名前を生きる 池田勇人
「名前とは、他のものから区別するために付けられた呼び方」と、辞書では説明されています。それなのに同姓同名で私の祖父のような年代の政治家が昭和三十五年(一九六〇)首相になるや否や、私は名前の呪縛に捕らえられていきます。
翌年、ある私立中学受験会場で「池田はやとさーん」と試験管の呼ぶ声に、張り詰めていた会場が爆笑の渦に。顔から火が出るような逃げ出したい思いを、それからずっと味わうことになり、この名をつけた親を恨むこともありました。閣下とか、掃除大臣、アイム・ソーリーなどとからかわれ、ユーモアで返すことのできなかった私には、名前が重荷になってゆきました。
親にしてみればいろんな思いがあったのでしょうが、子沢山のためか、すぐ上の兄(四男)には当時北海道長官にあやかって「池田清」の名を、私には大蔵次官から衆議院議員になった彼の名を付けたのでした。勇人氏は昭和二十四年初当選後いきなり、第三次吉田内閣で大蔵大臣に指名されます。この二ヵ月後に私が生れたのですから、父にしてみれば「待ってました!」という命名だったに違いありません。
彼は、二十五才で京都大学を卒業し大蔵官僚になりますが、落葉性天疱瘡という難病にかかり休職。妻が狭心症で急死。出世遅れのコースながら四十七才で選挙に出馬。昭和四十六年、六十五才で亡くなるまで波乱に富んだ生涯でした。
堺屋太一は『日本を創った十二人』(PHP新書)のリストに彼を入れています。所得倍増計画が成功し、東京オリンピック(一九六四年)にかけて神武以来の好景気と言われましたが、人間の規格化と人口の都市集中、官僚主導体制という宿題も残した、と指摘しています。リストに入る業績を残した同姓同名の勇人氏には、ひとまずほっとします。
自分の名前を誇りに思えるようになったのは、JCPに加わるきっかけを作ってくださった横山麗子先生のおかげです。「いけだはやと先生は…」とフルネームで丁寧に呼びかけてくださるのです。彼は彼、私は私と思えるようになり、さらにこの名を調べていくと、素晴らしいヘブライ的意味がわかってきました。ハーヤーは「存在する」という動詞(しかもアラム語では早いの意)ですが、強く発音したものに三人称語尾をつけると「ハヤートォ」となり、彼の命とか神の命の意味になります。ヨセフ・アイデルバーグの『日本書紀と日本語のユダヤ起源』(徳間書店)によれば、ヤマトはヤハウェ(主)の民の意で、北イスラエル十部族が日本に来た(一~三世紀頃)に違いないというのです。それはともかく、神の命をいただいたのですから、その名を生きていく者でありたいと祈っています。
霞ヶ関 池田勇人
か 川越よいとこ いらっしゃい い
す 住めば都は 小江戸だけ け
み み心信じ 出発だ だ
が 頑張る我も 年経(ふ)るは は
せ 急(せ)いては疲る 静まれや や
き 聖きみ霊の 満々と と
イエスの一枝とされて 佐藤一枝
私の名前は一枝といいます。父が徳一、母が春枝で、父が一字ずつ取って一枝と名付けたと聞かされていました。
子供のころは平凡な名前だなあと思い、好きでも嫌いでもありませんでした。十八歳の時に洗礼を受けてクリスチャンになってから、聖書に出てくる人物の名前にはみな意味があることを知り、何か自分の名前に意味を持ちたいと思うようになりました。
ある聖日のメッセージでヨハネによる福音書十五章が開かれました。
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。人がわたしにつながっていないならば、枝のように外に投げすてられて枯れる。人々はそれをかき集め、火に投げ入れて焼いてしまうのである。」(ヨハネ十五・5~6)
そして、この箇所を私の名前の由来としようと勝手に決めてから、はや六十年の月日が経ちました。あれから数え切れないほど何回も何回もこの聖書箇所から語られるメッセージを聞きましたが、どれだけ理解できているかおぼつかない次第です。
イエスさまのお口から弟子たちにじかに語られた告別の説教の一部です。イエスさまの心の底からしぼり出すような熱い愛が、ぶどうの木とその関連を通して語られています。
そしてご自身が十字架につけられ、殺され、三日目によみがえられ、その後、父なる神のもとに行かれることをあからさまに弟子に告げておられるのに、弟子たちは、どこまで理解できていたでしょうか。イエスさまは言われました。「あなたがたは散らされてそれぞれ自分の家に帰り、わたしをひとりだけ残す時が来るであろう。いや、すでに来ている……。」
私も救いの恵みにあずかり、クリスチャン生活を喜々としてはじめて、一枝という名を両親がつけてくれたことを感謝し、それも神様のご計画と信じてこの箇所を大事に心に刻みつけていたにもかかわらず、結婚して、姑の迫害を受け、長い年月教会から遠ざかってしまった苦い経験があります。
姑が他界し、未信者だった主人が劇的な回心をしてクリスチャンになってからは、私共の家から偶像はなくなり、次から次へと家族が救われてゆきました。姑を導けなかったことだけが本当に申し訳なく思っています。
私は今、ぶどうの木に接木された一本の枝であると信じられることが何よりの喜びです。イエスさまの樹液がどうぞ細い枝であっても、とどこおりなく循環されますようにと祈る日々です。一枝という名前を感謝して名前に恥じない生活をしたいと願わされています。
佐藤一枝
さ 最晩年の いとなみに
と 尊い聖名を あがめつつ
う 歌もて歩む よろこびは
か 快哉これに つきるなり
ず 随喜の涙 溢れいず
え 枝なる我を 守りませ
文学博士文彦の名前を 林 文彦
昭和八年一月十日男子出生、体重四キログラム以上の丈夫な男の子。祖父などは長い縁側に丸裸の子を座らせ、「見ろやこの子は甲種合格や」と誉め自慢をして近所の人や来客の方に見せて喜んでいた。
名付親の両親は、その時日本で有名な文学博士の名前を戴き林文彦の誕生となった。父林彦太郎、母はつのはともにクリスチャン、よき信仰者となるようにと願い、有名な学者の名前を付けたと聞く。
