本篇

 志に生きる 説教要旨          理事長 池田勇人
  
志をはたして いつに日にか帰らん
  山は青き故郷 水は清き故郷
大正三年(一九一四)に発表された唱歌、高野辰之作詞「故郷」の3節です。曲は岡野貞一(キリスト者の作曲家・オルガニスト)ですから、最後にアーメンを付加しても違和感がありません。
 青雲の志を抱いて、新しい出発をしている若人らの祝福を祈ります。青雲を辞書で見ますと、グレート・アンビション(大望)とありました。「ボーイズ・ビー・アンビシャス!」(少年よ、大志を抱け)と言い残して、W・S・クラークは米国に直行と思いきや、何と彼は京都同志社の新島襄を訪ね、「オー マイ ボーイ」と抱きかかえています。国禁を犯して留学した新島は、すでにクラークと旧知の間柄だったのです。

W・メレル・ヴォーリズ(日本名一柳米来留 ひとつやなぎめれる)は、教育、医療、福祉、建築と幅広く活躍した宣教師。「福音のためにはどんな事でもする」(Ⅰコリント九・23)青い目の近江商人でした。琵琶湖の東近江八幡に赴任して、二〇〇五年でちょうど百年ですが、生涯を支えた彼のモットーは「志に生きる」でした。
新島は日本仏教のど真ン中京都に、キリスト教宣教の足がかり同志社学園をつくりました。ヴォーリズも仏教界からの反発を受けながら、福音の土着化に多大な足跡を残しました。志に生きる人々によって、このように福音や文化は進展し、重い歴史の扉が開かれてきたのです。

さらにこのようなリーダー達だけが偉かったのではなく、彼らを支えた名も無き仲間達、志を半ばにして命を捧げていった民衆を、決して忘れてはならないでしょう。歴史の表舞台に登場した勇者達はもちろん、彼らに志を起こさせてくださった神に気づく眼差しを持ちたいものです。歴史(ヒストリー)なる語が、神の物語(ヒズ ストーリー)から生れたのですから、歴史の真の主人公に、まず耳を傾けてまいりましょう。
「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる……」(ピリピ二・13) 
世の多くの人の志とキリスト者のそれとの違いは、第一に、神が与えてくださるということです。もちろん棚からボタ餅式でなく、よく考え祈り求める中に、ということです。

第二に、私達が消耗品として使い捨てにされることはなく、神が最後まで責任を持ってくださるということ。神が始めてくださったことなら、必ずや完成させてくださる(ピリピ一・6)との信仰に立ちたいものです。
第三に、与えられた志を目当てにし、今なすべき小事に忠実であれ、ということ。自分にはもっと大きな奉仕があるはずだと、夢想しつつ朽ちてしまわぬようにと祈ります。

神の足台                   浅見鶴蔵
 
心から、進んで、喜んで、嫌がらずに、彼に従う道を私に教えてください。
「大丈夫ですよ、何もくよくよしなくてもいいですよ。どんなことが起こっても、挫けることが無いように、心の準備をしていることが大事ですよ」と多くの人は格好よく言われます。でも、中々その様にはいきません。理解はできても現実は厳しい環境と状況がいつも身の回りに付きまとっています。主イエスが天国に戻られた後、弟子達は、様々な苦難に遭遇することを知っていて問題が起こる度ごとに対処する心得(道)を実践的に教育されていたことを、しみじみと思い出すのでした。
 
『ある日のこと、イエスは弟子たちといっしょに舟に乗り、「さあ、湖の向こう岸へ渡ろう」と言われた。それで弟子たちは舟を出した。舟で渡っている間にイエスはぐっすり眠ってしまわれた。ところが突風が湖に吹き下ろしてきたので、弟子たちは水をかぶって危険になった。そこで彼らは近寄っていってイエスをお起しし、「先生、先生。私たちは溺れて死にそうです」と言った。イエスは起き上がって、風をしかりつけた。すると風も波も治まり、なぎになった。イエスは彼らに、「あなたがたの信仰はどこにあるのです」と言われた。弟子たちは驚き恐れて互いに言った。風も水も、お命じになれば従うとは、いったいこの方はどういう方なのだろう』(ルカ八・22~26)
 
切羽つまった時に「私は溺れて死にそうです」と死という言葉がとっさに出るでしょうか。ああだった、こうだったと色々理由をつけて、自分なりに有利になるようにして、いつの間にかイエス様を忘れてしまっているのではないでしょうか。
「…いったいこの方はどういう方なのだろう?」本来ならば全幅の信頼を持っている弟子たちであり、疑問を持ちながらの実体験は、何にもまして多くの経験として生かされてきています。この事は、大きな収穫であり、真実に生きている、イエス自身を教えている姿を弟子達に信仰の基本として、場所と時を与えて福音の技を実行しながら伝道して行かれました。『あなたの信仰はどこにあるのか?』と主に問われると恥ずかしい部分が多々あり、「はい」このとおりですと良い返事ができません。
 
ダビデ王は、立ち上がって、こう言った。「私は主の契約の箱のため、私たちの神の足台のために、安息の家を立てる志を持っていた」私は建築の用意をした。(歴代誌二八・2)
旧約の時代から、私たちに信仰の基として契約の十戒を与えてくださり、現在まで守られてきました。神の足台のため、安息の家を建てる志を、とあります。
 
神の足台とは何でしょうか。神の前に身をかがめて、心から主を待つ姿勢ではないでしょうか。一つの志として、今まで生かされ、守られ、苦しみの中にあっての恵みと、憐れみの証し(自分史)を通して愛なる主イエスを多くの人々に大きな志として伝えていきたいと願っています。
   

新しい志                  荒井 文
                    
何のために生まれ、何のために生かされているのか何度も考えたことがあります。しかし今もってそれがわからず、ビジョンもないまま人生を歩んでいます。
 
「クリスチャンは神様からの福音を人々に伝えるために生かされているのでは」と、多くの先輩が言われます。しかし神学校で学んだことも無い私にはどのようにして伝道すればよいのかがわかりません。私は教会に行っているだけのクリスチャンにすぎません。家族や友人にはそう言っています。母の命までもらって生かされているというのにです。神様はなぜ何も示してくださらないのでしょう。今の私にはただ、信仰の道をはずれずに歩むだけで精一杯です。
しかしそのような私の脳裏をかすめるようにしてみことばが与えられました。マタイ伝六章二六~三四節です。元来のんき者の私にはぴったりのみことばです。何も思い煩らわずこの世を造られ支配されている神様に頼っていればよいというのですから何とすばらしいことでしょう。
だからと言って自己中心な生き方をしてきたわけではありません。自分よりも弱く困っている人のためにボランティアもしましたし、献金もしてきました。そのようなことしか私にはできませんでした。時々、「このようなことでよいのでしょうか」と、神様に尋ねてみたいと思ったこともありました。
 
しかしそのボランティアも中断をして主人の看病をしなければならなくなってしまいました。三十年前に肝硬変になりその合併症で糖尿病に、そしてそのまた合併症で左肢動脈硬化閉塞(エソ)になって左足を切断するということになってしまったのです。その上、肺がんとなり、余命六か月と診断されたのでした。それだけではありません。今度は私までも糖尿病になり血糖値を下げる治療を受けることになってしまいました。が、すべてを益としてくださる神様を信じ、今は主人の病気があったればこそ私の病気がわかったのだと、神様に感謝をしています。このことが益となって生かされたなら、今度こそ「志に生きるとは?」を真剣に考えないわけにはいきません。

主人の看病も伝道も今の私にはできません。できることと言えば家族のために私が歩んできたことを書き残して葬式の日に配っていただくことぐらいです。母がしたように一粒の麦になれたらと思ってJCPに入会させていただき一生懸命文章の学びをしています。できるだけ多くみことばにふれる機会を増し、みことばに従って歩みたいと思っています。糖尿のためだけとは言えませんが視力が低下して目の疲れを感じるようになってきました。さびしい限りです。
主人も亡くなり自由が与えられました。教会の牧師のすすめでリック、ウォレン著『人生を導く五つの目的』を読んでいます。

十字架によって一つ             内海健寿

「愛の宗教であるキリスト教が、アイルランドでは、なぜあのような戦闘をやっているのですか」と、高校時代の教え子から尋ねられた。私の答え「イエスは『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛しなさい』と教えられたのです。彼らはイエスの教えを実行しないからです」
私はある日、母校東京大学経済学部において大河内一男教授(元東大総長)の令息、大河内暁男教授とロンドン大学の客員教授フォーカス(ローマン・カトリック、夫人はクェーカー、その背景はユダヤ教)と三者会談の時「私はローマン・カトリックを愛する。同時にマルチン・ルーテルを愛する」と英語で発言した。その時のフォーカスの驚いた顔。

「ルーテル、彼はカトリック教会の破壊者ではありませんか」と彼は叫んだ。
十六世紀、教会が最初に決裂したドイツにおいて、いま教会の一致をめざす真実な働きが進められている。一九九〇年べテル聖研による南ドイツのオーバーアマガウの受難劇鑑賞の途次ダムルシュタットのストルツェ牧師宅にホームステイさせてもらった時、私たちは教会一致運動にふれた。見解や教理の相違をのり越えて、キリストを信ずる者の根本的な一致の認識が深まりつつある。新旧両教徒による『新共同訳聖書』の出版は、日本が世界に誇るべき画期的大事業ではないか。欧米キリスト教国はやがてその意義を認識する時が来るであろう。クリスチャン・ペンクラブに、カトリックやギリシャ正教の参加を待望する!
 
