです。愛は、愛の流れは、生きていたのです。
水の源を求めて 佐藤 晶子
その年、暑い名古屋の夏をしばし離れて、若い頃からの念願だった上高地に身を置くことにした。多忙な日常からの脱出に、心がときめいた。幼い長男を連れての登山はまだ無理だと思い、梓川沿いの林道を奥の方へ散策することにした。
私達のような子ども連れの観光客も大勢いたが、川の中で遊ぶ姿がどこにも見当たらないので不思議に思った。手を水につけると、なんという冷たさか。上流の方に目を向けると聳え立つ山々の頂には残雪があった。私はこの冷水の水源を探ってみたくなった。
『私を信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる』( ヨハネ七章38節 新共同訳)
いのちの御言葉は、神様から出てイエス様と弟子達を通って、私達にわかりやすいように記されている。この川の流れから水を汲んで飲んでいると、やがてその水が心に満ちて泉のように溢れ、周囲の人を潤すようになる。
私が聖書に触れるきっかけになった運命の水の水源は、唯一の父なる神様だということを信
じるようになった。その事実を今、改めて振り返ると、イエス様への感謝が湧き上がる。
隅田川の花火 三浦 喜代子
高校生の私は父といっしょに花火見物のやかた舟に揺られていた。舟は東銀座から大川に出て、幾つもの橋をくぐって両国橋まで上った。すでに雷鳴のような轟音があたりを揺るがしていた。やがて、夜空いっぱいに次々に光の傘が開き、我を忘れて見とれていた。
ふっと、花火の合間の闇空が気になった。観客のどよめきはかき消え、暗黒の中に置き去りにされたような不安に襲われたのだ。
まだ洗礼を受けたばかりで青春のただ中にいた私は、「人生の川」にも闇空があることなど知らなかった。
五十代の初めに急性脳髄膜炎に罹り、死か、治っても植物人間になると診断された。幾日も高熱が続き、意識が薄れていく中で、干からびた唇からうわ言が漏れていたという。
心の闇は深く、花火に連れて行ってくれた父も、送り出してくれた母も、自分さえ見えなかった。濁流の中をもがきながら、若い時から信じてきたイエス・キリストの名を呼び、助けを求めた。
意識が戻った時、明るく澄み切った空に『光は闇の中に輝いている』のみことばの花火が勢いよく開いた。以来神の花火は消えず、今日も心に不安の闇はない。
流れのほとりで 山本 千晶
日曜日、礼拝の時。
司会者のことばにより、ゆっくりと奏楽を始める。一音一音が繋がり創られるメロディー。
その音色は魂を鎮める役割をも担っている。この場所に集まる人、それぞれの思いが神様へと向かう大切な瞬間である。礼拝を通し、それぞれの神様への期待が集められていく。
私は毎週の礼拝の中で独唱賛美を捧げている。それは神様に近づくことができる特別な時。
心を落ち着かせ讃美歌の言葉に対し、心の中で「アーメン」と応えつつ歌いだす。一節、二節と進むにつれ、神様の喜びや励ましを感じ取り、私の歌声はやがて大合唱となり高らかに礼拝の場に響き渡る。
一人での賛美であったはずの歌声が変えられる感覚。神様が示して下さる歌声の流れは、山道で見つけた小さな湧水の存在を思い起こさせる。
湧水は次第に山を下り、やがて川となり、数々の流れが合わさって海にたどり着くのだろう。
多くの川が集まる大海原も、流れのひとすじがどこから始まるのか。
年月を経て、礼拝の時はなおいっそう私には、なくてはならないものとなっている。
トラウマを乗り越えて 志田 雅美
小学生の頃、川遊びをしていて溺れたことがある。流されたビーチサンダルを追って深みにはまった従姉を、助けようとして溺れてしまったのだ。幸い伯父さんに助けられて事なきを得たが、そのあと大人たちにこっぴどく叱られたことは言うまでもない。