小学校入学以前より教会の日曜学校に通い、信仰者への道を歩き始めた。昭和二十年八月十五日の終戦。真夏の暑い朝から強い日差しの息苦しい日、夏休みで自宅にいて正午に重大なラジオ放送があると知らされた。中学一年生のときだった。家中のものが一台のラジオの前に集まり耳を澄まして聴いていたが、ラジオの音が悪く集中しないとわかるのが大変だった。が、とにかく日本が連合国軍に無条件降伏をしたことがわかった。
日本の不利はわかっていたが負けたことの無い日本が負けるのは実に悔しかった。戦後学区制が六・三・三制となり、宗教も自由となった。そしてキリスト教と共産主義が野火のごこく広がっていった。衆議院で共産党が三十名もの当選者を出し、次の選挙では百名を超えるといわれ、もしそのようになれば日本の政治は終わりだと国中で心配をした。が、投票前に連合国総司令官マッカーサー元帥の鶴の一声で日本共産党は非合法とされ、日本は救われたのである。残念なのはそのときまで、「キリスト教か共産主義か」といわれるほど盛んだったキリスト教の勢いも、共産主義弾圧と同時に衰えたことである。
日本にキリスト教が上陸して以来これほどの力と勢いで教勢が伸びたことは無かった。キリスト教が伸びなければこの国が共産国になるとの大心配事も相手の非合法でもろくも前の通りの弱い信者となって今日に至っている。
少しでも多くの人々に聖書を無料贈呈して神様を知る手助けをするようにと、日本国際ギデオン協会に入会し聖書贈呈を二十年続けてきた。イエスの友会の文書伝道で満江巌先生に出会い、日本クリスチャン・ペンクラブに入会させていただいたのだった。
「文は信なり」の会の看板の文の一字、そして生涯できる文書伝道の文の字を、文彦の名にあやかって貴い名前を付けてくださった亡父彦太郎と今九十七歳で尚文章に親しんでいる母はつのに心より感謝している。そして両親の信仰が私の三姉妹とその孫四名が受け継いでいてくれるこの感謝は神様の祝福そのものである。これからも文の字を悲しめない文書伝道に励みたい。
ボクの名前は憲法違反? 山本 披露武
子供のころは名前を説明するのに大変な苦労をした。「披露宴の披露に武士の武と書きます」と言えばよいのだがそれが言えない。「披露宴」という言葉を知らなかったからである。で、もじもじしていると、「あら、まだ漢字を習わなかったのね」などと言われてしまうのである。しかし高学年なって説明ができるようになり、ようやく嫌な思いをしなくなった。
ところが一九四七年に新憲法が発布され、みんなが、「平和だ、戦争放棄だ」と叫ぶようになって、またまた名前のことで悩みを持つようになってしまった。
そもそも「武」という字には、「強いこと」、「勇敢なこと」といった意味の他に、「武力」とか、「戦力」といった意味がある。その「武力」なり「戦力」を披露するというのだから穏やかではない。
(もしかしたらボクの名前は憲法違反?)
さあ大変と図書室に駆け込み、「武」という字についての調べをした。と、ありがたいことに、ある本に「平和を広める」との意味があると書いてあるのである。そうか、「平和を広める」というのであれば新憲法の下でも胸を張って説明することができる。そう思って喜び、図書室を出た。
以来名前について尋ねられると、「披露宴の披露に武士の武と書きます」と言った後で、「『武』にはね、平和を広めるという意味があるのですよ」と、付け加えることを忘れないようにしてきた。勿論、今回のテーマが決まったときは躊躇なくそのことを書こうと思った。
しかしかりにも活字にするとなると引用した文献を明らかにする必要がある。で、「広辞苑」をはじめいろいろの辞典を調べることにした。が、「平和を広める」という意味が見つからないのである。そしてようやく見つけたのが、「角川国語大辞典」の、「威力を持って他を従える」との説明。「平和を広める」というのはもしかしたらそれの拡大解釈だろうか? もしそうだとしたら「武力によって平和を!」というのと殆ど変らないのである。
ああ困った、これからは名前について尋ねられても「『武』にはね、平和を広めるという意味があるのです」などと言うことができない。それはいい、それはいいが、「武」についての説明が出来ないとなると今回の課題である「私の名前」を書くことができないのである。
(これは困った。今回はパスにしようか)
そのようなことを考えながらある日、納税の関係で銀行に行って名前を書いていると、係りの女子行員が、「何とお読みするのですか」と尋ねるのである。「ひろむと読みます」と言うと、「素敵なお名前ですね」と言う。
(素敵な名前? もしかして彼女は改憲論者? 最近は「憲法改正」を唱える政治家が増えてきたからなあ…)
私は大変複雑な気持ちで税を納め、そして帰って来たのであった。
山本 披露武
や 闇夜をつんざく大音が
ま 正しくそれは神の声
も もしもの時が何時来ても
と 戸惑うことのないように
ろ 朗報たずさえみ使いが
ひ 光の中を歩むなら
む 迎えに必ずまいります
神さまのゆうことをきく子に 島田裕子
裕子はひろことも読めますが、わたしの名前はゆうこです。
シャイな主人は、わたしの名前をいままで一度も呼んだことがありません。わたしの父は母の名を一日に何十回も呼びますが、義父が義母の名前を呼んだのを聞いたことがありません。いつか主人に名前を呼んでもらいたいと思っているのですが、実現するでしょうか……。いまは、裕子という名前を結構気に入っていますが、子どものころはいやでした。
「どうして裕子という名前をつけたの?」と母親に尋ねたのは、小学校五年生のときでした。子のつく名前は平凡でつまらないと思っていました。母は「ゆうこと(言うこと)きくから裕子とつけたのだよ」と答えました。(生後間もない時期に言うこときくかどうかわからないのに……。言うこときかせようという魂胆だな……。言うことなんか、きくもんか)と、反抗期のわたしは思いました。
中学生になって、孤独の淵に追いやられたとき、自分の存在ということを考えるようになりました。なぜ生まれてきたのか? なぜ自分はここにいるのか? なぜ日本のこの時代に、この親のもとに生まれたのか?
偶然にすぎないのだろうか?