信仰義認の信仰に立つルーテル教会は、ローマン・カトリックとプロテスタント諸教会との和解を推進する歴史的使命を自覚し、推進することが望まれる。我らは選民イスラエルとアラブ諸国民との和解を達成すべき重要な使命に立たされているのではないか。「十字架によって二つのものを一つの体とし」の御言葉の実現は祈りと作品活動に期待し待望される。
「ユダヤ人は十字軍を嫌う。十字軍はイスラム教徒はもとより、ユダヤ教徒までやっつけた。従ってクルセードや十字架も嫌う」「ユダヤ人への伝道は非常に難しい。ユダヤ人と人格的な信頼関係をつくることが第一です」と聞いた。使徒パウロは、またユダヤ人伝道にも情熱を傾けた。「私には大きな悲しみがあり」(ローマ九章)と告白する。ユダヤ人が個人として民族として、主イエスを受容することを祈る。(ローマ十一・章28)
 
一九八〇年代私は会津高田の宣教師アーミン・クレーラさんたちとアメリカを訪問し、「死の準備室」を見学した。死を安らかに迎えるために、ユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒のそれぞれのリーダーが来て心の平安を祈ってくれる室である。
ユダヤ人、ギリシャ人、奴隷、自由人、男女すべてイエスにあって一つだ。人種、階級、男女差別よりの開放を祈る。
 

信仰に生きる               遠藤幸治

「志」この字を見ると、「武士の心」つまり「士(侍)の心」そんな感じがします。
『武士道は死ぬことをも見つけた。プロは死ぬことである』
誰が言ったか忘れましたが、ある本で読んだことがあります。
「志に生きる」で最初に頭に浮かんだのは、クラーク博士の名言『少年よ、大志を抱け!』でした。
 
小学校四年か五年の頃、習字の時間に書いた記憶があります。
どんな志を抱いて生きているのか、自分を見つめなおす機会が与えられました。
一般社会のなかでよく言われている言葉に、「志半ばにして…」とか、童謡『ふるさと』に歌われているように、「志を果たして…」などがあります。
聖書の中に、志(こころざし)という言葉を探してみましたが、「意志」という言葉はありますが、志はなかなか見つかりませんでした。でも、二〇〇五年の五月のペンクラブの例会で池田先生がお話くださったときに、ああ、ここにあるんだと思いました。
『あなたは全き平安をもって、こころざしの堅固なものを守られる。彼はあなたに信頼しているからである』(イザヤ二六・3)
 
「プロは死ぬことである」と前記しましたが、イエス様はわたしたちに代わって死んでくださいました。
「この人の心を心として生きる」そんな志を持って生きたいと思いました。
聖書の言葉を糧として、常に新しく変えられ、精錬されて、与えられた使命を果たす。必要ならば、いのちまでも捨てる用意がある人。そのような人たちの生き様を思うと、正に主のために命をかけた方々だったように思います。
また「志に生きる」とは、「信仰に生きる」ことだ。と思いました。
 
神のご意志は何かを常に問いただし、ヘブル書十一章の冒頭の御言葉のように、『見ていない事実を確認する』ことは、実に霊的な話で、聖霊の助けなしには考えられず、祈ることの重要性を感じます。
神さまは、確かな未来を約束しておいでになります。歩むべき方向と目的を与えられ、いつも喜びと感謝を持って、与えられた使命に対して敏感でありたいと思いました。
「少年よ、大志を抱け!」ではありませんが、「老年よ、大志を抱け!」と、自分に言い聞かせ、また、使徒言行録二章十七節に書いてありますように、『夢見る老人』でありたいです。
 『力強く生き抜いてゆく社会的情熱は、十字架の福音という中心から創造され、組み立てられてゆく』 P・Tホーサイス

 掘り出された賜物             小川 恵子

『あなたのもろもろのみわざを宣べ伝えるであろう』詩篇七三篇二八節
子どもたちが幼いころから私は「神様、家族を救ってください。また、子どもたちが成人するまで、この私を健康で生き長らえさせてください。その後の人生は、お捧げいたします」と祈っていた。祈らされたのかもしれない。
ところで私は何をもってこの身をお捧げしたらよいのか分からず、お委ねしていた。今から思うと、一九八八年より神様は訓練を始めてくださった。先ず趣味で教会の短歌の会に入った。毎月五首「信徒の友」に投稿を十四年間続けたのは言葉のよい訓練となった。またギデオン協会に入会し、聖書日課によって、旧新約聖書を一年で通読するようになった。これは途中二年ほどブランクがあったが今も続いている。ギデオンで他教派の人たちとの交わりもよき恵みであった。
九〇年、九五年、九七年と三回交通事故に遭った。初めの二回は自転車事故、三回目は追突事故だった。どの事故にも共通することは、百パーセント私の側に落ち度はなかったことと、命に差し障りがないことだった。

三回目の事故の夜は眠れず、神様に「どうして三回も事故に遭ったのですか」
と、問わずにはいられなかった。詩篇七三篇が示されたが、意味が分からなかった。次の聖日の礼拝後、私の事故の話に牧師は祈るため詩篇七三篇を読まれたので驚いた。「一回でも神からの御言葉。二回ならより確実。もし三回与えられたなら、絶対に神からの御言葉だから、必ず従いなさい」とのアドヴァイスを受けた。既に家族全員が洗礼を受け、九五年には下の子も成人している。神様は大切な祈りを聞いてくださった。だが、約束の時は過ぎているのに仕事は引退できる状態ではなかった。
九八年、夫はギデオン協会の支部の役目を授かった。神様の御用とはいえ仕事、健康を考えると、とても無理である。祈った結果、二年ほど休んでいた聖書通読を再開し、力を受けるようにと導かれた。その日の聖書日課が詩篇七三であった。これで三回目になる。冒頭の二八節の御言葉が胸に迫ってきた。宣べ伝えるとは伝道のことであろう。

「神様。いくら何でもそれは無理です。私はそんな力を賜ってはおりません」
数ヶ月の迷いと、ためらいと、祈りの後に、文書伝道を決意した。
「主よ、お言葉ですから、従います」
二〇〇一年、退職の見通しがようやくついた頃にJCPの夏期学校に参加した。頂いた満江先生の本「あかし文章入門」にも詩篇七三篇二八節が引用されている。これで決定づけられた。もう逃げることはできない。このようにして神様は、私が知らずに埋もれさせていた賜物を掘り出してくださり、志として与えてくださった。

小さな志                     小澤雅子

聖書を開き、神の前に静まる時が私にとって最も幸せなひとときだ。寝起きのふとんの中や、家族が出かけたあとの静まり返ったリビングで。また、出先の車中で。静かに神さまと向き合って過ごすこの時が、生活の中で最も至福の時間だ。みことば(聖書の言葉、神から与えられた言葉)の味わいは蜜の味。主(神さま、イエス様)の御顔を拝する時に、主の豊かな安息の中に入れていただくことができる。
 
けれど、私はこのように自分だけがみことばを味わい、神さまの御手の中で休み、幸せをかみしめていたのではだめだなあと感じている。神さまはそんなことは望んでいないだろう。これではいけないと背後からけしかけられている気がしている。礼拝のメッセージでも、弟子訓練のテキストにも、「世に出て行って、福音(イエス様の十字架による贖い、救い)を宣べ伝えなさい。それが救われた私達の使命だ」とある。マルコ十六章にも、イエス様からの宣教命令が書かれている。
 
果たして自分に何ができるのか。何をしたら良いのか。それを真剣に探求し始めて、もうすぐ三年になる。神さまが与えてくださった私の賜物とは何だろう。好きなもの、興味があるもの、人より多少得意とするものに、その答が隠されていると聞き、更に探った。下手ではあるが、文を書くことが大好きだ。文章を通して、神様の救いの福音を伝えていかれたらうれしいことだという思いで、クリスチャンペンクラブに入会した。
 
しかし、最近、文章伝道の意図がどういうことなのかわからなくなり、筆が鈍っている。必要なときに、祈りつつ愛する人のために書く手紙、そんな小さな一つ一つが大切なのではないかと思うようになった。身近な人の痛みや苦しみを共有し、共に背負っていく心。そこから発した言葉。その言葉が相手の魂に触れて欲しいという願いを込めて。人を教えよう、人を諭そうとする試みには意味がない。ある問題への答は人によって違うのだし、神さまから直接一人ひとりにささやかれていくものだろう。その神さまとの一対一の触れ合いから、人はイエス様に出会っていくのだろう。
 
それならば、文章伝道とは何なんだろうか。人を教えることではなさそうだ。友への慰め、励まし、そして何よりも、自分が涙ながらに悔い改めた後に神から受けた赦しやいやしの体験を、正直にあかしすることだと思えるようになった。自分が出会った真実のイエス様の姿を紹介していくことが、最良の道なのだろう。確信に満ちた実体験からきた言葉には説得力がある。私が日々味わっている平安、喜び、感謝を素直に表し、周囲に流していかれたら、それこそがまた私にとって新しい喜びになるだろう。それは、志などとは呼べない程の小さな小さな働きだ。

 神のご命令に従順                北川静江

三十数年前、クリスチャンになった私は言葉で直接伝道することはとても苦手、だから文章で神様のお役に立ちたい、との思いからクリスチャンペンクラブに入会したのでした。その当時は童話を書くことに夢中になって、書きながらわくわくし、出来、不出来はともかく、書き上げて充実感に浸り幸せそのものでした。聖書を座右の友として証しも書きました。
応募に投稿して、活字になって発表された自分の証し文章を目の当たりにして、満足したり、時にはもっとこう書くべきだった、と反省したり、一喜一憂。

ペンの友も出来、同じ思いの方々と話をすることでさらに、発奮、やる気が内側からむくむく湧き上がり、顔を紅潮させながら家路に向かう電車、ガタガタ揺れ、雑音の多い中で、新しいストーリーに思いをめぐらせたり、神様に感謝しつつ思うのでした。
もっと表現力を勉強したい、よい本をたくさん読みたい、そんな意欲も生まれました。そして童話集を二回出版しました。
誰でも大なり小なり経験することかもしれませんが、人間関係のトラブルやその他さまざまな要因で、継続することの困難さ、無理していると体調まで不良になり、JPCから離れました、これもサタンの仕業であろうかと。

書くことからしばらく遠ざかりました。「座して休め」の細いみ声に従って。
神様は別の道で用いてくださって、属している教区、教団の奉仕に携わり精魂こめてさせていただきました。そこに大きな祝福が与えられ『謙遜』の大切さを更に教えられました。『神のなさることはすべて時にかなって美しい』
任期があって、その奉仕から開放され、これから私は何をすべきか?と神の前に静まって祈ったとき「初心に帰って、文章で伝道をしなさい」と示され、さらに旧友にJCPに再び入会することを勧められて帰ってきました。
 
文章を書き続けることは一人ではなかなか長続きしない、強い意思を持っていたつもりでも刺激も無い、制限も無い、評価も無いのでは自然消滅です。
そんな意味でも再び入会して、人の文章を味わって、教えられ、刺激され、課題を出されて、期限付きで書く、ペンの友との交わりも楽しみながら。合わせて、教会において必要とされている奉仕を謙遜な心で喜んで捧げていくことも、神様のご命令と信じてやっています。
『わたしはあなたの業を知っている。わたしはあなたの前に誰も閉じることのできない門を開いておいた。なぜならあなたは少ししか力が無かったにもかかわらず、わたしの言葉を守り、わたしの名を否まなかったからである』(黙示三・8)と、神様に言われたいからです。

生かされて生きている            木村隆一

「まだ生きていますから……」
わたしは、何のために生かされているのかを問うこともなく、そのことを見失わないように努めるでもなく、ただそう言っては自分をなだめていた。
「病を克服してというのは口幅ったいです。元気で過ごして居れるのは、手術した大動脈弁を人工弁に取り替えたことや上行大動脈を人工血管に置換したのが、ちゃんと機能してくれているからです」
「お世話になった友人を大事にして、家族や兄弟とも仲よくしています」
 
