本篇

 二〇〇四年 夏期学校 開会礼拝説教要約
   生かされて捧げる               理事長 池田勇人
 
中部ブロック企画の夏期学校。 準備された諸兄姉に感謝しつつ、猛暑の中参加された皆様を心から歓迎したい。
 小さくとも神の栄光を現す作品を書きたい、全会員の願いでしょう。そのために今私共は集められているのだから。
 ではあかし文章道に生きる心構えは、いかにあるべきか。まず第一に、死ぬべきものが生かされているという感謝があること。罪と恥のとりことされていた私が、「死者の中から生かされた者として」(ローマ6・13)ペンが与えられているとは、何という光栄!
 第二に、命の創造者、所有者なるキリストのみ手に握られていること。五つのパンと二匹の魚がキリストの手の中で祝されたように、祈りつつ文を紡いでゆきたい。
 第三に、私の作品がどのように導かれるのか、結果はみ手に委ねて平安でいること。賞からもれても、神からの誉れを信じて・・・・。
    
   神様  なぜ
 自分の心臓は
 私が動かしているのではないから
 私は生かされているものなのだ
 とわかっているはずなのに
 時々自分の思ったようにいかないと
 疲れてしまうのは なぜ?
 
 生かされているということは
 今日の命を感謝しているということ
 生かされているということは
 生かしてくださっている方を 讃美すること
 と わかっているはずなのに
 不満や愚痴が多いのは なぜ?
 
 私はみ国幼稚園の
 まだまだ愚かな園児です

死の医学と心                      浅見鶴蔵

最近ホスピス、その他の所で「クオリテー・オブ・ライフ」という言葉が使われるようになりました。直訳すれば「生命(生活)の質」ですが、話題の一つに延命処置がいろいろと問題を起こしています。この処置によって得られる生命の長さ(量)に対する概念をどのように考えたらよいでしょうか。

延命処置によって、得られた生命の長さではなく、質としてとらえて、死に直面しながら人生の本質を見極め目的をとらえて「あなたの神に会う備えをせよ」をどのように受け止めて生きていくかが問題です。
死が全ての終わりなら、死の医学の究極は死に直面した人を「質のある命」に至らしめることにあると思いますが、人は死に臨んで死を超えた命に、尚、永遠の天の御国を切に望むのではないでしょうか。永遠の命の確信を得てこそ人生の終焉を迎えられるので、神に会う備えをするのは、医学の問題ではなく信仰の領域で死に勝たれたイエスだけが、その願いに答え得るのです。これが福音の基です。

こんな詩を思い出します。*神がくれた宝物*
心は歳をとらないのに、美しい心、明るい心、優しい心、慕う心、愛したい心。猜疑心、許せない心、嫉妬心、恨み心、悲しい心。心配り、心残り、心待ち。
さまざまな心を神からいただいています。歳をとらない心を全て愛の心に変えていたらどんなに幸いでしょうか。人から心配りをいただくことも嬉しいことですが、神様からの配慮を知れば知るほどさらに恵みを覚えさせられます。

「あなたが歳をとっても、わたしは同じようにする。あなたがしらがになっても、わたしは背負う」(イザヤ四六・4)老年は先のことと思っていましたが、古希が目前に迫ってきました。年齢には、戸籍の年齢、肉体的年齢、精神的年齢、霊的年齢があります。
戸籍と肉体的年齢は覆いようもありませんが、霊的には、いつも若くいたいものです。それは、いつも復活の主を待ち望む信仰にあります。

「神よ。あなたは、私の若いころから、私を教えてくださいました…、年老いて、しらがになっても、神よ、私を捨てないでください」(詩篇七一・17~18)
人は、生きているのではなく、生かされているのです。主の恵み憐みにより、この世に使命があるかぎり、主は生かし、生涯を握っていてくださる。
主の心を心として「人はうわべを見るが、主は心を見る」のみことばをしっかりと心に刻んで歩みたいと願わされています。   