以来、わたしはすっかり水が恐くなり、海にも川にも行けなくなった。そればかりか、プールや銭湯など、水がたくさんある場所に行くと足がすくむようになった。さらに大雨で増水した川や、底が黒々とした池を見るだけで胸が苦しくなった。
ついにわたしは病院へ行った。「心的外傷後ストレス障害」であると診断された。もっと早く適切な治療をしていればと、医師に呆れられる始末だった。
その後、治療の甲斐あってわたしの水恐怖症は少しずつ癒された。
今、わたしは人生の川を泳いでいる。緩やかな流れの時も濁流の時もある。しかし、「イエス・キリスト」というライフジャケットを着ているから、溺れることはない。安心して流れに身を委ねている。
『大河の中を通っても、あなたは押し流されない』(イザヤ四三・2)
きれいな川で 槇 尚子
まだ両親が開拓伝道を始めたばかりの頃、小学校に入ったばかりの私は、日曜学校が終わると、同じ教会員の子どものみゆきちゃんといつも遊んでいた。大人の干渉がない自由たっぷりの時間だった。
遊ぶのはほとんどが家の庭だったが、たまにみゆきちゃんの家にも行った。遊び道具が何もないわが家と違って、その家には綺麗なものが沢山あった。お雛さまもあった。
ところがみゆきちゃんはある日突然病気になり、あっという間に五歳で天国へ行ってしまった。あまりの出来事に教会中の大人はおろおろしていた。葬儀というものに初めて出た私はみゆきちゃんの死を受けとめることができなかった。日曜日にはいつも一緒に遊んでいたのに。日曜学校で声をそろえて讃美歌を歌ったのに。
間もなくかなたの流れのそばで/みんなで会いましよ また友達と
神様のそばのきれいなきれいな川で/みんなで集まる日のああなつかしや
みゆきちゃんは、この讃美歌に送られて、旅立っていった。
神様の国にはきれいな川がある、これがわたしの原体験である。生も死も神様のみ手の中にあることを知らされた幼い日。
失敗はしたけれど 山本 披露武
高校の文化祭で、倉田百三の『出家とその弟子』という劇をした。
勤行の雰囲気を出すために経を読みながら香をたき、煙が幕内に充満するのを待って幕を開けると、川の堰を切ったように煙が流れていき、客席からはヤンヤの大喝采をうけた。
「大成功!入賞間違いなし!」
演出をしていたF君や裏方をしていたぼくたちはガッツポーズをして喜んだ。が、低学年の生徒には内容が難し過ぎたのか、十分も経たない内に会場の空気が一変し、あくびをする者やふざけて騒いだりする者が続出し、演技ができる状態ではなくなってしまった。それでも途中で止める訳にはいかず、最後までやり通すしかなかった。そのような状況だったので審査結果は選外になり、みんなはガッカリした。
が、思わぬ収穫があった。みんなで舞台装置を作ったり、セリフのある者も無い者も一緒に練習している内に強い絆が生まれ、その後ぼくたちは五〇年以上も交友を保つことができたのだ。
それにもう一つ、高校生時代に「愛」をテーマにした作品に取り組むことができたのは幸せなことであり、今も嬉しく思っている。
せせらぎに癒されて 篠田 一志
JCPという新たな山に、一歩踏み出す勇気が与えられ、その喜びを証しした途端、なんと谷底に滑り落ちてしまった。
証しが書けないのだ。神様の働きを証言しようとしているのに、出てくる言葉は自分の思いであり、自分の考えばかりなのだ。
聖書の教えが浮かんでも、その教えに対する自分の思いや解釈に心が奪われ、それが今の私にどう適用され、どう働いているのかがすっかり抜け落ちてしまうのだ。いくら表現や言葉を変えても何も変わらず、自分自身が情けなくなってしまう。あの喜びはどこへ行ったのか。
素材をあれこれ変えて再チャレンジするも、最後には何を書いているのかがわからなくなってしまい、頭を冷やすことにした。