余命三ヶ月と医者に宣告され、心臓の手術から、いつしか七年を経ている。
退院前から始まったリハビリと治療は、途切れることなく続いている。今も術後の生存率という曖昧な数字とわたしは闘っている。
わたしは近ごろ、自分が心臓の手術をしたことを少しづつ忘れるよう努めている。その分、生かされている自分を考えるようになった。 病院の定期検診(心臓エコー、二十四時間ホルター心電図)などで、生々しく思い出すときは必死になって考えないようにする。
「大変どころじゃなかったぜ。あの世へ一歩手前の死に損ない」
 
と、生還したわたしに心憎い言葉をかけてくれるのは、ソフトテニスの仲間たちだ。
「病気前よりテニス上手くなったよ。ボール持ちがいいよ」
見舞ってくれた友人からは、以前より腕が上がったなんて褒め殺しにあう。
心臓リハビリのゆかりで、病を励まし気さくに話せる輩との合言葉がある。
「調子よさそうじゃない」
集中治療室(ICU)に出入りして、昼夜を厭わない寝ずの看護をしてくれた妻がいて、私は死の淵から生還することができたから、いくら感謝しても足らないことを知っている。
「余生がテニスだけにあるのではないでしょう」
 
妻の置いた聖書が枕元にあって、そう語りかける。それをひもとき祈るよう促してくれる。
ふと気づくと、記憶喪失になっていることがある。テニスの試合では、スコアー用紙にカウントの記載を間違える。電話での大事な用件でメモすべきことを忘れてしまう。
その、忘れ症になったわたしが、一つだけ忘れないことがある。それは、牧師の説教をメモること。メモをしないと頭に入らない。耳からだけ聞いていると、気分良く寝入ってしまう。手を通して書くことで、説教を反芻し二度聞いている形になるのだろう。
「今日の説教、嬉しかった。良かったです」
わたしは、単純な人間で感動しやすい質だから、説教を聞いて感動すると、直ぐに人に話したくなり、たわいのない電話をする。わたしは生かされてゆっくりと歩んでいる。
 

宣教百周年に向って              久保田暁一

一九六一年(昭和三六)八月二七日の午後、私の母教会である日本基督教団大溝教会では「大溝宣教五十年記念式典」が営まれ、こじんまりした教会堂には、五十名近くの関係者が詰めかけていた。参列者の中には、当時、社会党の代議士であり堅田教会の牧師でもあった大溝教会主管者の西村関一牧師や、大溝教会出身で明石教会の牧師をされていた福井邦蔵氏のほか、大溝出身の大津市長や地元の高島町長などの姿も見られた。
 
この式典計画は、教会の主管者西村関一牧師と主管代行の今西誠也牧師のほか、教会執事の浅見義一氏を中心に教会役員が、一年前から案を練り、この日を迎えたのである。私も教会員の一人として列席し、宣教百周年の記念行事を祝った。その時、私は三十一歳、地元の高島高校に勤めていた。
ここで教会の歩みを一瞥しょう。
教会名に付けられた「大溝」は旧町名であり、現在は、高島町から高島市勝野になっている。この高島市勝野の地にキリスト教の宣教が開始されたのは一九〇九年(明治四二)であった。明治維新の改革によって版籍を奉還した旧大溝藩主の分部光謙公が東京から帰郷し、自宅を開放して伝道の定期集会を開いたのが宣教の始まりであった。それ以来、幾多の困難な変遷をへつつ、伝道集会は、有志信者の家や町の会堂を利用して開かれてきた。そして、一九三四年(昭和九)に現在の教会堂を新築落成したのである。
 
こうした宣教の歩みについて、私が提案して、一九九三年(平成五)八月に『大溝教会の歩み』と題する、新書版形式のささやかな書物を発行し、記録に留めた。
しかし、「大溝宣教五十年式典」の中心になって尽力してくれた人々は、既に皆、召天された。記念式典の時に撮られた写真を見ていると、歳月の流れを痛感するのである。
現在、大溝教会の会堂の壁面の四囲には、分部光謙公を初めとする、大溝教会と深く関わりのあった方々の写真が所狭しとばかりに掲げられている。その中には、五十年記念式典に尽力された浅見義一氏夫妻や、私の姉と妹の遺影も見られる。私は生かされて今日も在るが、早くも喜寿の歳を迎えた。
 
大溝教会を支えてきてくれた先輩の諸兄姉が次々に召天されて、大溝教会は誠に寂しくなった。少数の教会員が礼拝を守り、会堂を維持しながら、宣教の灯火を燃やし続けている。今津教会と兼牧の浅見文博牧師は、執事であった浅見義一氏のご長男である。
今、私たちが目指していることは、二〇〇八年八月に迎える宣教百周年記念会である。私はその時まで生かされて、式典を立派にやり遂げたい願いと志を抱いている。

愛の試練                     小林桂子

「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです」(フィリピ二・3)
 
看護学生二年の春「人の死、命、看護」に心を痛め悩んだ末、教会へ足を運び、初めて神様との出会いがありました。看護に励めば励む程、教会は必要不可欠なものとなり「生涯看護福祉に貢献しよう」と決意しました。
しかし神様は私の意のままにはなさいませんでした。生涯を通しての難病、障害を背負わせ、時に死の淵へ、また手術台の上へ横たえ、繰り返す入院生活は数え切れませんでした。けれども「生かされる命」と「優しい家族」は決して取り上げる事はなさらず、むしろ与えてくださいました。
 
初心を失い、看護する側が、される側になった時、私の心は闇に落ち込み、教会から足は遠ざかって行きました。 何度目かの崖淵から生還した時、聖書の御言葉により眼が覚まされ、再度教会へと導かれました。また度重なる病の苦しみは、看護福祉の道を歩もうとする私に、神様が与えて下さった「賜物」としての「試練」だと、悟れるようになりました。この「試練」は、自分の闘病を通して、より良い看護法の学びにもなりました。また病む人の、心的、肉体的、医学的な苦しみを共有して聞く者と成った時、相手の安らぎを感じ、この体験は、奉仕活動を手がける結果となりました。この様にして私は、病と向き合い、貴重な体験を活かして、人の苦しみを癒す友となり、病を持ちながら生きていく、自らのエネルギー源となっていったのです。

 「明日の事を思い煩うな」と神様は言われます。
免疫不全で、明日は何が起こるか分からない身体です。今日成すべき事は今日、明日は無いものと。自分に成せる業を、身の丈に合わせて、少しずつなし遂げています。私はこれ以上、恐れるものは何も有りません。只、まっしぐらに、自分の敷いたレールに沿って、前に向かって歩むのみです。
難病患者会を立ち上げ二十数年、代表として会の運営、病気に関する相談に当り、また現在、青少年の引きこもりの相談、ピアカウンセラーとして、病む身を引きずり、携帯酸素を携え、若き日の志を継続するべく、まっしぐらに歩んでいます。様々な苦しみを経験した分、同じ目線で相手の気持ちを理解する事ができ、また、相手から教えられる事も多く、喜びを持って奉仕できる事は、この上ない感謝です。

現在では、それなりに健康も維持され、「成す」喜びを与えられ、難病、障害を持つ自分に望みを失う事無く、他人の苦しみを、自分の苦しみとして胸を痛め、少しでも幸せに変えることができるようお手伝いして、それを見守って下さる神様を信じ、明日に向かって、志に忠実に生きる生き甲斐を、かみ締める今日このごろです。 

余生                       駒田 隆

仕事をやめると、その後の生活をどう送るか、という問題が提起されます。わたしもまた、退職の予定が決まった時に、これからの人生をどう送るべきか、とトレーニングを受けました。わたしの勤めていた職場では、退職間近の人たちに、退職後の生活についていろんな話をして、不安を解消することに努めていたのです。その時につくづく思ったのですが、退職後の人生を、「余生」という言葉で説明する人の多かったことです。広辞苑ではこの言葉について、「残りの人生。老後に残された人生」、と説明されていました。
 
わたしは、幸い外郭団体に再就職が出来て四年間、前と同じように働くことができました。その後、更に再再就職の話もありましたが、妻が入院したこともあって、それを断って在家庭の道を選んだのです。六十二歳の時でした。家にいるようになると、これからのわたしの生活は、余生、残りの人生なのだろうか、と考えるようになりました。そうすると、そこには、ただ静かに何かを見つめている、そんな、東洋風な、諦観の世界がありました。でも、それでいいのだろうか、とも考えたのです。これからのわたしの人生は余生なのではない、むしろ、これから新しい人生が始まるのだ、そんな思いがわいてきたのです。仕事にかまけて、やりたいこともやっていなかったのではないか、そんな思いが駆け巡って来たのです。教会の役員も引き受けました。JCPも知って参加するようになりました。
 
そして、自分自身に言い聞かせて始めたのが、聖書の学びでした。もっとも、外国語は苦手なので、もっぱら邦訳の文献や日本の研究者たちの成果によりました。最初にNHK学園の「聖書の学び」を受けました。次に、聖書全巻を学ぼうとして、いろんな注解書や神学書を参考にして、聖書の森へ入ったのです。旧約八巻、新約二十巻、これが、今までのわたしの学んだ(浅いものですが)文書です。聖書六六巻(続編も入れれば七九巻)に比べればまだやっと玄関に入った感じです。でも、イザヤ書を学び終えた時には、壮快感がありました。これらの学びによって、聖書の解釈についても、いろんな考え方があることを知りました。さらに、「ギリシャ語新約聖書釈義辞典」や、ヘブライ語、ギリシャ語の対訳聖書も出ていて(まだ一部ですが)、わたしみたいな者には、たいへん便利になってきており、原書の一部を覗くこともできるようになりました。
 
こうして考えてみると、今の生活は余生ではなく、わたしにとっては、希望に満ちた新しい人生なのです。詩や俳句、習字(とても書道の域には達しませんが)もまた、わたしの生活に潤いを与え、味わいを付けてくれました。もっと信じたい、もっと学びたい、もっと読みたい、もっと作りたい、それがわたしの新しい人生でした。そこには、余生ではない、新しい始まりがあったのです。

原点に帰って                坂口 良彬

自分で、国語という科目が得意で、文章の読み書きが好きだということに気がついたのは、中学時代だった。成績はよく、作文では常にほめられていた。
 高校生になり、大学受験のための勉強を始めたが、父は文学部志望を許してくれなかった。しかたがなく法学部志望に変えたが、文章の中でも映画関係に対する希望は強く、大学へ入っても独学で勉強を続けていた。
大学二年生からは、自治会活動に入ったため、文章の勉強は頓挫した。
 
当時は、一九六〇年日米安全保障条約改定反対運動が盛り上がり、国会周辺に三十万人の人が集まる程だったが、その運動の最中に病で倒れ、同期生より一年おくれて卒業した。
会社へ入ってからも、文章に対する志は変わらなかった。ずっと映画に興味を持っており、就職の時随分迷った。病に倒れるほどで身体が丈夫でなかったため、帰名して名古屋鉄道に入社した。文章は独学で映画のシナリオを自分で書いていた。二十四歳の時、東京の牛込キリスト教会の佐藤陽二先生から洗礼を授かった。クリスチャンになって教会関係での文章活動を求め、教会の牧師にそのような組織を探してくれるように頼んだりしていた。
 