いじめにあい、つらい日々を過ごうち、いつしか空想の世界に逃避していました。空想の世界では、好きな時代、好きな場所で過ごすことができます。空想の世界にどっぷりとつかって、自分がこの世界にいるのか空想の世界にいるのかわからなくなるほどでした。この世界に自分は存在していないのでは?と思ったほどです。
一九九七年、神戸で酒鬼薔薇聖斗と名乗る十四歳の少年が残虐な殺人事件を起こしましたが、少年が自分のことを「透明な自分」と書いていたことが強く印象に残りました。少年の心の内はわかりませんが、孤独と空しさの中で、自分の存在が消えて透明になってしまうように感じていたのではないでしょうか。事件を起こして、自分の存在をアピールしたかったのかもしれません。「Itと呼ばれた子」のディブ・ペルザーは、母親からIt(それ)と呼ばれ、心が深く傷つけられます。
わたしが最近書いた小説は、中学一年の少年が、母親から「あんた、だれ?」と言われ、自分の存在に疑問を持つところから始まります。少年は、ファンタジーの世界、オアシースという国へ行きますが、それは自分探しの旅でもありました。少年は、創造者であるオアシースの王に出会い、名前を呼んでもらって初めて自分の存在が確かめられます。
わたし自身、造り主の存在を知ったとき、初めて自分の存在が確かになりました。 神さまが、わたしの名前を呼んで下さっていると感じることがあります。つらいとき、不安でたまらないとき、必死に祈っていると「裕子、裕子、大丈夫だよ」という主の語りかけが心に響き、平安が与えられます。
「裕子」は『神さまのゆうことをきく子』という意味にしたいと思いました。
島田裕子
し いたげられた魂に
ま よえる心を持つ者に
だ れからも愛されていないと思っている人に
ゆ めのある物語によって
う ちゅうの造り主、全能の神さまの
こ とを伝えたい
わたしは伸子 渡辺伸子
わたしは六月の夜に生れた。
父と母は「さくらんぼ」と名付けたかったという。けれど、「渡辺さくらんぼ」はすてきではないと考えて、「さくらんぼ」は愛称にして、「伸子」と名付けた。「のぶこ」と読む。だから「伸子」のルビは、「のぶこ」と「さくらんぼ」のふたつだと思っている。
宇宙へ伸びていく心。その心の持ち主になることを願って名付けたという。
わたしは幼稚園時代から今まで、一日のうちで夕暮れと夜が一番好きだ。特に、真夏の夕暮れと、真夏の夜が好きだ。
小学生時代に両親が、『こどもの天文学』という本をプレゼントしてくれた。その本を読んで、自分の心の中に抱いた星々と月の宇宙は望遠鏡で見た夜空よりも美しいと思った。これからの一生をかけて心の中のその宇宙を、日毎に、年毎に、「無限」を、「永遠」を感じ、実感するところまで伸ばしたいと思った。
そのことを今日も思い続けている。
伸びゆく心の達するところに。
詩篇一四七篇四節
『主は星の数を数え、
そのすべてに名をつける』
があるのだと思う。
渡辺 伸子
わ 湧き出ずる
た 楽しき想いもて
な 汝が下で
べ 勉強の日々に
の 望みを語る
ぶ 文章書くのが
こ この世のしあわせ
田夫野人 駒田 隆
先日『漢字源』を引いて、姓とはどういう意味を持っているのかと思って調べて見ました。「姓」については、「かばね。血筋をあらわす名」とありました。そして多くは女系の祖先の名に由来し、またはその祖先の住んだ土地の名前にちなむと言います。考えてみると古代は母系社会であり、家父長制が形成されるまではその実権は女性にありました。解字によれば、生れた血筋をあらわし、かつ女系祖先にちなむ名なので、女へんが添えられたと述べられています。わが国の創世神話を見ても天照大神という女神であり、しかも太陽神とされています。明治の初期平塚らいてうは、「原始、女性は実に太陽であった」(「青踏」一巻一号・一九一一年九月)と言いました。ふだん聞いている姓はこういった意味では女性に関連するのかも知れません。「名」の解字では、薄暗い闇の中で自分の存在を声で告げることを示す、とありました。こうして見ますと姓名は、自分を他人から区別する一つの識別符号なのでしょうか。もっとも明治になるまで一般庶民には姓はありませんでした。
「駒田」という姓については特に親から聞かされた記憶はありませんが、父の実家は名古屋近辺の農家であったと聞いています。おそらく明治三年九月、一般庶民に苗字使用が許されるようになった時に付けられたのではないかと思っています。「駒」は若い元気な馬を示し、「田」は平らに耕した土地と言いますから、農耕馬を使っていた田園風景が目に浮かんできます。
県庁に勤めていたころは県職員で駒田はわたしだけでした。ほかには警察官で一名いただけで茨城では少ない姓だったようです。ただ現在の石岡には教員をしていた人がおり、よくその一族と親戚ですかと言われましたが全く関係がありませんでした。
「隆」については解字では、草が上へ伸び出るさまを表す、と言いますから、盛んな様を言うようです。おそらく父が付けたのでしょうが、どんどん伸びていってほしいと望みをかけたのでしょうか。それにしては不肖の子で、どうも父の意思に沿わなかったのではと思います。
どちらにしてもわたしの姓名は田畑農地に関係するようで、田夫野人にふさわしい姓名ではないかと思います。聖書を読みますとイエスのヘブライ語名のヨシュアには、「ヤハウェは救い」とあり、聖書に出てくる人々の名前にはいろいろと意味をもたせてあるようですが、さて、わたしの名前には何を表しているのでしょうか。それはわたしの生き方によって決まるのかも知れません。一代で忘れられてしまう名前なのか、多少は覚えていてくれる姓名なのか、さてどうなるのでしょうか、いささか興味があります。
駒田 隆
こ これがわたしです
ま まことにおろかもの
た たよりがいのない
た ただのでんぷやじん
か かみさまだけしんじている
し しまつにおえないおとこです
名前を生きる 山下 邦雄
私が、名前について興味を覚えたのは昭和十八年、国民学校四年生のときである。その年の五月、連合艦隊司令長官山本五十六大将の戦死発表。憂いは文豪、島崎藤村の死、そして大流行の「若鷲の歌」の西条八十、と三者の名前や業績が、少国民新聞や少年倶楽部等に幾たびも掲載された。「五十六」「藤村」「八十」、私は子ども心に珍しい名前だなあと思った。
その時の印象なのか、この三者の波乱の生涯―その生きざま、足跡に私はずうっと引かされてきている。