すると、「あなたはキリストの恵みを頭で理解するだけではないか。今のこの瞬間を、キリストの恵みによって生かされているという事実に目を向けていないのでは」と迫る声が聞こえてきた。まるで、私の信仰態度の足りなさを指摘するような声だった。
しばらくして、「JCPの学びはあなたの信仰の成長のために備えたのですよ」とささやく声が聞こえてきた。心地よい谷川のせせらぎのようでもあった。
リバーブラウン 松下 勝章
(そんな無茶な…)
正直、その時はそう思った。住宅建材の営業担当をしている時だった。相手はリバー産業という、南大阪を中心に住宅分譲を展開している業者のデザイナーである。
「だから、御社の商品は、単調すぎておもしろくないのですよ! もっと、ファジーに色を混ぜてもらって、ファジーなデザインにできないですかねぇ…」
さすが、川のない処に川を創るような、自由な発想を売りにする企業のデザイナーの言う言葉だなと想った。
(やってやろうじゃないか…)
若かったからだろうか、素人営業マンだったからだろうか、とにかくその時は、そう思ってしまった。工場の研究担当に製品開発のお願いを出した。周囲からは、「営業担当は数字だけを追いかけていればいいんだ」「できませんでいいのに…バカ」そんな声も聞こえていた。そして、それが、「常識」なのだろう。
けれど、神はそんなバカ営業担当を用いてくださった。数か月後、規格外商品「窯変調カラーベスト『リバーブラウン』」が出荷されてきた。小さな奇跡だった。そして、それ以来、日本の屋根文化の流行が少し変わった。
いのちの種 富岡 国広
私が生まれ育った草深い千葉の地では、幼少の時分、あちこちに田が見受けられ、小川が水をたたえて流れていた。それがいつの頃からか、すっかり見られなくなってしまった。
水源が涸れて稲作ができなくなったのか、稲作をやめたことが原因で次第に水も涸れてしまったのか。その辺の事情は全く分からない。もはや無用となった田の干からびた残骸だけが、目に映るだけである。、いのちとしての水源が全く失われていないならば、かつてあった光景は再び息を吹き返すはずである。
ひるがえって、人はいのちについてどう考えているだろうか。
幼いいのちが失われると「かわいそう」と言い、長生きをしたのだから「目出たい」と言う。
災害などで死んだ時は、若いカップルなどは美談にまで仕立てあげることがある。他の人たちは十把一からげに「死者○○人」と表わす。日常何げなく「いのち」という言葉を使っているが、それはいのちへの差別に思えてならない。
聖書には、その人の内にいのちの種が宿っているなら、終りの日に息を吹き返す、とある。
いのちの種とは「神のことば」のことである。
『草は枯れ、花はしぼむ。だが…神のことばは永遠に立つ』聖書
隠された水 島本 耀子
日本アルプス常念岳が源の烏川は水力発電を支え、麓では扇状地として姿を変え、その伏流水は豊かな銘水となる。学童疎開の夏、川底の岩を伝って川登りをした。輝く陽光の下に流れる水は飛び散り、歓声が響いていた。
疎開で同じ班だった美佐さんとは、その後も一緒だった。小学校は一日も休まずに卒業式を迎えた。だが、進学した中学には一度も来ない彼女の名は、やがて出席簿から消えた。
彼女の父は服役していた時期があるが、理由はあえて聞いていない。懸命に家を守る姉妹に、陰口はあってもいじめはなかった。美佐さんも何かの事件に巻き込まれたかと疑ったが、何のニュースもない。ある夕暮、家の前にたたずむ姿を見たと聞いた後、伏流水のように美佐さんの姿は突然消えたのだ。
川の流れは絶えないが同じ水ではない、と、古人は言った。人々も、様々な事情で現れては消える。止む無く出会いと別れを重ねる世の中は、川の流れに似ている。だが、全ては広大な宇宙に循環しているから、一滴の水にも再会できる、と、科学者は言う。