会社を定年まで勤めて退職した後も、文章を主体に勉強したいと思っていた。その時に雑誌「信徒の友」に、日本クリスチャンペンクラブ夏期学校の案内を見つけて、早速参加することにした。
湯河原の厚生年金会館であった。そこで、玉木功先生とお会いして、日本クリスチャンペンクラブ中部ブロック事務局に人がいないことを聞かされて、務めてみる決心をした。
 そのあとヨーロッパに出かける機会があり、フランスのモンマルトルでムーランルージュの舞台を観ることができた。
「これを勉強したかったんだ」と思う程高い芸術性を感じて励まされた私は、二〇〇四年の夏期学校の浜松開催に当り、全力を尽くして、そのご用を務めた。
 
二十歳の時に発病して以来慢性化している病をかかえながら、それでも神様に支えられて無事終了することができた。
文章の世界の厳しさに出会ったためか、燃えつき症候群のようになり、二〇〇五年になっても、今一つ前向きになれない自分にはがゆさを感じている。
 
だが、神様は、ロクに経験のない私に中部ブロック事務局を務めさせておられる。
もう一度原点に帰って、自分を修正して出直そう。
その意識が、身体に満ちている。主イエスは、今こそ、我に来よ、と再度呼びかけておられる気がする。二〇〇五年の夏期学校をきっかけにして、再びファイトを取り戻し進んでいきたい。

御霊によって生きること              佐藤一枝

志、こころざし、心のめあて。
そんなこと、つっこんで考えてみたことがない。八十年、生をこの世に受けて夢中で生きて来たらこの年になっていた。
求めたわけでもないのに、貧乏、戦争の時代、病気、だいたい世の常と思われる試練はくぐってきたように思う。その意味では無為徒食とまでは言われないですむ。
 
私は女だから男のように仕事に志を立てることは必要なかった。それどころか、私の友人にはこんな人もいる。生家は人形問屋、嫁いだ先は銀行マン、日銀格の銀行で働いていたそのご主人は、死ぬまでに世界中といっていい程各国を彼女を連れて旅行を楽しんだ。
ご主人が亡くなってからは義理の妹さんと日本中の温泉を毎月のように旅行し、「黄金の日々」と口ぐせのように言っていた。しかし今は病にたおれ、ほとんど外出も出来なくなって在宅介護を受けている。気の毒だなあと私は思ったが童女のような心の持ち主の彼女は、訪ねる人に「私は復活信仰に生きていますから恐れることは何一つありません」と口ぐせのように語っているという。彼女をみると立派に志に生きているんだなあと教えられることが沢山ある。若い日に志を立て、一直線に邁進し、成功し遂げることも志を生きたことになるけれど、彼女のように、まれなる幸せな生き方の生涯で志を立てたようには思えなくても、綺麗な心で貫いて来たことはもっと素晴らしいと思った。
 
私はそれにくらべて何と中途半端なことだろう。辞書で志を引くと心のめあてと書かれていた。使命という言葉を引くと、与えられた任務とあった。私は、讃美の作詞を半世紀にわたってこつこつ書き続けてはいるが、私は決して上手くない。まだまだ半ばの感じがしている。これは私の使命だと思って、死ぬまでとにかく続けて行きたい。それでは志は、私にとって何なのか……。心にめあては無いのか……。いや、ある。それこそたった一つのめあてである。再臨の主にお会いする朝こそ、私の心のめあてである。私の友人が、「復活信仰に生きています」と語ったのと同じめあてである。
 
ただ、私の心は、救いの確信、罪のゆるしの一方的な恵みを、日夜、夜毎、感謝して生活しているのに、ガラテヤ人への手紙五章二十二節の御霊の実から何と程遠いことだろう。こんなことでご再臨の主にお会いする朝、「愛しまつる主よ!」とイエス・キリストの御顔を拝することができるだろうか。
今日、ただいまから『キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。もしわたしたちが御霊によって生きるのなら、また御霊によって進もうではないか。互いにいどみ合い、互いにねたみ合って、虚栄に生きてはならない』(ガラテヤ五・24~26)
 私の心のめあて、志は、このみ言葉として、今後、歩ませていただきたいと祈るのみ。

私とピアノ                   鈴木 喩香子

私とピアノの関わりを書いてみよう、と思う。小学校二年生の時、母は私にピアノを習わせようとした。それまで私は、ピアノというものを、全く知らなかった。私の家には、まだピアノがなかった。北海道の小さな市であり、戦後まもない頃であったから、ピアノがあったのは、小学校ぐらい。あと数件の家のみだった。
母は私を小学校に連れて行ってピアノを練習させた。後に、知り合いのお宅にいって、ピアノを貸していただいたりした。しかしピアノを好きというのではなく、ただなんとなく習慣的に続けていただけだった。進歩はひどく遅く、ポロンポロンと弾いていた。ただやめなかったこと、そのことが何よりの幸いだった。
 
先生は、東京音楽学校(今の芸大)を卒業されたS先生。この町では殆ど唯一のピアノの先生だった。子供の頃は、何もわからなかったが、数十年後、東京で先生と再会し、深い尊敬を覚えた。先生が召された今も、その気持ちは変わらないが、そのことについては、他の機会に譲りたい。
ピアノを買ってもらったのは、小学校五年の時だったろうか、中学校に入ってから、グーンと伸びたような気がする。中学二年の時には、音大に行きたいと思い始めていた。しかし断念して、普通の大学へ進んでしまった。 
卒業後、音楽への夢止み難く、アメリカの大学で音楽を学んだが、中途半端であった。
 
結婚後、子供にピアノを教え始めたが、それをするには自分も勉強しなければという思いになり、それからコツコツ二十年、ピアノの勉強を続けてきた。しかし自分で演奏する事は、ほとんどしなかった。
そのことのきっかけを作ってくださったのは、クリスチャンペンクラブの元会長、満江巌先生である。ペンクラブの夏季学校でのピアノ奏楽を任せて下さったのである。私は初め、キリスト教の奏楽曲以外は、弾いてはいけないような気がしていた。しかし、休憩時間にモーツアルト等をバックグランド・ミュージックのような感じで弾くと、皆さんもとても喜んでくださったのだった。
 
今では、主○している「VLP青山」の集会の時、また教会の午後の集会の時に、時折ピアノを演奏させて頂いている。もし私が、クリスチャンでなかったら、ピアノを演奏する機会は、ほとんどなかったに違いない。「どうせたいして上手には弾けないのだから」という気持ちを、私はずっと持ち続けてきた。聴く方でも同様、あまり期待しないで聴く。私には、プロのピアニストのようなテクニックはないけれど、演奏はテクニックだけでなく、その人の性格、人生経験、信仰全てがあらわれる。この頃やっと、人前で弾いていいのだ、という思いが与えられた。人の前で弾くということは、主の前で弾くということ。主への讃美、信仰告白として。その歩みは、今やっと始まったばかりである。

傷つき渇いている心に           島田 裕子

子供たちに神さまの愛を伝える物語を書きたいと決心してから十四年たちました。  最初の九年は、書くことがみ心がどうか確信がもてずに迷い、何度も挫折しました。  
色々なところに応募して三十回くらい落選し、そのたびに落ち込んで、(自分には才能がないんだ。もう書くのはやめよう)と思うのでした。

それなのに書き続けてこられたのは、書けなくなったときに帰っていくところがあるからです。それはいままでの人生の中でいちばんつらかった時期、中学二年のときの心です。
自分の存在価値がわからず、生きることに意味をみいだせず、死を願っていたあのころ。もし、あのときのわたしに、イエスさまのことを誰かが教えてくれたら、神の愛を示す本に巡りあっていたら、どんなに嬉しかっただろう……と思うと、書かなければという気持がかりたてられ、心が熱くなります。
一昨年、大阪府岸和田市で起きた中三生の虐待事件のニュースを聞いたとき、大きなショックを受けました。十五歳の少年は、逃げることができたのになぜ逃げなかったのか? 父親は、なぜ我が子が衰弱死しそうになるまで虐待を続けたのか? 次々と疑問がわいてきます。一年半にもわたって暴行を受け続けた少年の気持ち、我が子を虐待する父親の気持ちは想像しがたいのですが、耳をすましていると、心の叫びが聞こえてくるような気がします。いちばん愛してほしい親から愛されなかった少年は、どんなに愛を求めていたでしょう。虐待をする親は、自責の念を抱きながらではなかったのでは? 

いけないことだとわかっていても、子供に対して残酷になってしまうのは、心に深い傷を持っているからかもしれません。『無条件で愛されたい』と心の渇きを覚えているのは、親も子も同じでしょう。
虐待事件はその後も次々と起きています。事件として報道されるものはほんの一部で、実際に起きている虐待はどれだけ多いのかと思うと心が痛みます。
 暴力をふるわなくても、ネグレクト(放置)しなくても、言葉で子供を傷つけてしまうことがあります。それも(広い意味で)虐待というのだそうです。そう考えると、わたしは子供のころ母親から虐待を受けていたことになり、わたしも自分の子供を虐待していたことになります。

親からいわれた言葉がトラウマ(心的外傷)となって劣等感をかかえていました。でも、神さまからのメッセージが心の深いところに届いたとき、キリストによる癒しがはじまりました。
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している(イザヤ書四十三の四)」といって下さる神さまのことを、傷つき、渇いている心に伝えられるような小説を書きたいと願っています。

強力に志に生きた人              玉 木  功

「志に生きる」ーというテーマは誰にでも感動を呼び起こすドラマを生む。テレビの「プロジェクトX」や「情熱大陸」、新たな「プロの流儀」「アンテナ22」などの人物ひとりひとりがそうだ。
本年度のNHK大河ドラマ「功名が辻」の主人公である山内一豊と千代も志に生きた人物である。功名という言葉が端的にそれを顕している。作者司馬遼太郎の力量に改めて敬服する。作家の楠木誠一郎氏は、「実を言うと一豊にはとりたててすごいエピソードはない。妻の『内助の功』が一豊を支えつづけた」という。「名馬購入」と「笠の緒の文」の二件であるが、実は後者によって土佐二十万二千六百石を得ることが出た。その功は千代の志によるのだ。

聖書の人物からと言えば、何といっても使徒パウロである。キリスト教迫害者としてのサウロ時代、彼は迫害することに志が燃えていた。  
ある人が私に言った。「志という言葉には信仰に生きるとは違う面があって反発するんです」と。その言葉に私は肯いた。私たちの志は聖別化されなければならない。キリスト教の迫害者であった彼がキリスト教の伝道者になった。その偉大さはロマ書をはじめとした手紙に証しされている。彼の大変化のきっかけはキリストの先行的な働きかけである。ダマスコにむかう途上でサウロは光を受け、復活されたイエス・キリストに出会った。
「突然、天からの光が彼の周りを照らした」 呼びかける声。「あなたはどなたですか」「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる」使徒言行録九章
 