数年前、出生届に「悪魔」の名前が受理されず社会的な話題となったことがある。名前は、その人の一生を表すもので単なる符丁ではない。わが子につける名前は、親の愛情の表現であり神に念じる気持ちでつけたいものだ、と私は思う。
私の兄弟は、姉三人と兄と私、兄は跡取りとして屋号「清右衛門」から「清一」、私は「邦雄」と名づけられた。命名について父から聞いたことはないが、辞書を引くと「邦」は、国土、邦人、友邦、「雄」は、おおしい、雄心等の意味がある。昭和初期の大恐慌、満州事変、国連脱退…と風雲急を告げる時代の影響もあったのかな、と思ったりしている。
ともあれ、私は自分の名前を不足に思ったことはない。誰にでも読め、呼びやすく、意味も気に入っている。
ところで、同姓同名はめったにないものだが、さいたま市に私と同じ名前の画家がおられる。十年ほど前、日展に出品された画伯の作品が話題を呼んだが、そのとき私と間違えた電話が数件あり、苦笑したことだった。
「名はそのものの実体を表す」といわれるが、名前は何かにつけて重要である。人名は勿論、最近は大学やスーパー等も、学生や利用者に魅力ある名前が増えてきている。
かって私が仕えた浅沼稲次郎先生は、戦前の無産政党の誕生や分裂、合併という渦中にあって、党の名称についてその都度依頼を受けたそうである。労働、農民等限られた言葉をどう組み合すか、大方の同意を得るのに苦労が要った由である。
その浅沼先生、ある日の早朝、知人の来訪を受け初孫の名づけを要請された。先生、しばらく考え、「稲造」と墨痕あざやかに書かれた。その際私に、新渡戸稲造氏の「造」について確かめられたが、五十年近くも経たのによき思い出として脳裏に残っている。
年を重ねるにつれ、私は名前に愛着を感じている。「邦雄」の名前のごとく、国土、隣人を愛し、おおしく、生き生きと在るべき理想に向いたい。そして、少しだけでも世の中のお役に立てればと念じている。
山下 邦雄
や 休みなく
ま 真実のひかり
し 正直に
た たえず求める
く 邦雄です
に 二度と生まれ出で
お おわりは天へ
名づけ親も由来も知れぬ私の名前 荒井 文
生れて三日目に母と死別、十日目に実家とも別れ養父母の家に行きました。今回このテーマを与えられて私は自分の名前の由来を、もしクリスチャンだった母か祖母が付けてくれたのだとしたら、親亡き後を思いキリストを救い主として御言葉(みふみ)を頼って生きるようにとの願いから「ふみ」とつけてくれたのではと、そしてもし養家の両親がつけてくれたのだとしたら、僧侶の資格のあった養父がお経からでもと、勝手に想像しました。いずれも定かではありません。また養母は師範学校を出ていましたので学問ができるようにと、「文」という名前をつけてくれたとも考えられないことはありません。しかしいずれにしましても私はそのような名前には似合わない、遊び友達をつくるのは得意でも勉強は大きらいという子どもでした。でも学校はすきでした。学校ではぶんちゃんとまるで男の子のような呼ばれかたをしていました。
高校生のころ街を歩いていてよく易者に声をかけられました。私の相がめずらしく、「気になるので無料でよいから見させてください」と言うのです。はじめの易者は私の手相を見て、「お母さんはなく、お父さんは健在ですね」と言いました。易者の言った通りだったのですが、養女であることを知らなかった私は易者が正反対のことを言ったと思っていました。本当のことを知ったのはその二年後のことでした。二度目の易者は名前で占ってくれました。「ぶん」という字は四画だから死角だと言いました。文の下が斜め十字に流れていて「止め」がないのでどこまでも流され、何事にも成功しないと言いました。親や身寄りのない者は就職ができない時代でした。そして私は親戚や親の知人のところを転々としていて生活していましたので易者の言う通りだと思いました。結婚をすれば姓がかわるので運勢も変わると思いますが、良い変わり方をするか悪い変わり方をするかはわからないといわれました。が、結婚をしましたら苦労がもっと多くなりました。なぜ私のような者が生かされているのだろうと悩んだこともありました。
十九歳で祖母と再会し人生が一変しました。母の証しを聞かされたときミッションの高校を卒業していましたのですぐにクリスチャンになれました。教会生活の中で私の人生は明るくなりました。と、すると、名前を付けてくれたのは、もしかしたら母かもと思えてくるのです。
イースター(四月十七日)の日に私は二十歳で洗礼をうけました。天国の母が私のことをずっと見守っていて、「文ちゃんという名前は私がつけたのよ」と教えてくれたように思えてくるのです。
そうであれば、母の希望通り、御言葉に生かされ生きる文ちゃんでありたいと強く願わずにはいられません。これからも一生懸命学び、よき証しを文章にして残し、孫、子の代までキリストの愛を伝えたいと思っています。生母が天国で祈ってくれているように私も孫、子のことを祈っていきたいと思っています。
私の名前 北川静江
私の旧姓は「林」、祖父母と両親、大人ばかり四人家族の中に私、長女が生まれたので、皆大喜びだったと聞かされました。というのは、父の兄弟は弟一人だけ、女の子は祖父の妹以来だから、六十数年ぶりの女の子誕生ということで、親戚中が大感激で、お祝いとして多く親戚や親しい方から、きれいな花柄の反物をたくさんいただいたそうです。
大人四人で名前を考え、最終的には父が「静江」と命名してくれました。
「苗字が林だから、『静枝』にしようと思ったけど、林の静かな枝、ではあまりさびしい子になってはかわいそうだと思って、『枝』を『江』にしたんだよ」
と教えてくれました。『江』はどう言う意味でつけたかは言ってくれませんでした。
小学生になって、クラスの子はほとんど「…子」であったので、江の着く「静江」という名前が古臭く思えて嫌いでした。 一年生のある日、担任の先生が言ってくれました。
「静江という名前は、良い名前ですよ、それに静江さんは、大器晩成型ですね」
大器晩成の意味もわからない小学生だったけど、その言葉は忘れませんでした。大きくなってその意味が解ったとき、とても励まされ、将来に希望を持つことが出来ました。
結婚して「北川静江」になりました。北の川の静かな入り江、林よりもぴったりする、苗字と名前になったように思いました。
「ペンネームですか」と聞かれたことは何回もありました。文章を書く者にとって嬉しい言葉です。そしてクリスチャンになってから、「静けき祈りの時はいと楽し…」「静かに待て我が魂よ…」「静かに眠れる小さき村…」等など賛美歌に多く歌われ、また「主の救いを静かに待ち望む」(哀歌3・26)