主の憐れみにより、美佐さんが主と出会っていたら、いずれ天国で会えるだろう。無垢な少女の美佐さんの笑顔が目に浮かぶ。
急流下り 土筆 文香
川下りをしたときのことだ。船頭さんがこいでくれるし、ライフジャケットを着ているので、転覆しても大丈夫なことはわかっていた。でも、怖がりのわたしは岩にぶつかるのではないかと恐れ、船べりに必死にしがみついていた。
今、わたしは急流下りをしているような気もちだ。八五歳の母が胃がんになり、しかも末期で発見された。
母は、父が召された八年前から一人暮らしをしていた。もう一人暮らしはさせられない。我が家から近い老人ホームに入るように勧めたが、なかなか承知してくれなかった。家を処分しようとしたら土地の問題が起こり、解決の糸口がみつからない。
そのうち母は抗がん剤の副作用で、視力が急激に落ち、さらに涙腺が詰まって手術することになった。予想のつかない展開にとまどうばかりだ。
どんな計画を立てても、強い願いを持っても、川の流れを変えることはできないし、遡ることもできない。
流れに任せよう。必ず神様が静かな場所に導いてくださる。
そう思ったとき、不思議に次々と問題が解決していった。船頭である主が導いておられるのだ。
祈りの川 田中 明美
夫は長年勤めた仕事が合わずに悩んでいた。私は夫に生き甲斐のある仕事を与えて下さいと祈っていた。ついに夫は退職を決意し、若い頃からの夢だった精神科医になるため医学部めざし猛勉強を始めた。専業主婦の私は生活のために働きに出た。『ふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら』のお言葉を頂き再出発した。
夫は恵みにより入学し学生生活を送っていたが、仕事に出たことのない私の体は悲鳴を上げてしまった。ひどい頭痛で入院しても、退院するとすぐに仕事に行こうとした。そんな私に夫は言った。
「同じ仕事をすればきっとまた病気になる。今年は卒業だし、働けるようになるから」
しかし、夫は国家試験に躓いてしまい、ここからが本当の祈りを必要とされた。私は、事務の仕事はもう無理なので、息子のアルバイト先の和食屋で働き出した。慣れないキッチンでの立仕事が勤まるのかと思ったが、肉体労働のお陰で頭痛は起きなくなった。
最後の国試の日、落ち着かない私は、受験会場の金沢に夫を訪ねた。ホテルの横には犀川が流れていた。
現在夫は、希望通り精神科医として働いている。
生活水路 長谷川 和子
幼い頃、家の南側に土地すれすれに五〇センチ幅の浅い小川が流れていた。
秋になると近所の人達と共に母は川の前に筵を敷き正座して漬菜(野沢菜)を洗う。
雪国の秋の水は冷たく、手を赤くしながら洗った数株を束にして藁で縛り川に渡した板の上に茎を下に立て水切りをする。何束も「洗い菜」が出来上がっていく。足腰は冷え、手の感覚もなくなる十一月初旬の気温の中、辛いだろうに、話声と笑い声に包まれていたのは、女衆の親睦の場であったのかもしれない。
水が完全に切れた漬菜は大きな樽に塩をたっぷりかけて漬け込む。緑色の菜がやがて飴色に変化、冬の保存食となるのである。
家の北側の川は三メートル幅の底深く水流の勢いに恐怖さえ感じた。村中の道路の脇には必ず小川が流れていた。
関東に住むようになって故郷の川は、水田のための水路であったと気づかされた。
出エジプト記二・5に「パロの娘が身を洗おうと川に降りてきた」とあるように、畑で取れた野菜の洗い場であり洗濯物の濯ぎの場であった。
静かな水音は安らぎを与え、泥鰌掬いや川遊びの郷愁へと誘ってくれる。
川べりからの出発 長山 知子
私の生まれ育った所は静岡県三島市である。
JR東海道線三島駅南口から歩いて五分の所に、桜川という川がある。源泉は富士の雪どけ
水の湧き水で、川底の石まで見えるきれいな川である。川沿いには柳が植えられてあり、文人の