「なすべきこととはー」サウロは使徒パウロとなり、力をこめて、イエスがメシアであることを論証した。このような大転換は、どのようにして発生したのか。
次のみ言葉がそれを語っている。ピリピ三章、「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。‥‥‥自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。」
 キリストに捕らえられているという思いは使徒パウロの観念ではない。キリストとその復活の力による。詩をここに添える。

「キリストのように」

この身に生きることなく
キリストによって生きるために
キリストのように考え  
キリストのように祈り
キリストのように歩み  
キリストのように愛を
キリストの十字架のゆえに 
新たな命に召された者として
キリストのように考え  
キリストのように祈り
キリストのように歩み 
キリストのように愛を

リセットしてスタート               島本耀子

幼いころ、上の姉の読み聞かせで本が好きになった。文字を覚え、声を出して読むと黙読を教えられた。そして家にある子供の本は次第に読みつくしてしまった。
次に私は親たちの読む雑誌にも手を伸ばし始めた。文学全集も所々の意味は分からないがルビがあるので読めた。濫読で身に付いたものはあまりない。しかし、物心の付いたときから日本は貧しかった。自分の読みたい本さえ私は知らなかったのだ。
妹と弟が生まれ周囲の関心は幼い二人に移り、私の甘い末っ子時代は九年半で終わった。私は貧しい家庭の六人の子の四番目。役立たずだから、上と下に挟まれてひっそりと時の過ぎ行くまま生きていた。

高校時代の母の一言。「お前がお腹にできたとき、芥子を沢山食べてみたけれどだめだった」が、私を一層消極的にさせていた。物語の中の未知の世界が一番楽しかった。
結婚して育児に忙しいころは、読書どころではなかったが、三人目の子が小学生になると読書会に入った。月当番の会員が選ぶテキストは多様だ。私の読書はやっと、与えられるだけでない、自分で選ぶ本に変わった。
翌年から盲人のための朗読奉仕を始めた。私の好きな女優さんが、テレビドラマで目の不自由な役を演じていた。至ってミーハー的な動機である。私は読書会で取り上げられた本を選んで朗読した。大部分が小説だった。下読みは済んでいるし再読は楽しかった。
 
子育てにトラブルはつきものだったが、子供たちは順調に進学して行く。私も、いろいろやってみたくなった。活け花、詩吟、ゴルフ、その他次々に始める私を見て、「あなたは年々元気になっていくのね」と友人が言った。最後のフォーク・ダンスは、体力の限界で止めた。今だに続くのは朗読と作文。朗読は受洗を機会に「キリスト教盲人伝道センター」の本に替えた。センターから送られる本を選り好みせずに読んだ。そして、いつか小説への関心は薄れて、長い間漠然と持ちながら手が出なかった。「書きたい」という気持ちも動き出したのだ。随筆のグループで身辺雑事を書いた。最後に書いたテーマは映画「パッション」だが、この場にそぐわないとリーダーは渋い顔だ。
〈もっと神様の愛について書いてみたい〉そう思ったとき、日本クリスチャンペンクラブを知り、随筆のグループから離れた。初めて与えられた題は「志に生きる」。これは難しい、私には書けない。今までの私は、すべて中途で見切りをつけ、何も極めたものがない。心にあってもすぐにはスタートできなかった。こんな生き方をしてきた私に、言えるほどの志があったろうか。

だが、ここまで書いて気がついた。「書くこと」は、神様が私のうちに働いて、与えてくださった「志」なのかもしれない。
そうなら、神様。これからスタートする私に、どうか力を与えてください。

良心を手腕にーー新島襄の生涯――         中田 てる子

「天地は神の創作と記せるみふみの第一句」ともう半世紀以前校歌として歌っていた。
我家には父の卓上にその人の遺影が飾られていたが、両親は誰とも言ってくれなかった。やがて女学生になり、院長先生は「新島精神とは?」と礼拝の時話された。
素晴らしい人! そう思って院長のお話を楽しみにしていた。父の転勤により一年半程して京都へ。そして私は同志社に転入学。
 
教室に案内され、あっと息を呑んだ。父の卓上にあった写真が黒板の横の壁にかかげてあった。しかし戦争が熾烈になりいつの間にかその写真は取り除かれてしまった。「その人」とは、一八四三年安中藩江戸屋敷で誕生した男子「新島七五三太」(シメタ)だ。
ある時友人宅で彼は聖書の抜粋を読み、何とかしてその勉強ができますようにと祈った。ややあって北方交易にむかう船に便乗、函館に到着、知人に紹介され、ロシヤ司祭の日本語教師としてその家に住む。ある夜半、米船が入港、ひそかに乗り込んだところ、船長がかくまってくれて呼び名を「ジョー」とし、バイブルを与えてくれた。港、港に立ち寄り交易を重ねながらやっとボストンに到着。
 
船主の家に引き取られ、フィリップス・アカデミー英語科に入学。一年経っても戻らぬ倅を親は遭難と届けた。
血のにじむような努力をしながら勉強、そして受洗。そのかいあってボストンの教会で按手礼が授けられた。日本に基督主義の大学の設立を訴えて五千ドルの寄付金を得、十年後帰国。両親と対面、はじめて「襄」という名を用いた。時の京都府知事や、山本覚馬から京都に学校を開くことをすすめられ、覚馬の土地五千八百坪をゆずりうけた。時に一八七五年十一月二十九日。同志社英学校開校、生徒数八名。そこに熊本バンドより送られた若者が加わり約二十名となった。
旧藩主の命により岸和田に伝道、また翌年岡山、愛媛に伝道旅行、その間に血気盛んな若者達の間に不満がおこり、自責の鞭事件がおき徳富蘇峰らが退学。次の年奈良大滝村の土倉庄三郎を訪問、大学のため五千円寄付の約束を得る。伝道旅行につぐ伝道旅行。その間に同志社医学校をつくったり、またアメリカに出かけたり、京都の知恩院に名士六百人以上を招き大学設立について支援や理解を求めた。

翌年、米国のJ・N・ハリスより十万ドルの寄付を受ける。その年の夏アーモスト大学より名誉学位(L・L・D)が贈られ困惑。病身をもかえりみず大学募金のため、関東に。退学したはずの蘇峰はいつも側にいて何くれとなく世話をしていたが、急に胃腸の激痛をおぼえ募金を中断京都に帰る。年が明けて病が悪化、夫人、小崎弘道、蘇峰らにみとられ一八九〇年、四十八歳で召天。その一生は、みふみに聞き従い、手腕に良心にする毎日であった。「joseph hardy neesima」の日記より抜粋した。

キリスト者として生きる             縄田宝子

光陰矢の如し。私も洗礼を受けてから四十五年が過ぎた。左右にゆれ動く振り子の様に定まらず、成長の少ないたよりない信仰のまま、七十一歳の誕生日を迎えてしまった。それでも自分なりに神様を求め続けて来たように思う。そしてありがたいことに、どうやら神様を見出したと言えるようになった。
 
それはつい最近のことであるが、「自分も罪を犯すのに、自分に悪いことをした人を、自分の努力だけでは赦すことができない」という現実に直面したことによる。元気な時はさほどでもないが、疲れた時、過去に私に害を与えた人を忘れ赦すことができないでいる自分に気がついたのである。その時「ああ、やはりイエス様の十字架上での贖罪は必須であり、又、かけがえのない恵みなのだ」とわかった。自分にかけられた迷惑をまざまざと思い出し、いまだに当時の怒りや悲しみを忘れないでいる自分を見つめて、「ああ、これではとても天国に帰ることもできない。ひたすらイエス様におすがりして、赦せぬ罪をあがなっていただくしか無いのだ」と気付いた時、神の愛の深さと広さを感じて不思議な平安が、心のうちに広がっていった。
 
昨年の秋から、二人の実兄の病気が悪化し、無関心ではいられなくなった。幸いなことに、私自身の病は良くなっていて、快調に過ごせるようになり、兄達への見舞いにも、身軽に行けるようになった。以前の私ではとても神戸と横浜に住む兄達を訪問する事などできない話であったのに、今は何のためらいも不安もなく出かけられるのが嬉しい。
神戸の長兄が今年の三月に永眠するまでに、四回見舞いに行けたのは感謝であった。臨終に間に合えたのは肉親の中で一番遠くに住む私一人であった事も、主の憐れみというほかない。私の実家は天台宗であるが、ICUの個室に病臥していた長兄と二人きりで、四十分程を過ごし、私は賛美歌を歌い続けた。長兄からはもはや反応は無かったが、きっと聞こえていたと信じている。病身の私は医者であった長兄に度々心配をかけ世話になったが、最後の一時間を平安の中に共に過ごせた事は、神の最高の慈しみであったと、主に対する信頼が深まった。
 
横浜に住む次兄の主治医からの肉親を呼べとの要請で、今年一月初めて難病といくつかの病気とを背負っている事を知った。往復四時間半かかる金沢区まで通う事三十数回に及ぶ介護も、私は殆ど疲れを覚えず居る。軽い痴呆を伴う次兄に、キリストによる平安をもたらせたく、ひたすら祈り、遂に最近、私自身で霊的介入を試みた。主のお支えを信じて。その後兄嫁の話では、呼びかけに対する反応が速くなり、言葉もはっきり発声し、食事も少し摂れる様になったとの事で、神様は祈りに応えて下さったと信じられ平安を覚えた。
主の証人として生きたいと志を立ててからの長い年月は無駄ではなかったと嬉しく思い主への感謝と信頼の深まるこのごろである。

佇まい(たたずまい)               西山純子
 
いま、やっておかなければ間に合わない。それ!一刻の猶予もならないと叫ぶ声も聞こえる。前へ前へと懸命に汗流し、足元の土を蹴散らして走っていく姿も見える。壇上で声高に主張し、興奮と陶酔の渦の中で歓喜する空気にも出会う。
その何れもが自分のイメージとは隔たる。と、近年頓に感ずる。
高校生の時、教会の男女数人と語り合っていた時のことだ。「どんな生き方をしたいか。どんな人間になりたいか」がテーマだったと思う。様々に話し合い報告し合った中で、私は次のように言ったことを覚えている。
 
「偉そうに見える人にはなりたくない」 男性の一人が、口を尖らせて言った。
「そんな抽象的な言い方じゃわからないよ。もう少し具体的に話してほしいな」
私は、困ってしまった。心の中でつぶやいた。(どうしてだかわからないけど、偉そうに見える女の人は厭なんだ。具体的にって言われてもうまくは言えないな)
その場は、気を利かしてフォローしてくれた他の友人のお蔭で治まったが、この少女時代の小さな事件は、私の中に長い間根付いて離れずにいた。
 
