ヨブ記

ヨブ記(42章) 人生の苦しみを真に解決するには 

内容 
ヨブはその地方きっての富豪であった。『潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた』ふたりといない紳士であった。何よりも神さまご自慢の信仰者だった。
その彼が一夜にして人災、天災によって7人の息子と3人の娘を同時に失ってしまう。さらに彼自身が足の裏から頭の頂きまで悪性の腫物に冒され、灰の中に座って土器のかけらで我が身をかく始末。妻には悪態をつかれ、積年の親友たちからは因果応報だと裁かれる。ヨブは心身共に瀕死の淵に立たされ、初めて不可解な人生の深淵に引きずり込まれていく。
なぜ正しい者が苦しまねばならないのか。神はどうして味方してくださらないのか。黙っておられるのか。ヨブは親友たちと論戦するだけでなく、神さまにも挑戦する。

著者 不明

有名な箇所
ヨブ記1章21節
 『私は裸で母の胎から出て来た。また、裸でかしこに帰ろう。主は与え、主はとられる。主の御名はほむべきかな』

私感 ヨブがいてよかった    
絞りに絞って、聖書には、いてくれてよかったと思える人がふたりいます。一人はイエス・キリスト(イエス・キリストは神であるから、正確にはヨブと同列には置けないが)、そして、もう一人はヨブです。理由は、ふたりとも私たちとは桁違いの辛酸を嘗め尽くしたからです。

イエス・キリストの十字架のお苦しみを思ったら、私たちの苦しみなんぞものの数ではないとよく思います。また、ヨブの身に降りかかった厄災の過酷さの前には、自分の問題など比較のレベルではないと思うのです。そうした意味でもこの二人は、どん底を照らす光であり、心身の傷を癒す妙薬であり、絶望との戦いになくてならぬ武器です。また、忍耐と励ましと希望を与えてくれる不思議な最高のカウンセラーなのです。

ヨブの言い分はよくわかります。悲嘆にも失望にも憤りにも共感できます。彼に親近感が涌いてくのです。ヨブが苦しんでくれたおかげで、どれほどの人が孤独な戦いからから救われたことでしょう。ヨブがいてくれてよかったのです。ヨブは苦しむ人の代表になってくれました。

苦悩のヨブが身をよじって絶叫することばが耳底にこびりついています。
『ああ、今、できれば、私のことばが書き留められればよいのに。ああ、書き物に刻まれればよいのに。鉄の筆と鉛とによって岩に刻みつけられたい』
誰にも理解されない孤独な戦いを、書き刻んでおきたいというのです。ここに、文学の原点があると思います。。

ヨブの懊悩はさらに深まっていきます。闇の極みまでいったと思われるその時、ヨブは仲保者また贖い主となってくれるお方がいることを確信し、その存在を信じるようになります。

『私は知っている。私を購う方は生きておられ、後の日にちりの上に立たれることを』
これは救い主イエス・キリストを暗示しているのです。ヨブはだれに伝道されたわけではないのに、苦しみの中から福音の光をみつけました。イエス・キリストが誕生するはるか昔に、ヨブは自力でこの真理に到達しました。(19章25節)

突然、死の闇を破って、沈黙していた神さまが語り出しました。神さまの偉大な顕現の前で、ヨブは一瞬にしてすべてを悟ります。神さまがわかったのです。神さまを見たのです。すべての問題解決の鍵がここにありました。
『わたしはあなたのうわさを耳で聞いていました。
しかし、今、この目であなたを見ました。
それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔いています』(42章6節)
   

2023年01月18日