この川にちなんだ石碑があって、観光客がその川べりを楽しそうに散策している。
今から五〇年前の一九六六年に、この川べりのアパートに結婚と同時に父母が住み始めた。
二八歳の二人がキリストを伝えるために開拓伝道を始めたのである。川べりにはそれぞれの家に
行けるように専用の橋がかかっている。アパートにも専用の橋があって出入りした。
なぜ、二人が三島で開拓伝道を始めたのか。父が聖契神学校を卒業して赴任してきた所が三
島だったのだ。しかし、そこで宣教師のグーエス先生と文化のくい違いから一年足らずで独立す
ることになったのである。
見合い結婚をした母は、この川べりの一間(六畳と台所と玄関三畳)のアパートにさぞ驚い
ただろう。しかし、夏の暑さ、扇風機もなかった二人にとって、夏の夜は川に出て夕涼みできた
ことはいい思い出であろう。
あれから五〇年たち、そこから歩いて五分の大通りに新会堂が建った。
映画「圧殺の海」を見て(川から海へ) 石垣 亮二
自然豊かな辺野古の海が荒らされ、新基地建設工事が開始された時、沖縄の人々の心は一挙に炸裂して、大勢の人達が眼の色を変えて必死の形相で二つの現場へ向かった。
米軍基地のゲートから運び出される資材や部品を積んだ大型特殊トラックの乱暴な運行に立ち向かい、身体を張ってこれを阻止しようとする人たちだ。その中には老婆が目をキラキラさせながら、大声で運転手や作業員への訴えを叫ぶのもあった。「沖縄の平和と幸せを何としても守るのだ」「子供たちや孫たちの将来のためにこうして戦うのだ」と。
また、海の工事現場ではゴムボートに乗った人たちが「工事をストップして下さい!」「大切な海を荒さんでくれ!」と叫びながら、警備員と文字通り命をかけて闘っていた。何物にも代えがたい尊い姿を見るようだ。
私達はいわゆる「本土」に住んでいる。沖縄の苦しみや悩みをどれほど自分のこととして受け取っているだろうか。この映画「圧殺の海」は映像により私達の魂をゆすぶり、沖縄のために一人ひとりが何が出来るかを真剣に訴えている。(川から海へ)、沖縄と日本の自然、そして日本の平和を守ってゆきたいものだ。
小さな流れ 西山 純子
いつの間にか夕闇が迫っていたのを、幼い二人は気づきませんでした。今まで来たことのない畦道の間をちょろちょろ細い川に似た流れがあったのを憶えています。蝶々を追いかけていたのか、クローバーの花を摘むのに夢中だったのか、それも定かではありません。迷ったのです。
光夫くんと私は二歳違いで、その当時は兄妹のように毎日のように一緒でした。光夫くんの両親は、当時はめずらしく二人とも仕事を持たれた夫婦でした。ですから、光夫くんは鍵っ子でした。私の母もそれを承知で、夕暮れになり、ご夫婦のどちらかがお帰りになるまで、私と光夫くんが遊ぶのを見守ってくれていました。
二人の家は裏隣りというのでしょうか。庭越しに光夫くんの家に明かりが点くと、彼は脱兎のように走って帰っていきました。おぼろげな記憶なのですが、二人は半分ベソ掻きながら家に向かって歩いたと思います。
そうして彼が、か細い声でくり返し歌ったことは、今もハッキリ思い出すのです。
《さびしくなっても泣かないで 明るくきれいに照らしましょう 光れ 光れ 光れ》こども讃美歌と知ったのは後年でした。
たった一滴から 荒井 文
写真教室のメンバーといっしょに東京の奥座敷と言われる場所に行った時のことです。谷間の道を二時間以上登ったとき、数秒に一滴落ちる水を見ました。
その辺りは、森の間から入る陽の光によって輝き、緑の絨毯を敷き詰めた苔むす湿地となっていました。
これが東京を流れるあの大きな川、多摩川の源である事を知り、びっくりするどころではありませんでした。