偉そうに見える人が傍にいると、何か窮屈な気持ちになる。勢いがありすぎる人を見ていると、自分が小さくなって言葉が出にくくなる。カッカッ、バッバッ言いまくられるとどこかで心が痛くなる。多感な少女は大声でしゃべる(特におばさん達の)嬌声というものに傷ついた。またご本人に全くその積りがなくても言い聞かせるような、抑圧的な態度や姿勢が、偉そうに見えて恐ろしく厭だった。
(クリスチャンなのに何故?)と、少女の私は、その年齢特有の身勝手な偏見にも左右されて偉そうに見える人を嫌った。
いつの間にか私も、そのおばさん達の年齢に到達し通過し、あの毛嫌いしていた種類の人に、自分もなりそうな危惧さえ覚えることにもしばしば遭遇してきた。
 
神様は私の若い日に教会へ招いてくださり「偉そうに見える人」を拒否する心をくださった。ほんとうに偉い方は主なる神様だけだと示されていたにもかかわらず、自分のみを過信し、おばさん達の真実の祈りには気づけなかった。
 いま、この年代になってみて、私にはあの時のおばさん達の、内側にある霊の力に生かされていたものが見えるようになった。
人は、それぞれの形で神のご計画の中で生かされている。いまも、私は大騒ぎしないで偉そうにしないで、静謐(せいひつ)という言葉が漂う信仰の人に向かって、生かされたいと願って歩み続けている。
これから成長していく少女達にとって「神様によって生かされてきた女の人はいい」と、ほんの少しでもオアシスになれたら感謝だ。

明るく黙々と                長谷川 和子

有料老人ホームの施設長となって五ヶ月が過ぎた。この間無我夢中、なにしろ百余名の入居者と八十五名の職員の責任者となったのだから…。
「施設長をやるように」との社長の言葉に「出来ません。ムリです。荷が重すぎます」を連発。「君がやらないで他に誰がいる!」と現実の社内の状況を知る者として返答に困ってしまった。
 
自分の性格の長所であり短所でもある責任感が強すぎる故に、「重責」にがんじがらめになって、充分な任をかえって果たせないのではないか…? 「火災が起きたら」「故意でなくても不慮の事故事件を起したら…」頭をさげることは何ともない…しかし「申し訳ない」という相手の気持ちを思うばかりに身動きがとれず、弱さと優しさがマイナスとなり「長」としての働きをなさない。様々思いあぐね自分を分析した結果、冒頭の社長への言葉となったのである。
社長はHさんを副施設長にすえ「協力を得てやるように」といわれ、彼女と何回も話し合い、約三ヶ月間考えぬき、社に対しての紆余曲折を経て承知せざるを得なかった。二人とも現場を抱えての、それぞれの任を仰せ付かったのである。

就任の挨拶の中で前施設長が退職されたあと直ぐ後任が決まらなかったことについて正直に話した。「皆と同じように私も現場を抱えているので、その上での施設長の仕事は皆さんの協力なくしては成し得ない。力をかしてほしい」と…。
私の願っていた通りに職員たちは実に生き生きと働き、各部署の責任者もそれなりの任をもって働くようになった。皆の協力を得て、この間「より良い介護をめざす」ために「ナース部」と「介護指導部」を発足させることができた。
主な仕事は社員教育(後継者育成と、職員のレベルアップ)、突発的に起きた出来事を時には秒単位で判断し、現場と相談しつつ指示を出す。なにしろ百人からの老人達の命を預かっているわけだから「一日として同じ日はない」次から次へと宝石が飛び出す。磨かれた宝石か、とがった宝石か、その「原石」によって落胆し怒りや反省、こもごも…。その反対に歓声をあげることもたくさんある。

年間平均十名前後の方を天に見送る度にその方との思い出が去来する。民間の施設故「次なる人を」入居させねば経営は成り立たない。入居者を募ること、クレーム処理相談役といったところであろう。
「証し文章を書く人になる」が私の目標であった。辞めてその道に…と思っていたのにいつしか十九年過ぎた。意図ではなかったが神に押し出され導かれて今日まできたように思う。精神の自己管理を常に計りつつ…邁進している。その力はどこからくるのか。
 聖日毎に与えられる恵みによって支えられている幸いを味わっているからである。

三度目の正直               長谷川 乃武男

「大人になったら、お金を沢山儲け、家族みんなで楽しく暮らそう」と。「立身出世」を志したことがある。しかし『大東亜戦争』勃発と共に、はかなく消えてしまった。
昭和一八年十二月八日の真珠湾攻撃と同時に「第二次世界大戦」が始まった。東京が連日のようにB29の空爆を受け、焼け野が原になり始めた、昭和二十年二月二十六日。私は『召集令状』を手にして入営。
『礼状』を手にした私は、驚くほど大胆に「お国のため、天皇陛下のためなら、命は少しも惜しくない」と口走っていた。これが、私にとって二度目の「志に生きる」であり「喜び」でした。しかし、この決意は、僅か数ヶ月後に「敗戦」という厳粛な事実によって終止符を打った。
 
昭和二十四年三月。大学を卒業し繊維関係の商社に就職。そして結婚。人生の旅路は順風に乗って進んでいるかのように思えたが、新興宗教に凝った前妻と八年目に離婚。二人の子どもを抱え悩んでいる時、現在の家内と出会い結婚した。今にして思えば、家内との出会いは、ただただ「愛なる神様の憐れみによる」というほかありません。
やがて、みたび「志に生きる」時が訪れた。それが「イエス様との出会い」です。
家内の祖父勝野庄一郎兄(北米移民一世)が、我家にしばらく寄留していた時、私は、祖父の信仰の姿に心引かれ、教会へ連れていってもらった。そこで牧師から「背信と言う大罪を犯してきたことと、愛の無い自分」を指摘され、その場で神様に「悔い改めの祈り」をしました。洗礼を授けていただくとき「大酒のみとタバコ悪癖」から開放されるよう。また「全治一ヶ月と言われた大怪我が直ぐに癒されるよう」祈りました。
 
するとどうでしょう。洗礼槽から出ると、足の傷口に糸がついたまま、ものの見事に癒されていました。また「酒とタバコの悪癖からも開放される」と言う一大奇跡を体験した私は、その場で「生涯をイエス様にお委ねする」決心をしました。
一九七七年四月。韓国オリーブ山祈祷院に行き、「十日間の断食祈祷」をしましたが、その時、聖霊のバプテスマを受け、「献身」こそ主イエス様の御心と確信し宣教を開始しました。
 
二〇〇三年元旦。朝の祈りの中で、イエス様から「開拓伝道せよ」との御言葉(ヨシュア記十三・1)をいただき、蓄えは全く無く戸惑いましたが、その日から「必要を速やかに与えてください」と祈り始めました。すると、全く不思議な方法で必要が整えられ、これまた不思議な方法で行き先も明かされました。こうして、二〇〇五年一月、住み慣れた国分寺から現在地にまいりました。
遂に「生涯歩み続けることのできる道」が、主の愛と憐れみによって与えられました。今、私は、「生き甲斐のある伝道」を楽しみながら続けています。(ピリピ二・12~13)

 

信仰と聴従                  藤田 和範

この六月一日の八十三歳の誕生日を迎えた私は、歩み続けて来た日々を振り返るとき、一人感慨にひたる。
四歳の折に脳脊髄膜炎に罹り、死の淵より生かされた私は、その後遺症のために人に言いえぬ苦難の道を辿った。そうした中でも、主によってしっかりと守られて、今日の恵みの日々を過ごさせていただいているとは、何という幸せ者だろうかと思う。
 
私は、このような主の恵みを覚えつつ、どうしたらこの主の恵みに応えられるものだろうかと思案する。私にでき得ることは何だろうかと思いを回らす。
永い苦難の道を辿った私は、二十七歳のとき、自らの命を断とうとして死出の旅に出た。と、私は天よりの声を聴いた。私はハットして正気に戻ることができた。そのことが、私の思いを百八十度転回して、三十歳の誕生日に受洗の恵みに与ることができたのだった。
 
私にできることは何だろうか……。それは文章を通して主を証しすることだと思いついた。主に仕えるには、身をもって伝道せねばならないが、体力のない今の私には文章をもって伝道するしかない。神の御声に聴従しつつ、神との交わりを持ち続けたい。人の口から出る言葉のみでなく、身をもって書き下ろす文章を通して主を証言し続けたい。
「志あるところ道あり」との諺がある。やりとげたいという意志があれば、道は開けるのだと言う。旧約聖書を学ぶとき、「主の御名のために、宮を建てようとする志をもった」「私は安息の家を建てる志をもっていた」と、ダビデの言葉が記されている。
 
志に生きるという表題に思いを寄せるとき、文章をもってイエスさまを証しすることが、私にできる唯一の道であることを示された。それには、祈りを捧げつつ聖霊さまに自分を明け渡し、上よりの御声に聴従しつつ、導かれてペンを走らせるしか道はないと気付かされた。私が証しにペンを走らせるようになったのは二十九歳の時だった。国立中野療養所での、聖書研究会の月報第二号からだった。その折の題名は「霊魂の覚醒」だった。それに続いて、日本キリスト者医科連盟の「医学と福音」誌をかりて「試練に堪える者は幸福なり」の証言を発表することができた。
 
受洗の恵みに与ってからは、柏木教会、大宮教会の月報などに発表させていただいた。歳を加える程に、どれ程の数を書き下ろしたか定かでないが、五十年の時の流れに乗って機会あるごとにペンを執り続けている。
(愛についての思い。病床の友へ。み心ならば喜んで。己が十字架を背負いて。喜びに満たされ。知られざる神…)など。
今から十年余り前に「主よ、お話ください」(サムエル記上三・9)との書名の本を出版し好評を得た私は、再び出版を通して、天に召された方々を世に伝えたいという志に生きている

燃え上がる志                   藤本 優子

私は三十歳になるまで、「志」など全くなかった。
中学受験が影響したのかもしれないが勉強嫌いになり、同志社へ入学したものの早々から勉強しなくなった。道を反れることは一度もなかったものの、中・高時代は学業不良で母や父を悩まし続け、果ては都落ちであった。大阪から片道二時間かけて通学する我が子のために、早朝五時起きでお弁当を作り続けてくれた母の心情を想うと今も心が痛む。
 
長女が幼稚園に入園する時のことだった。
身上書に、「子どもはどんな人になって欲しいか」という項目があった。その時、私に
は明確な考えのないことにハッとした。
自分自身がどのように生きたいのかも分からない者が、どうして我が子に「このように生きて欲しい」と言えるだろうか。精一杯考えた末に、「自分に与えられた能力を能動的に発揮する人になってほしい」と書いたことを覚えているが、これが私の三十歳の姿であり、遅い目覚めであった。
しかし、今はどうだろう。

