宿泊の旅 二泊三日で鹿児島へ その1   寄稿者   旅女

前回いわゆる旅行と呼べる宿泊の旅に出かけたのはいつだったろうか。少なくともコロナ禍の3年間は完全に自粛していたから、3年以上ブランクがある。この度、我が家の諸状況の流れの中で、節目の旅をすることになった。私にも打診がきた。体調と意志の確認である。「行きたい!」、即答してしまった。内心、体調に不安がないわけではなかったが。かくして、日曜日の夜に羽田を発ち、火曜日の深夜に帰宅する二泊三日の鹿児島Familyツアーが成立した。ツアコンは20代前半の孫息子と孫娘、そこへ娘と私が加わる。ところがこれが私には超ハード、超過密スケジュールなのであった。

旅を知らされたのはその半月ほど前、ちょうど腰痛に悩まされリハビリに通っていた時だった。だから自信がなかった。旅は体力である。娘も孫たちも私を気遣ってくれるだろうが、何としてもお荷物にはなりたくない。何とか自力で後をついて行きたいと、それだけが願いであり祈りだった。そのかわり、私はバッグひとつ肩にかけるだけで持ち物は全部彼らにお願いした。もちろん最低限に絞った。靴だけは一足予備を用意したが。

出発のわずか数日前に、孫から、往復のフライト名と宿泊先のホテル名がスマホに送られてきた。旅程は未定、道々調べながら決めていくとの事であった。実は鹿児島と聞いただけで私の心は燃え、躍った。歴史的にも地理的にも思い入れのある地である。明治維新の英雄たちが次々に思い浮かぶ。彼らの地なのだ。その地で、維新のあの爆発する推進力が生まれ育ったのだ。しかもこのコロナ禍のあいだずっと明治維新物を読んできた。しかし、連れで行ってもらう立場だから先に要求はすまいと決めた。おそらく願い通りになるだろう。願い以上になるだろうと確信して、心待ちにした。

このメンバーでの旅は私にとっておそらく最後だろうと、大げさではなく思っている。私の年齢もあるが、孫息子はいよいよ社会に飛び発って行く。場合によっては日曜の礼拝さえ定時に出られるかさえ分からない、そんな職種である。いよいよ孫離れだと密かに、悲壮感さえ抱いて覚悟を決めているところなのだ。おばばの偽らざる心境である。大いに笑われるだろうけど。

予定通り私はいつものバッグひとつで、羽田に降り立った。いつも留守番の、会社人間真っ最中の婿殿が車を出してくれた。いつも申し訳なく思う。いつもの私なら、あと一時間は早く羽田にいただろうけど。数年前からであるが、搭乗手続きが激変している。すべてペーパーレスなのだ。荷物を預けるのもカウンターを経由せず自分でする。身体検査はいつものように厳重であったが。さて、いよいよ搭乗であるが、あらかじめスマホに入れたQRコードでタッチするだけであった。一人だったらとてもこんなにスムーズには行かなかったろう。旅は道連れ!しかしなにごとも経験するのはいい。飛行は快適であった。2時間ほどだからか、席を立つ人もなく、唯一、配られた飲み物をいただき、うとうとしているうちにもう、鹿児島空港だった。

レンタカーを予約していた。空港の外へ出て指定された場所へ行くと車があり、すぐに使えるようになっていた。人は一人もいない。私には目が丸くなるような驚きだった。ナビへホテル名を入れたのだろう、車は何のためらいもなく動きだした。「夕食は何にする?」と孫娘がスマホから沿道のお店を次々に紹介する。全員一致で中華料理が選ばれ、こぎれいなお店に入った。しばらく海岸端を走ったらしい、薩摩半島側の所定のホテルに到着したのは10時ごろだった。桜島の目の前のホテルとのことだったがすべては夜のベールに包まれ何も見えなかった。

『主は、あなたを、行くにも帰るにも
今よりとこしえまでも守られる』

2023年03月03日