母のいのち                      荒井 文
 
人が生かされるのは、神様の御業です。宇宙や地球にあるもの全てを創造されたのは神様であると、聖書に書かれています。ならば、私の命も同じです。

65年前、クリスチャンだった母の命と引き換えに、しかも八ヶ月の未熟児で生まれました。その後、新しい両親に恵まれ、育てられました。8歳の時、養家の祖母の死を体験し、12歳の時、養父の死、17歳で養母と死別。それは最大の悲しみで、将来の不安を伴うほどでした。19歳の時、実祖母に再会し、私の出生時の母の証を聴かされ、その中にキリストの犠牲の愛を見つけ、クリスチャンになりました。永遠の命を約束され生かされたのに、その喜びより兄姉に申し訳ないという思いが強く、神様の御心を理解できぬ内に、未信者と結婚させられました。教会生活も忘れ、不信仰な生活をしてしまったのでした。そんな中で次々と試練に会うのです。この試練が神の愛だったとは知らず、しばらく不信仰は続きました。ついに最大の試練がやってきたのです。

長男が一歳の時、大やけどをさせてしまい、40度の熱が十日以上続き、生死をさまよい、死の宣告。命は助かったとしても植物人間か脳性麻痺児になると宣告されました。三歳の長女のことも忘れ、この子と死ぬしか考えられませんでした。こんな不信仰な私でも神様は、これら全てから助けて下さったのです。その長男は今、39歳で二児の父親です。育てている子は自分の子ではなく友人と離婚した奥さんの子どもです。親の私が他人に育てられ、息子が他人の子を育てています。共に不思議な生と死の関係をもたらされています。

そのような神のご計画の上に、共に生かされています。今のところ私だけが生かされた喜びに感謝しております。一日も早く、子どもたち、孫たちが神様の愛あるご計画のうちに生かされていることを知る時を与えられるようにと願っています。その時に共に生かされたことを感謝したいと祈ります。

ヨハネ一二章二四節に書かれている通り、一粒の麦となって死んだ母の命を無駄にせぬようにと思わされます。ピリピ三章二〇節に私たちの国籍は天にあるとあります。その国へ帰るときが来る日までに、知ってほしい、永遠の命の約束。これが本当の命であり、生かされた喜びであると喜べる日をお与え下さいと祈っています。これを知るまで、知らせるためには、生と死のはざまを越えなければならないと思います。これから来るであろう試練を乗り越える御力と、導きをお与え下さいと祈って、残された人生を歩みたいと願っています。

 生と死のはざまを生かされた喜びに、主の愛に感謝し ハレルヤ!

息を吹き入れる                    石垣亮二
 
「幹夫!幹夫! どうしたの、大丈夫?」
与志子が息急ききってアパートのドアを開けた。目の中にいきなり飛び込んで来たのは、包丁を持った左手を流し台に突っ込んで顔面蒼白となってハアハアと息苦しそうにうずくまっている息子の姿だった。二十二歳になり、次の仕事への勤務を始めたばかりだったが、ここ二、三ヶ月体の調子が悪いと言っていた。   
「母さん、かあさん…」と弱々しい声で、赤く窪んでしまった目をショボつかせている。「幹夫! 幹夫!お母さんだよ、わかるかい、わかるかい?」
与志子は冷静にならなければと自分自身に言い聞かせながら、しっかりと幹夫を抱きか
かえた。そして「ダメよ、ダメよ」と言いながら包丁を握っている幹夫の指を、ゆっくり一本一本ときほぐしていった。

その日、真夜中をとうに過ぎた時間に、幹夫から救いを求める電話が入った。
陽蔵と与志子夫婦は驚いて車に乗り込んだ。とっさに与志子は聖書と使いかけのパック牛乳を持った。陽蔵の運転する車は十分くらいでアパートに着くはずだ。突然、狭い十字路の右側からタクシーが飛び込んできて、バリ―ンと音をたてて衝突した。
与志子は気持ちを取り戻して、持参した聖書を読み出した。
『①主の御手が私の上にあり、主の霊によって、私は連れ出され、谷間の真ん中に置かれた。そこには骨が満ちていた。⑤神である主はこれらの骨にこう仰せられる。見よ。私がおまえたちの中に息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る』