私も我が子もそのように生かされているではないか!
六年間の同志社時代に、私の心に日々蒔かれていたみことばの種が芽を出し、三十五歳にして神と出会って人生の座標軸が定められた。その時、神は私の深い想いの中に「志」を刻んでくださったのである。
その後、見事なまでに私だけのカリキュラムを組まれ、人生の関が原の如き信仰の日々を通された。特に十年間は百戦錬磨の時代であったが、その間に「志」は芽を出し養われていった。大切な若い時代に刻苦勉励しなかった私が、今、年を取るほどに燃え上がる志をもって生かされているのだ。両親の労苦も無駄ではなかった。

多様化で多忙な現代は、クリスチャンでさえうっかりしていると主体性を失ってしまう時代である。人との摩擦を恐れていると世の中においても発言もせず埋没してしまう信仰生涯になってしまう。
私たちは闘わないことがよいのではなく、何と闘うかである。ともすれば闘うべきことに闘わず、闘わなくてもよいことと闘ってしまう弱い者であるが、神と共に在って生かされるというのは何という恵みであろう。
私に残された時間、生涯が神に用いられるものであるようにいよいよ熱心に励みたいと思う。
『堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである』
            (Ⅰコリント十五・58)

私の小さな志                堀川きみ子

新聞の地方版に、「イモムシ育て理科嫌い解消」の記事を見つけた。「国蝶」オオムラサキの幼虫を私立中学生が学校で育て羽化させているという。私の育った町だ。N・P・O     
「自然の会・オオムラサキ」の代表者、関根浩史氏は私の同級生である。彼はオオムラサキの森づくり、館づくりに尽力した。保護森林を保つための下草刈りがある。その奉仕者が年々少なくなっていると聞いた。蝶のことを調べるためにアメリカにまで行って来た。  

「蝶が住みやすい自然は人間にも良い環境ということだから、地元のために絶対続ける」と言っていた。四十年近く続け頑張っている友に頭が下がる。彼は志に生きている人だ。
私は、大きな志など持てない。でも小さな志はある。霞ヶ関キリスト教会の始めのころにおられた吉永長老役員が、松戸に移られてから「余白」という本を書かれた。贈られた本と手紙の中に「堀川さんも、いつか本を出してくださいね」と書かれていた。お誘いを受けても出無精の私、一度も松戸のお宅に伺うこともなく亡くなられてしまった。私はこの時いつか自分の本を出すことを決心した。
 
池田牧師は、文章や詩歌を書くことを教えてくださった。小さな詩でも文章でも褒めてくださり励ましてくださった。私が初めて証し文を書いたのは、原稿用紙十二枚の「記名票と金木犀」であったが、あの時の原稿は凄まじいものだった。誤字、脱字を赤いペンで修正され、それはひどいもので、この時、文章を書くことのたいへんさを知った。詩を書き始めたころは、夢中で書いていたのでかなり速いペースで書けたが、今はペースが落ちている。教会創立三十五周年の時に聖書カルタを作ったりした。
証し文は満江巌先生の頃、原稿用紙一枚、四百字で書くことが長く続いた。今は原稿用紙三枚になった。「あかし新書」を書き続けたことは有意義なことだった。
 
私が何かを書くことは、私の心の発露であって口で言えないことを表現する大切な手段。もしも書いていなかったなら私は、精神的に窒息していたかもしれない。うまい下手以前の問題だったとも言える。遅々とした歩みと自分との闘いの中から作品が生まれてきた。今それらがパソコンの中に少しずつ増えてきていることが嬉しい。書いている時の自分はほんとうの自分になりたいと思っているのかもしれない。自分自身の心の解放、一人の存在としての自分。かつて、娘から「お母さんは何を言いたいのかが解らない」と、読後によく言われたことを思い出す。
いつか自分の本を出す。これが私の小さな志である。

ヒネ マー トウヴ               前山 英子

 見よ、兄弟が和合して共におるのは
いかに麗しく楽しいことであろう 詩篇一三三篇一節
  
数年前、軽井沢の集いで東京のS姉にはじめてお会いした時、「朝祷」誌を手渡されながら言われた。「エキュメニカルと言いまして、カトリックとプロテスタントが、共に礼拝を守り、お食事をし、お交わりをいたします」と。
受洗から三十年、私は福音派の教会で、一筋に信仰をまもってきた。他の教派、ことにカトリックとプロテスタントが共に礼拝を守るとはどういうことか、大変興味深い話であった。三年前、定年退職した私は地元にある神戸YMCA朝祷会に出席しはじめた。
 
クリスチャンセンター神戸バイブルハウスが、その春オープンした。ここは戦前、関西一円に聖書の頒布をしていたが、戦時中にはやむなく閉鎖に追い込まれた。十年前の震災で売りに出したノルウェー船員教会を、クリスチャン実業家が買い取り、当館が再建された。その働きはエキュメニカルで、キリスト教文化を普及することにある。
私はやがてヘブライ語を学ぶようになった。先生が最初に教えてくださったのが「ヒネ マー トウヴ」というヘブライ語の歌。詩篇一三三篇一節の聖句に軽快なメロディをつけたもので、私たちは大きな声で歌った。
 
エキュメニカルとは教会一致運動と言われる。キリスト教がカトリックとプロテスタント各派に分裂している現状を憂えて、他教派との違いを認め、受け入れ、交流していこうとする運動である。これは十九世紀から二十世紀にかけて興ってきた。
 当館では昨年秋からセミナー「キリスト教の世界シリーズ」が始まった。私はそのスタッフの一人となった。講座は毎週火曜日の夜開かれ、一学期は講座十二回とし、二学期三学期と続く一年間の長丁場であった。
講師は各教会の聖職者である。ふだん教会では聞くことのできないテーマについてお話していただき、その後、講師を囲んで茶菓をいただきながら、質疑応答の時間をもつ。聴講生は二十名から五十名ほど集まる。
「何とお呼びしたら良いのでしょうか」と聖公会のスタッフが正教会の講師に尋ねている。「なぜ、ミサにプロテスタントの信者は与れないのですか」とルーテルの女性がカトリック大司教に質問する。このような光景は「キリスト教の世界シリーズ」ならではのものである。「カトリックとプロテスタントが、こんなに仲良くやっている所はどこにもない」とは、セミナーに出席される一伝道師の言葉である。これをご覧になって、天の父はどんなにお喜びであろう。
 スタッフとしての私の責任は重い。しっかりと天を仰ぎつつ前進する者でありたい。

こころざし 高く                 槙 尚子
                               
こんなに若いおねえさんが最初に学校を作ったのかと、子どもたちはおどろきました。豊かな髪の毛をアップに結い、何かを見つめているまなざしはしんと静まっていました。銅像の人は、ドーラ・スクーンメーカー、私どもの学校の創始者です。
ドーラが生まれたのは一八五一年、日本では江戸時代末期、アメリカ開拓史の中で、人々が西へ西へと開拓を進めているときでした。新しい地への夢は当時のアメリカ人たちの共通のものだったでしょう。ドーラもそのような家庭に育ちました。
 
八歳の時、ドーラは生涯に決定的な影響を与えた一冊の本に出会います。「ハリエット・ニューエルの生涯と著作」という本です。ハリエット・ニューエルはアメリカが初めて海外に宣教師を派遣した時の一人の人の妻だそうです。わずか十八歳でインドに向かったけれど、志を果たす前に召されてしまいました。しかし彼女の日記が死後四十年もたって出版され、日曜学校に通う少女たちに大きな影響を与えたのでした。
ドーラも大きくなったら宣教師になりたい、そんな夢を抱いておとなになりました。しかし、神様はすぐにはドーラを宣教師にはしませんでした。思い余ったドーラは大事なその本を川に投げ捨てるという行動に出ました。自分の夢が本物かどうか、自らに問うていたのです。
 
ドーラが宣教師にと導かれたのは二十三歳の時でした。忘れようとしても否定しようとしても神様の召しは追ってきたのでした。アメリカを出て一か月、ドーラは明治維新の嵐の中にある日本にて宣教師としての第一歩を踏み出したのでした。
新しい国作りは軍隊ではなく教育から、それを支える宗教からという理念は、当時の宣教師達の強いこころざしでした。ドーラは先輩宣教師や日本人キリスト者に支えられ、女子学校を始めました。女子三人、男子二人、これが百三十年後に二万人の大所帯になるとは、誰が想像できたでしょう。ドーラは五年後に帰国しますが、宣教師としての五年間は生涯に渡って彼女の夢を支えたのでした。
 
こんなに大きな事をしたのはこんなに若い人でした。そのきっかけを作ったのは十代で召された若い女性の手記でした。ハリエットはこころざしに生きるまもなく召され、ドーラも最初の苦しい五年間だけの関わりしかありませんでしたが、蒔かれた一粒の麦は神様の大きな計画の中で豊かに成長しているのです。
「ドーラって、きれいなおねえさんだね」

天使のパンで生きる             三浦喜代子

娘二人と母子家庭の生活をはじめるに当って、暮らし向きの問題が覆い被さってきた。
これから先、三度の食事ができるだろうか、いや二度だって保障はない。少しでも収入のよい仕事に就かなければ……

時に私は36歳、長女7歳、次女5歳であった。
父母も妹たちも親友たちもひどく心配してくれた。
それまで私は父の興した会社で、婿養子に入った夫と事業に打ち込んでいた。
戸籍を清算し家族関係を白紙にする手続きの過程で、なんとしても娘二人を手元に置くために、家業のいっさいを彼に渡してくれるように、父に懇願した。
父も母も愛娘、愛孫のために理不尽な苦杯を飲んでくれた。これ以上の親不幸はないであろう。私は15年間の家庭生活と、職場も失った。

さあ、明日からどうしよう。
私は一つのことを主に願った。
神さま、あなたが託してくださった娘たちを清い経済で育てたいのです。
あなたは荒野に出ていった民を、四十年もの間、天のマナで養いましたね。『人は天使のパンをたべた』(詩篇七十八・25 口語訳)を私にも体験させてください。
具体的に決意したことは、どんなに収入がよくても、伝道のにおいのしない仕事はしまいと。 
 
口を開けてひっきりなしに食べ物を求めるひな鳥のような娘二人を抱えて、なにをたわごとを並べているのかと、心にささやく声も聞こえた。
が、不退転の決意であった。
天使のパンを求める叫びを無になさる神ではない。この志に立たせたのは神ではないか。神はきっと成し遂げてくださる。
 
私はじっと神のみ手を見つめ続けた。
教会の幼稚園で働けるようになった。園児たちを抱きかかえ、賛美とみことばに浸りながら十年を過ごした。その後の十数年は、自宅の一室を教室にしてミニ学習塾をした。卒園児や教会学校の生徒たちが塾生になった。恐れなく福音を語り、祈りながら学習指導ができた。充実しきった悔いのない歳月を送った。いただいた経済はまさに荒野のマナであった。その糧で成長した娘たちは現在、主の器として用いられている。
 
荒野の道すがらでまた志を抱いた。夢というべきか。
あかしの文章に献身してキリストのすばらしさを書いていきたい。
二羽のひな鳥は巣立っていったが、親鳥の無謀な志のゆえに、真実な神は今日も忍耐強く天使のパンを送り続けてくださっている。 