「諸君はよろしく静かにしているべきで…」(使徒19;36)
「静かに働いて自分で得たパンを食べるように」(Ⅱテサロニケ3・12)
「安らかで静かな一生を真に信心深く、また謹厳に過ごすためである」(Ⅰテモテ2・2)
等など聖書の中にたくさんの「静か」が示されて、みな良い意味に用いられています。
父はクリスチャンではないけど、私が静かな優しい人に育ってと願ってつけたと思います。二〇〇〇年に九〇歳で召されましたが、「静江」と命名してくれたことを感謝しています。
神様は一年生の時、教師を用いて、「大器晩成型」といって下さいました。近年、教団の奉仕を通してその予言を成就させてくださった、神のお導きを感謝しています。
私の名前はひかりへん 島本 耀子
私の名の『耀子』は、光り輝く人生を願って付けたという。私だけがなぜ、他のきょうだいとは少し違うのか、考えてみた。
上の姉の名は房江。両親の文夫、佐久の頭から一字ずつとっている。次の姉は澄子。兄は章。敗戦の翌年生まれの妹は邦子。弟は新憲法に因む文憲。すべて父の命名である。
母は生まれ育った土地でずっと暮らしてきたが、三年間だけ違う土地にいたときに私を生んでいる。その年、二二六事件が起きた。十一月生まれの私はまだ妊娠初期だ。四人目の子だけを生みたがらなかった母は、騒然としてきた時代の空気を恐れたのだろうか。 芥子を沢山食べてみたけれど、効かなくて耀子が生まれた。と、反抗期の十代の私に、母は言ったのだ。そんな私に、光り輝く人生などあるのかと、悩んだときがある。父は、そこまで見越していたのだろうか。
画の多い漢字に、小学校の習字では難儀したが、今は気に入っている。よい字だとほめられたことも度々ある。父にそんな話をすると、気難しい父の顔がいつになく綻んだ。
「耀」の文字には目聡くなっている。だが、「栄耀栄華」の四字熟語は嫌いだ。私の望みではないし、関係ない。しかし、光偏のある名をもらったのだから、せめて、瞳の輝きだけは失わずに生きたい。そう思うと次第に、自分の名前が好きになっていったのだ。
パウロも私たちに言っている。暗闇から今は主に結ばれて、光となっている。「ひかりの子として歩みなさい」と。だが、聖書を知らない人に、「私は光の子」と言って、控えめにしたらと窘められたことがある。
「耀」は、かなり長い間制限漢字の中に入っていた。国語審議会の小父様方がどう考えようと、文字は文化なのだからこの世から消えてなくなりはしない。「光偏」は、漢和辞典に項目がない。少数派だからといって、私の大切な名前を粗末に扱わないで欲しい。時々間違った文字を書かれてしまうのは、このせいなのだろう。
ある医院で、私に名前の読み方を聞いた窓口の人が「珍しい字ですね」と言った。
「光り輝く子になれと、親は望んだのですよ」。
誰かがくすりと笑った。振り向くと、いい年をして……と言いた気な、皮肉な中年男性の横顔が座っていた。私は心から反省して以来二十数年、余計な口は慎んでいる。
最近の私には、『美雨』というもう一つの名がある。教会のホームページの小文のために考えた。何十年も昔の中学生時代、国語の先生から聞いた珍しい苗字が元になっている。「大豆田(まみゅうだ)さんは、『大豆生田』が長すぎるので『生』の一文字を削ったが、『大』を削るべきだった。日本語で『みゅう』の発音は非常に珍しい」と、先生はおっしゃった。
『美雨』を『みゅう』と読ませるには少し無理があるので、私はあれこれと迷った。自分で自分の名を考えるのは楽しいものだ。
島本 耀子
し 慕い求めし
ま 真清水を
も 諸手に受けて
と 止めどなし
よ 喜び溢れ
う 歌湧きいずる
こ このよきあした
神の喜びは代々に 三浦喜代子
「きよちゃん、きよちゃん」
このおばさんに呼ばれると、自分が自分でないような気がした。透きとおった柔らかな声や、着物からほのかに匂う香りのせいもあったろう。
おばさんは父が独身時代から勤務するY商会の社長夫人であった。会社は戦前から銀座木挽町で商いをしていた。戦争中は一時閉鎖していたが、戦後まもなく再開、父も復職したのだった。
おばさんは一人娘だった。乳母日傘(おんばひがさ)で育った箱入り娘と聞いた。養子を迎えた。社長になったおじさんも実に穏和な紳士であった。
会社の近く、歌舞伎座から少し入ったところが我が家であった。自然、私の家族との係わりも深いものだったらしい。
私の名前はおばさんが決めてくださった。
父の清(きよし)の音から、喜代子としたという。清子としなかったところにセンスと知恵を感ずる。子どもといえども一人の人格をもった新しい人である。ダイレクトすぎるのはどうであろう、と、おばさんが考えたかどうかどうかは知らないけれど。
おばさんは父を「せい(清)さん」と呼んだ。その響きもまた新鮮で、父が父でないように思え、なぜか聞くたびにドキドキした。
十歳くらいまでの私にとって、おじさんとおばさんは親戚以上に親しく、しかも住む世界が違うと感ずるまぶしい人たちであった。 おじさんはときどき銀座通りへ連れて行ってくださった。帰りには、私はいつも本を抱えていた。今思うに、そこは教文館ではなかったか。
戦後、我が家は今の地に移り住んだが、私はよく遊びに行った。学校の休みには泊まりがけで行ったこともあった。
おばさんの買い物には必ずついて行った。
お昼はトーストした食パンにバターが塗られた。そのバターであるが、家のとは味も風味もまったく別物で、あまりのおいしさにびっくりした。純正のバターだったのだろう。
「喜代ちゃん、喜代ちゃん」と呼んで優しくしてくださったおばさんも、本を買ってくださったおじさんも亡くなってから、父は小さな会社を設立した。
銀座にはいまでもよく行くけれど、商会のあった場所や父母と暮らした家がどこであったか確かめたことはない。木挽町という名も消えた。
おばさんがつけてくれた喜代子と言う文字に神さまの恵みが刻み込まれているのを知ったのは、十五歳で救われてかなり経ってからのことである。
喜代子とは、『神さまの救いの喜びは代々に続く』と意読した。
清(せいさん)と呼ばれた父は先年、天国に先駆けていった。
三浦喜代子
み 未知の世界に 希望あり
う うれしい受洗 十五歳
ら ライフワークは あかし文
き きよきキリスト 聖書をもとに
よ 読んで学んで 書きつづる
こ ここに幸あり 恵みの人生!