「お母さん、もういいよ。今のオレには何のことかわからない」  
与志子はシオリをはさんである箇所(エキエゼル三七章)を読んだのだ。
「幹夫、母さんあわてたので、お前の好きな牛乳しか持ってこなかったの」
幹夫は口の開いたパック牛乳を大切そうに両手で抱えながら、うまそうに飲んだ。与志子の目から大粒の涙がはらはらと流れ落ちた。

 衝突現場からわずか2~3分の交番から宿直の若い警官が来て、タクシー運転手と陽蔵の話を聞き、調書を取り始めた。そこへ与志子が幹夫を連れてやって来た。幹夫は毛布で身をくるんで、ブルブル震えながら「父さんオレ悪かったよ、心配かけて悪かったよ」と泣きながら陽蔵にしがみついて来た。陽蔵はしっかりと息子を抱きかかえた。涙が両の頬をぬらした。
 幹夫はその後元気になり、教会で結婚式を挙げ、現在は三人の子供を持つ父親である。ここに登場した夫婦は私と妻であり幹夫は私の次男である。今から十二年前のできごとであった。(名は仮名) 

生かされて八十路                今井静江
 
姉は賀川豊彦先生の特別伝道集会の最初の晩に救いに与り、教会に行くようになった。
両親は二・二・六事件の時、大臣をかくまった落合の佐々木プールで、姉と私は多摩川のきれいな川の流れの中で、小原十三牧師より洗礼を受けた。昭和ひとけたの時、日本でリバイバルの起きた直後であった。

その時から十余年後、敗戦から半月過ぎた八月三十一日のこと、食べ物が残り少なくなり、お米を買出しに行くことになった。十九歳であった私は、リュックを背負う気恥ずかしい思いが先に立っているのに、四つ年上の姉は私と全く正反対、いつもニコニコ優しく、誰にでも声をかける積極的な人であった。 
汽車に乗るにも切符の手に入らない時代でその日も朝の暗いうちに起こされ、池袋駅に並んで、銚子行きの切符を二枚買った。姉と二人で銘仙の着物を風呂敷に包み、両国から身動きままならぬ程混む総武線に乗り、途中下車もしながら農家を一軒一軒尋ね交渉して歩いた。一枚の着物はわずかな米代にもならなかった。その日は日照りの特別に暑い日であった。帰りは熱気のむんむんする汽車の中で揉みくちゃにされた。その時の悲しみと失望感はわすれられない。

家に帰り着いたその晩から、私は四十度の高熱が続いた。乾性肋膜炎と診断された。医者は「トマトが食べられれば助かるかも」と言ったそうで、父はどこかから手に入れてきてくれた。貴重なトマトだったが青臭さが嫌いで食べられなかった。付き添いの姉が「氷がすぐ解けてしまう」と額の氷嚢を換えながら、真剣に祈っているのを虚ろな中で聞いた。もう助からないと言われた時、親戚から、ある宮家の侍従医、溝渕博士を紹介していただいた。渡された処方箋に提示、取り寄せられた薬を飲み、医者の従兄弟が毎日注射に来て、手当をしてくれ、お蔭様で快復することができた。

多くの人の祈りと親切で神が癒して下さったと信じている。
今、余命幾許も無いと言われた者が快復して八十になろうとしている。
神は『あなたは年を重ねて、老人となったが、占領すべき土地はまだたくさん残っている』と聞こえる。(ヨシュア記一三・1)