文書伝道                  三杉 富子

「文は信なり」と満江巌先生の大きな声が聞こえてきそうだ。先生にはほんとうにお世話になった。私は夏期学校に参加させていただいている時は、いつも「文書伝道」の分科会だった。証し文書を書くことが福音を伝える手段であると思っていた。
十五年前、夫が初めてアメリカへ駐在する寸前に京都で満江先生に初めて出会った。そして、日本クリスチャン・ペンクラブに入会したいと申し出た。先生はしっかり文書を書いて自分の所に送って来るようにと言われ、指導してくださった。私は一生懸命書いた。
 
先生は「自分がおかれている環境がよくても、どんなに悪く苦しくても「文は信なり」だから書き続けなさいと言われた。
アメリカのオハイオ州デイトンの片田舎に住んでいる時は「ベテスダ通信」を二百通ぐらい送っていた。
このデイトンには、戦後の花嫁さんが多く住んでいた。アメリカの空軍基地がある町である。アメリカ兵についてアメリカに渡った日本人の方々を中心に通信を送っていた。なぜなら、夫がクリスチャンであっても夫人たちはノンクリスチャンであったからである。
 
私の家を開放して、十年来祈り続けた家庭集会もしていた。また、コロンバスから日本人の牧師が来て説教をしてくださった。
集まって下さる方に通信を送っていた。その内、一人の姉妹が洗礼を受けられた。また、大会社の社長夫人や駐在員の奥様たちにも通信は送っていた。「ベテスダ通信」は、キリスト教の信仰に基づいて日常の生活をあかしする文書を書いた。日本にも通信による福音の種がまかれた。ノンクリスチャンへの伝道をしていた。書くことで、批判的な手紙が来たり、そのまま返信で送り返されたりして心が痛む思いに絡むことさえあった。また、一方では、とても良く書けている、これからも送ってくださいと喜ばしいお手紙を送ってくださった方もある。海外に行ってから言葉の不自由さを覚えたり、日本との生活の違い、親しい友人がいないなどの苦労も多々あった。
 
そんなことも先生に相談して文書伝道を進めて来た。アメリカでは、駐在員の家内としてはねたみや意地悪などで苦しめられ胃潰瘍になった。花嫁さんたちが主イエスの御救いに預かって欲しいという思いから一か月の沈黙の祈りをした。その時、洗礼を受けた姉妹が、ご主人が娘さんをさがしていたのが見つかったと連絡をして下さり、「あなた、私たちのために祈ってくださったのね」と喜んでくださった。そして、お手製のビフテキをご馳走になった。が、「遭わせてくださったのは神様よ」と言った。その人のためにだけ祈ったわけではなかったが心が荒廃している人達に神様の愛が注がれて主が顧みてくださった。
 私は文書伝道に導かれ本等に感謝している。書くだけでなく祈りを深めることが大切だ。
(シンガポール在住)

新しい道                  水谷 節子

東海神学塾の女性奉仕者コースの学びを始めた。還暦を過ぎて五十肩を道連れに。
『あなたの手に善を行う力があるとき、もとめる者に、それを拒むな』箴言三・27

このみことばに出会ったのは五年前。早々と入学願書を取り寄せた。「やはり私はこの道を歩くのだな」と意気込んでいると、Y姉妹から「おめでとう。神学塾へ行くのね。A子さんも行くんですってね」と電話がかかった。
初耳だった。A子は中学、高校の同級生。二十年ぶりに街で出会って教会へ誘ったのは私だけれど、性格的に合わない。一緒に通いたくなかった。悩んだ末に一通だけ取り寄せてあった願書を彼女に手渡した。
「どうして行かないの? 一緒に行こうよ」A子は何度も言った。「いいのよ。別に」
 
その都度私はことばを濁らせた。信仰を試されているようで恥ずかしくて理由を誰にも言えなかった。しかしいつかは教会の方にもわかってもらえる時が来ることを信じていた。
入試の面接試験のとき、前回受験しなかった理由を初めて話した。不信仰だったのかもしれないけれど、先生方は「わかるよ」と優しく言ってくださった。
「それにしても、来るまでにずいぶん月日がかかりましたね。来ないのかと思いました」

「でも、今が時だったと思います」「そうですよね」
昨年の夏、舌がんの手術をうけましたばかりなので、私の話し方は聞きづらいかもしれない。がんの初期で細胞が変化を始めたばかりだったそうで、味覚は失われなかった。病院で患者用に細かく刻んだ昼食を食べていると、会社の昼休みに見舞いに来てくれた妹が、「お姉ちゃん、舌があるんだね」と言った。舌があることを感謝しなければいけない。口内炎の診断で地元の病院へ通っていたけれど、なかなか治らないので他の病院で診察をしてもらった。四つ目の病院でがんと診断されて手術をした。
「再発は殆ど無いでしょう。早くてよかった」と医師は言ってくださった。
 
もし母が大きな欠伸をして、あごの骨をはずさなかったらその病院へ行くことはなかった。また私が診察を受けようと思わなかったら今の私はいない。主のお導きだったとつくづく思う。
私に後どのくらいの時間が残されているのだろう。退院して三ヶ月した頃、再び聖書の学びをしたいと思うようになり、牧師夫人に肩を押されるようにして神学塾の受験をさせていただいた。無事に二年間の学びを終えたいと願っている。
幸せは買うものであると思っている若者たちに、永遠の命があることを話したら笑うかもしれないけれど、私が子どもの頃、近所のおばさんが話しかけてくれたように、私も若者に話しかけ、神の存在を伝えてあげたい。

より良き町づくりに向けて            山下 邦雄

私は、子どもの頃から社会の動きや政治に興味を持ち、長じて西欧の社民政治に共感を覚え、政治、行政分野の仕事に携わってきた。
本来、私は理想主義者のようで、理想と現実のはざまで揺れ動きながらも、その道を進もうと何とか努力してきたように思う。
定年後について思案していた十余年前、私は『夕暮れのころに明るくならん』という聖句に出会った。なんとすばらしい響き! ほんとうの人間の価値は晩節にある。これまでの人生はプロローグなのだ、と思いを抱いた。
 
もっとも有用な道は何か、と自問自答する中で、私の心は固まった。第一の人生で得た知識や経験、友人などの財産を生かし、私たちが住むこの町のためにお役に立てれば…と。それ以来この町のため自治会役員としてボランティアに励んでいる。
いま、私は日常的に多くの出会いがあり、その触れ合いの中で大切なものを学んでいる。人間にとって大切なのは、家族や隣人、地域が手を携え、助け合うことであり、私はコミュニティ復権の大事さをひしひしと感じる。
池田牧師は、牧会エッセー「悲しめる仕事を」でクリスチャン詩人、永瀬清子の訴えを紹介された。民主主義というのは、自分の心を自分で知ることが第一、次に相手の心がわかること、第三に共に協力し進歩していくこと、この三つが揃うことである、と。
 
この簡明にして当を得た考えは理屈ではない。皆が身近な町づくりに参加し、共に考え、汗を流す中で、真の民主主義を会得できるものと私は思う。
私の住む町は、戸建て二千世帯を有し、自治会館には職員、役員が常駐、老人憩いの家もあり、川越市最高の組織と活発な活動を行ってきている。
しかし、高齢化の中での住民参加の難しさは、私がもっとも腐心している点である。昨今の大災害や社会不安の中で、住民が自分自身のこととして共に考え取り組まねば、の思いがいま広がってきている。私はこの風潮を逃がさぬようにしていきたい。
 
二〇〇五年、自治会創立四十周年、「皆でこの町を考えよう」をテーマにした記念誌に住民から多くの提言が寄せられた。小学校移転跡地問題、お年寄りを支え、子どもを守り、町の安心、安全をどう確保するか……。私は、組織の調整役として、ことがうまく運ぶよう力を尽くしお役に立ちたいと念じている。
 いよいよ私も人生の第四コーナーを回りつつある。信仰を深め、人々に仕えていく人間に私はなりたい。
  『あなたがたが年をとっても、わたしは同じよにする。
   あなたがしらがになっても、わたしは背負う。
   わたしはそうしてきたのだ』  (イザヤ四六・4)

情けは人のためならず            山本 披露武

洗礼を受けた年の暮れに国際精神里親運動のことを知り、早速申込書を取り寄せた。
会費を納めて精神里親となり、手紙等を通して心の交流を図りながら子どもの成長を支援するという運動である。が、いざ捺印という段になって心が揺らいでしまった。
「おいおい、よく見ろよ。会費が毎月四千円もだぜ。ほんとにできるのかい?」
私の中の慎重居士が言うのである。
「心配せんでもよろしい。いざとなったらタバコを止めますがな」
 
その頃は毎月六千円ぐらいをタバコ代として使っていたのだった。
が、その程度の説明では慎重居士が納得してくれない。
「あまいあまい。リストラされるかも知れないんだぜ」
と、痛いところを突いてくる。当時私は胃潰瘍で入退院を繰り返し、仕事に対する意欲をなくして窓際に座らされていたのだった。
「そうなったら里親もやめますがな」
 
返答に窮してだんだん捨て鉢になっていく。
「クビになりましたと言ってかい? そんな恥ずかしいことが言えるの? それにさぁ、途中で支援を打ち切られた子どもの身にもなってみろよ、可哀想じゃないか。それだったら最初からやめておいた方がいいんじゃないの」
慎重居士の方が弁が立ち、どうにも歯が立たない。が、こちらも意地、
「そやけど全然せんよりは、一年でもしたら、その方がええのとちゃいますか」
と言ってなんとか押し返し、ようやく申込書に判を押した。
しばらくして、事務局から里子の身上書が送られてきた。レイナルドという九歳になるフィリピンの少年で、「父親が病死して母親が食べ物などを売って生活を支えています。上の子達は生活に追われて教育を受けさせることができませんでしたが、せめてこの子だけでもと母親は願っています」といったことが書かれてあった。

それからまたしばらくして、今度はたどたどしい字で、「里親さんになって下
さってありがとうございます。ぼくは学校にいけるようになって本当にうれしいです。里親さん、ぼくは一生懸命勉強します」と書いたレイナルド本人の手紙と、にっこり笑った写真が送られてきた。その手紙や写真を見ている内に、こんなに喜んでいる子の支援を途中でやめてはいけない。どんなことがあっても卒業するまでは続けてやらなければとの思いがふつふつ湧いてきた。と、不思議なことに、失っていた仕事に対する意欲が戻ってきたのである。
「情けは人のためならず」とはよく言ったもので、もしこの運動に参加していなければ私は仕事に対する意欲をなくしたままリストラにあっていたかもしれないのだ。そのような私が停年をすぎて尚二年も会社に残ることができたのは国際精神里親運動に参加したおかげである。そう思って、今はこの運動に参加できたことを感謝している