私の名前―きみ子は誰の子 堀川きみ子
私の名前は、きみ子。
両親が君子としなかったのは、あまり高尚な字にしてしまうと、名前負けしてしまうと思ったのか・・。子供の頃テストの時、平仮名で名前が早く書けるので良かったと思った。小学生の頃、「桃太郎」の歌でからかわれたことがある。「ももたろうさん、ももたろうさん、お腰につけた、きびだんご、ひとつ、わたしにくださいな」この「きびだんご・きみ子」が似ているからだったのか今でもよく分からない。
中学生の時、三年ほど長男夫婦が同居した時があった。偶然にも、兄嫁の名前が君子であった。家の中に二人のキ・ミ・コ。父が「キ・ミ・コ」と呼ぶと、二人が「ハイッ」と返事をするので、この時は混乱した。長男夫婦に女の子が産まれた。「美穂」と名づけられた。私は中学生で「叔母さん」になり姪の子守をした。トコトコ歩くようになった頃、兄家族は別の家に引っ越していった。
小・中学生の時はいつも、きみ子ちゃん。いまは、きみちゃんと呼ばれることも多い。ありふれた名前で好きでも嫌いでもなかった。女性は結婚で姓が変わる。どんな名前になるのかちょっぴり不安もあり、また期待感もあった。堀川はそんなに多くはない。全体として少しイメージが変わったかなと思った。結婚当初は新しい姓に馴染むのに時間がかかった。あれから四十年、もう堀川があたりまえでなんとも思わなくなっている。
父も母も、自分を大切に生きてほしいと思っていただろうに、私は何と自分を粗末に扱ってきたのだろうか。 名前も大切なものなのに、私はあまり意識せずにいた。自分の存在を示すものなのに、今頃になってそれに気づくようになった。聖書の神さまは一人一人の名を呼んで語りかけてくださる。アブラハム、モーセ、ヤコブ、サムエル、…。神さまはずっと私の名前も呼び続けていてくださったのだ。「きみ子よ、きみ子よ、…」と。
イエスさまは「救いの君」「平和の君」といわれる。きみ子は君の子、私は神さまの子どもとされたのだ
(イザヤ・四十三章一節)
堀川 きみ子
ほ ほんとは弱虫 クリスチャン
り リ・クリエートを 繰り返す
か 神の静かな 語りかけ
わ 私はあなたの 名を呼んだ
き 君はわたしの 愛する子
み み国に入る その日まで
こ このみことばを 離すなと
わたしだけの大切な・・・・ 西山純子
「ただそのままに まっ直ぐに 混ぜものなしに 歌い上げる」
詩人三好達治は、萩原朔太郎の追悼号に「師よ 萩原朔太郎」と題する詩を書いた。
その中に冒頭に挙げた言葉を記している。
私は多少だが詩を書く。書かずにいられない、言葉や思いがあふれ出てくるような時もあった。あったーと過去形に書くのは無念だが、近年あらゆる点で煩雑な生き方を余儀なくしているうちに、源泉からわき出る混じり気のない流れを見失いがちなのだ。
某紙に載っていた まっ直ぐに 混ぜものなしに という言葉が私を釘づけにした。
私は何をしているのだ? どうしてそんなに忙しがり、大切な何かを遠ざけてまで駆けるのだ? いつになく激しい自責の思いに突き上げられた。
私の名前は純子(すみこ)。母が付けてくれた名前だ。大学一年に入学して間もなく、私は五月病になった。猛勉強したわけではなかったが、受験後の脱力感が襲った。高校時代とは大きな違いのある講義内容。当時その大学は女子学生の少なかったせいもあり、まだ大騒ぎして話す相手もなく、帰宅するとどっと空しさに襲われた。期待していた文学の講義も一年生の前期では、一般教養が多く私の求めていたものとは違っていた。
やがて、友人もでき合唱団にも誘われ、青春真っただ中を生きたのだが…。
帰宅して、ため息をつきゴロゴロしてばかりいた私に、母は話しかけた。「あなたが私のお腹に居た頃、私は願ったの。元気な子、太陽を見上げてスクスク育つひまわりの花のような子になってほしいなって。純子 この名前は私がつけさせてもらったの。まじり気のない、まっ直ぐなおおらかな人になってほしいってね」
平素、母は多くをしゃべる人でも口うるさい人でもなかった。私の名前の由来は、その時初めて聞いた。私はこの日のことと、この日の母の言葉はきっと生涯忘れないだろうなと、熱い思いでうれしく受け止めた。
生意気な文学少女でもあった私だったが、牧師先生や教会学校の先生、可愛がって下さった婦人たち青年たちのお蔭で、態度や言葉とは裏腹に素直な気持ちでキリストを信じ、迷いなく歩み続けて来られた。
神は母を通して私に素晴らしい名前を下さったと言える。
今また改めてこの名前にふさわしく、御言葉に聞き従い祈りを中心に、詩と讃美の心を捧げ続ける者でありたいと願う。大切な名前 純子 大好きな名前 すみこ 感謝だ。
西山 純子
に ニッコリ 笑顔を 忘れない
し 自然な 会話で 包みこみ
や 優しい トーンの 音質で
ま 真の ことば 語りたい
す 素直な心 失わず
み 御子イエスの業 讃めたたえ
こ この世に伝え 仕えたい
名前の由来 浅見鶴蔵
浅見はどこにでもある普通の苗字ですが、つるぞうは曲者です。ただの鶴蔵であれば良いのですが、何と鶴の上に雨冠がついているのです。
私が生まれた時町の小学校の校長先生の名前が雨冠のついた難しい鶴蔵だったそうです。で、校長先生にあやかるようにとお祖父さんが鶴蔵と付け、喜んでいたそうです。そのほか、昔歌舞伎役者にも雨冠のついた坂東鶴蔵という人が一人いたそうです。付けた方はいいですが、付けられた「鶴ちゃん」は大変でした。
といいますのは常用漢字にないばかりではなく、字画が六十六画もあったからです。国民学校一年生の時先生から、名前だけは間違いなくきちんと書きなさいといわれ、試験の時にはきちんと名前を書くようにしていました。そのため私がまだ名前を書き終わらないうちに周りの者は早くも何問かの問題を解き終わっていました。そしてその度に私は悔しい思いをしました。しかし今思いますとそれも大変懐かしく思えてなりません。