今歩いてきた湿地はこの一滴がぬらしていること、最寄りの駅の近くになると小川になって渓流になること、都会になるとあの大河となることを教えられました。どの川にも最初の一滴がありました。
生きるのに欠かせない水のはじまりは、この一滴からだったのです。
川は、私達の飲み水や電気をつくるダムにもなります。この川の水を創造してくださったのは神様です。神様に感謝して大切にしなければ……と思いました。
川の近くには、人も動植物も生き、文化や文明も栄えるのです。
創造者であられる神様は、そこまで考えてご計画を立てられ、この一滴を創られたのです。
川と勇気 森田 勝之
いつもは弱気なくせに、土壇場では「なんとかなる」と、必ず思う。今思い出してみれば、これは僕が川遊びから学んだことだ。
中学に入ったばかりの夏、遠縁を頼って、兵庫の山村に行った時のことである。土地の子供たちに川遊びに連れていってもらった。夏の日差しを浴びて熱くなった河原の上を歩き、皆で水に入った。山から湧き出た水は思ったより冷たく、照りつける太陽と不思議な温度差が感じられた。
川遊びになれていない僕は、向こう岸へと歩いた。すると、急に深くなって、滑りやすい石の上に乗り、深みに落ちてしまった。そこは足のつかない深瀬で、水をいっぱい飲んでしまった。
足も冷たくなって、手足をバタバタさせても沈んでいく。苦しくてもうダメだと思った。もがいていると、水のなかに一本の木のツルが黄色く輝いて見えた。しかし、その時気が遠くなってしまった。
気がつくと、眩しい光が目に飛びこんできた。子供達が心配そうに覗き込んでいた。どうやら僕は夢中でツルを引っ張って向こう岸へと体を引き上げたらしい。
この経験以来、困った時、必死でもがけば「光のツル」を与えてくださるのだ、と思うようになった。
命の水の川 山本 悦子
毎日の数えきれないほどの葛藤に、心が焼かれるような思いをするとき、神が示し、差し出してくださる「命の川の水」が無性にほしくなります。
『川は都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実をみのらせる』
神の都を流れる川の水は清く、飲むたびに生き返り、川の両岸にある木の実は体に良く、十二ヶ月絶えることなく実るのです。
汗水流して働くこともなく、人間関係に悩むこともなく、お金を貯える必要もないのです。また夫婦、子育て、貧乏、失業、病気、人間関係に苦労することもないのです。それから解放されたのです。主は『彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない』と言われます。なんと慈愛に満ちた言葉でしょう。
スポルジョンは言います。
「祈りのふところに憩うまでは安らぎを得ない」と。
命の水の川は、今も神の都の中央を休むことなくとうとうと流れています。
天国に思いを馳せると、今の自分の悩みがちっぽけに思えてくるのです。
流れと共に 安東 奈穂美
生まれてから結婚するまで、川のそばに住んでいた。堤防の対岸はずっと先で、小さく見える建物の上には空が広がっていた。
通学、通勤で電車に乗る。
ダ ダン ダ ダン ダ ダン
鉄橋を渡るリズムを体に感じ、川を眺めていた。川面を見ながら、自分は停滞していると感じたこともあった。川の存在は、私を形づくるものの一つになっていた。
ある時、そこに新たな流れが入ってきた。
神が私を愛している、と聞いてそれを受け入れた日、心が神に開かれたのだ。自分の存在意義を見出せない時も、希望が持てず無気力な時も、神の愛は絶えず注ぎ込まれる。
この地上で生きているが、いつかは命の尽きる時が来る。私の肉体がなくなっても、注がれ続けている神の愛はなくならない。そして、私の魂は天に移されるだろう。そこで、天の園にある川の一しずくになるだろうか。それとも、輝く光のそばで小さな支流となって流れ始めるだろうか。