四十五、六年前、運転免許証をとりに行った時のことです。最近になってようやく入るようになりましたが、当時のパソコンには雨冠のついた鶴の字はありませんでした。免許証の名前は手書きで書き、縮尺してコピーしていたようです。ですから鶴の上の部分が出っ張っていました。そして免許証を受け取る時には必ず、「つるぞうさんですね、間違いありませんね」と確
認され、また聞かれたなと苦笑をしたものです。
公用の文章は人に頼むことができませんので今までに一度も問題を起したことがなく、ありがたいと思っています。
どういう訳か兄は宇市、弟は武司です。小さい時からなぜ自分だけ難しい字なのか不思議に思っていました。
名は体をあらわすとよくいわれますが、「鶴は鶴亀の鶴なのでおめでたいし、蔵は大蔵省の蔵なのでお金持ちでいいですね」と度々いわれたものですが、頭の方は少しはおめでたいかもしれませんが、お金の方は一向に神さまは与えてくださらないようです。
自分の子供三人の名前は、真実子、愛子、信一と聖書から付けました。
そして私は小学校の校長ではなく、教会学校の校長を五十年間、主に守られ奉仕をさせていただきました。これからも嘱託として、フリーな立場で応援をしていきたいと思っています。
浅見鶴蔵
あ 愛 それは 神の愛
さ さわやかな愛 それは 神の愛
み 皆の愛 私の愛 それは 神の愛
つ 仕える愛 それは 神の愛
る るんるん気分の愛 るり色の愛 それは 神の愛
ぞ ぞくぞくする愛 存外な愛 それは 神の愛
和」「輪」「話」を求めて 長谷川和子
「和子」ありふれた、どこにでもある名前。小中学生時代のクラス・親戚・町内会・PTA・サークル・教会等々同じ人は必ずいるといっていいほど。他の名前の人と比べてその数が多いかどうか、私と同年輩にはこの名前が多い。
戦時中は、「日本は必ず勝つ!」と信じて人々は苦しい日々を耐えて生きていた。先輩の中には「勝子」という名前も多かった。戦後は平和を願って、「和」から「和子」の名前となったのだろう。このように考えると名前は歴史を現し、いつの世もその年に話題になった人物の名前の一字をとって付けたり、その時々の世相を反映したところから付ける人もいる。美智子皇后が結婚した年、巷ではミッチーブームとなり、「美智子」と命名した人が多かった。
私の名の由来はハッキリとは覚えていないが、たしか生れた近くの神社に「和之宮(?)」という人が祀られていて、「そこから付けた」と亡き母が話してくれたことがあった。その場所は神奈川県野辺だが一歳のときその地を離れたままなので私には良く解らない。どうしても好きになれずにいた「和子」という名前…何故だったのだろう。説明しにくいが、「厭な名前だ」と漠然とした気持ちで成人したように思う。
「和子」を「ワコ」と呼んでくれた人がいた。この音の響きが好きで、(そうか、このような呼び方もあるんだ)と思ったのが二十二歳の頃、その後名前にこだわることはなく人生を過ごし、この名前が本当に良い名前だと思うようになったのは五十歳過ぎた頃からである。
「和」の意味を知れば知るほど何といい名前なんだと自分の名前に惚れ惚れしている。「和」とは穏やか、和(なご)やかで、のどかなこと。「和気」をもって「親和」に通じる…。
正に今の私の「性格そのもの」ではないか。
我が人生は苦難続きであったが、前向きに突き進んできたように思う。しかし根は実にのんびりしたところがある。天然ボケなのか、あたりまえにやっていることでも他の人から見れば笑いの対象になることが多々ある。
争うことが嫌で「みんなで仲良く過ごしたい」という気持ちが強い。その反面納得いかねばとことん追求し、理解すれば(和解)あっさりしたもの。
『全ての人と相和し、きよめられることを追い求めなさい』(ヘブル十二・14)のみ言葉通り、人との和(親和)をとても大切に思っている。
「名は体を表す」というが名前の故に自然と今の私が造られていったのかどうかは分からない。しかし神の愛によって、今の私となったことは確かである。
長谷川 和子
は はなしがうまく 言えずとも
せ 聖書のこと 語りたい
が 頑張ってよと 言いきかせ
わ わかってほしい イエスさま
か 感じてほしい みことばを
ず ズーと昔に 帰ろうよ
こ こどもの心の 目でみよう
わたしの名前 日下健一
「なんと欲張りな名前なの」と彼が名乗るたびに思わせられる。「信愛希」と書き、「ノブアキ」と読ませる。クリスチャンのご両親が祈りに祈って付けたものであろう。普通なら三文字の一つだけで名前にするものである。例えば「信雄」、「愛哉(ヨシヤ)」、「希一」などがそうである。彼の両親はそれらで満足せず、全てを含む三文字を彼の名前にした。神に対するご両親の信仰が息子の名前に託され告白されているように見える。息子に対する大いなる期待が伝わってくる。彼はご両親の願いの道に導かれ、工学部の博士課程を中退し、今神学校で学んでいる。
私の名前は「健一(ケンイチ)」である。四男一女の五人兄弟の三番目である。父からは「他の何が良くなくても、健康だけには恵まれるように」とのせめてもの願いがあったと聞かされていた。一九五〇年一月に生まれた。終戦が一九四五年八月である。父はシベリヤで捕虜になり抑留されていた。日本への帰国、そして結婚、そして私が生まれた。「健一」との名には混乱の中でも何とか生きてほしいとの願いが込められているとこの頃わかるようになってきた。
小学校五年のころ、自分について考えるようになった。
兄から、「お前は今の父親の長男だぞ」と言われ、「健一」には罰の意味も含まれていたことを知った。戦争で多くの男性が戦死した。父のように戦死ではなかったが先夫の子どものいる婦人と結婚するのは特別なことではない時代だった。
戦争は一人ひとりに苛酷な運命を負わせた。父は戦争のこと、その間に起こったことを語らない。私もその部分には触れない。父が日本に戻り復員するその間に、子どもがおり既になくなっていたことを知ったのはずっと後になってからである。
十年ほど前に母が喉頭がんで亡くなった。食べられない辛さを見ている方も辛かった。亡くなる前にイエス様に罪の赦しを祈り救いに入れられた。
死後親戚が、「母の戒名をもっと良いものにするのが親孝行だ」と言い、お寺と掛け合った。が、三代前の先祖の戒名まで良いものにする必要があると言われ、その高額な金額のゆえに断念した。日下家には他の家とおなじであるが、先祖代々の名が連ねられている。私の名前はその中の一つである。
聖書の中には読むのが厭になるほど人の名前が記されている。それは一連の実在した人達の記録である。しかし単なる人の名前ではなく、創造者なる神との関わりの中で記されている。
私は今、神の摂理により、日下家に名前を連ねるものの中で神との命の関係に初めて入れられた者となっている。
『そして、わたしは、彼の名を命の書から消すようなこと
決してしない』(黙示録三・5)
名前と人生 石井 七郎
ある晩餐会の席でとなりの人から、「七番目ですか、ご兄弟は何人ですか」と言って尋ねられた。私の胸についていた名札を見られたからであろう。
「はい、七番目です。兄弟は十人です。上から一番二番、そして八番九番十番を除いて、中の五人はすべて生まれてきた順番がわかるように名前がつけられました。私はラッキーセブンです」
と答えた。となりの人はにこにこしながら私の話を聞いてくれた。楽しい晩餐会のひとときだった。
帰りの道すがら、私は七十年も昔の子供のころを回想していた。そのころは小学校も少人数で、みんな名前に「ちゃん」をつけて呼び合うことが多かった。しかし私は「しっちゃん」とか「ひっちゃん」と呼ばれるのが嫌だった。自分がバカにされているような気がしたからだった。
そのころ変な歌が流行した。「しっちゃんバケツは十三銭、安いと思ったら底抜けだ」というのだ。私のことを底抜けバケツと呼んでいる。子供心に悔しく、私は何度も友だちと喧嘩をしたり悲しい思いをしたりした。親はなぜ七郎とつけのただろう。他にいい名前がなかったのだろうか、などと思ったこともあった。
十七歳のときに大東亜戦争が終り、初めて教会に行って七は無用なものではなく、聖書によれば天地創造の土台になっているということを知って驚いた。神の創られたものはすべて良いものである。何一つ無駄なものはない。
先日聖日礼拝のあと教友から、「座右としている聖言は」と言って尋ねられた。私にとっての座右の聖言、それは五十年ほど前に田川教会の皆様からいただいた、『キリスト我が内にありて生くるなり』(ガラテヤ二・20)との聖言である。信仰生活の秘密はそこにある。そう私は思っている。そしてその聖言は今も私の内に生きている。
今年の初秋、中国にいる息子家族と会うために大連を訪れた。
そのとき中国詩人の秋竹さんは私を前にして終始黙しておられた。そして私の名前を頭にした七言絶句の詩を詠んでくださった。
七喜十福 人生美
郎乃賢士 万事成
色紙に書かれたこの詩を私は何遍も読んだ。詩人秋竹さんは、人生の終焉のとき成るであろうと、したためてくださったのだと思う。
学業を終えて社会人になったとき、マタイによる福音書の十章十六節を読んで祈った。
『あなた方は、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい』
はや八十路の峠が見えてきたというのに、私は役立たずのバケツ、それでも主にゆるされて生きる喜びを思えば感謝である。
名前に恥じない人生を 遠藤幸治
私の名前をつけるにあたってはちょっとした騒動があった。祖父が「幸治」とつけようとしたのだが、
「俺の同級に『こうじ』というバカがいるからつけないように」
と言って家族の誰かが反対をしたのだそうだ。
これに怒った祖父が、
「幸いに治まるとつけて何が悪いんだ!」
と言って反対を押し切り、大きな紙に「幸治」、それも「幸」という字の横の棒を一本間違えて多く書き、鴨居に張って絶対に譲らなかったというのである。封建的であった当時にあっては戸主の権限が大変強く、誰も祖父には反対することができなかったそうだ。
その祖父、名を一良というのだが大変信心深く、何があっても神様、神様と言うので村人からは、「神様一良」というあだ名で呼ばれていた。勿論神様といっても神道でいうところの神で、聖書に書かれている神ではない。
その祖父が、何故か九人もいる兄弟の中で私だけに名前をつけてくれたのである。が、実をいうと私はその名前が嫌いでしかたがなかった。
小学校ではみんなから、「甘酒コウジ、ドブロクコウジ」と言って冷やかされ、四年生の時などは担任の先生から、「味噌コウジ」と言われたりもした。
また私が上京したころはプロレスが大変盛んで、力道山や遠藤幸吉といったレスラーが大活躍をしていた。そのために私の名前を間違って、レスラーと同じ遠藤幸吉と呼ぶ人もいたりした。
教会に行くようになってはじめて、このような自分をも神様がつくってくださり、「幸治」という名前も神様が与えてくださったのだと思えるようになった。エレミヤ書第一章五節に、『わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、…』とあるように、この私をも、母の胎内にあるときから神様がご計画の中に入れてくださったのだということがわかるようになったのだった。
「幸い」、それは、「キリストの恵み」に生きることである。私は神が与えてくださったこの名前を大切にして神を第一とする生活を守り、心から神に感謝を捧げる毎日を送れるようにしたい。イエス様が、『心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです』(マタイ五・3~4)と語ってくださったそのみ教えに耳を傾け、「幸治」という名に恥じない人生を歩んでいくようにしたい。
遠藤幸治
えん(エン)ジンかかりが悪いんだ
どうせわたしはポンコツ車
うら道ばかりであったけど
ここで出会ったイエスさま
う(生)まれ変わりのバプテスマ
じ(十字架)見上げて祈るなら
どんな所も泉湧く
う(嬉し)涙の透析ベッド
ぞ(存知)ぬうちに主の愛うけて
よろこび勇んで伝え行く
ろ(老後)生き生き悠々と
し(シ)メオン爺さん夢叶う
く(来)るに決まってる死に備えよと