士族であり旧家であった親族の反対も、主は平和に解決して下さり、キリストを救い主と信じる信仰に入れた不思議さ、神の選びの中に置かれている恵みを思う。父母も姉夫婦も天に召されたが、子供、孫達にも信仰が引き継がれた。
『わたしとわたしの家は主に仕えます』(ヨシュア記二四・15)と喜びの中に静まって祈る日々である。

 生きていてよかった                今枝洋子

人生長くやっているといろいろな事がある。子ども時代から食物に飢え心にも傷を負っていた。それでも年頃になって、一人前に結婚し、子どもたちも与えられた。
第一の試練は夫の失業であった。新婚三ヶ月であった。すでにお腹には子どもが宿っていた。ともかく私たち夫婦は働いた。

幼い子どもに辛い思いをさせた。保育所にも行かせられず家においた。冬の寒い日であった。仕事から帰ってみるといないのである。そりで一人遊びをしてどこかへ行ってしまったのだろうか。夢中で探していると、保護している警察から連絡があった。このことでは今でもすまないと思っている。どんなにさびしく寒かったことか。この時私は神の守りを知った。

姑が夫の就職口を見つけてきた。姑と私は息子をそりに乗せ、ケーキの箱を抱えて上司に嘆願に行き、無事に就職できた。
仕事は順調にいき、息子を保育所に入れると、私は通信教育で短大の資格をとり、家の向かいにあった教会の幼稚園に勤務するようになった。牧師夫妻といっしょに三十人の子どもたちとの楽しい生活が始まった。このことを通して私は、生きていれば神は必ず助けてくださることを学び、受洗した。

しかし、いい事は続かなかった。遊び場のない園は不許可で閉園となった。牧師夫妻も宣教師も転任し、信徒だけが礼拝を守り通した。
 ある日、無人の教会が火事に見舞われた。駆けつけた私は不思議なものを見た。晴天のはずなのに教会の上だけに一つの雲が覆っていて雨が降っているのであった。幸い消防士たちの努力で延焼せず、火は消えた。
私はまもなく保育所に勤めることができた。仕事と主婦を両立させながら懸命に働いた。父兄の協力もあって楽しく働いた。
しかし無理が重なったのか、運動会の前日に倒れてしまった。魂は天上の花畑を歩いていた。いい気分でいると、私を呼ぶ声に気がついた。病院にいて夫や子どもたち、親戚の人たちに囲まれていた。
「母さん今、死んでいたんだよ」

傍らには酸素ボンベが置かれていた。また神様に助けられたとつくづく思った。私の人生はこれで終わりではなかった。
退職後、夫と二人暮らしになったころ、夫に先立たれた。その矢先、甲状腺で手術を受けた。医師たちが時間をかけて癌を取り除いてくれた。

今、イエス様を信じる幸せを感謝する。旅人をいやすイエス、心の重荷を背負ってくださるイエス、残り少ない人生をイエス様とともに歩いていこうと思う。生きていて良かった! 主を讃美します。

死をくぐりぬけて                内海健寿
『恐れてはならない。私はあなたと共にいる』
私の父は私が生まれて二週間後に死亡。私の母はその四十日前に父の死の有様を夢で見た。父は祖父と激しい口論の直後トイレで喀血。窒息死、二十七歳だった。恐ろしい光景!
「あなたはお父さんの顔を見たこともないのに、どうしてそんなに似ているの、あなたはお父さんよりもいい」母の言葉。

私は四歳の時、急に道路に飛び出た。自動車の下をくぐった。不思議にかすり傷で命は助かった。ひき殺されなかった。母は、父の突然死に出会って半狂乱。松山のアライアンス教会の牧師緒方繁造宅に逃避していた。緒方牧師の娘は、後に私の妻となる。六歳の頃、子ぼんのうなおばあちゃん(父の母)は「かわいそうだが、この子は死にますよ」と言った。私は激しい百日咳に襲われ、顔は紫色に変わり生死の境目だったが、不思議に命を取りもどした。

一九四五年八月六日、広島に原爆投下。私は旧制広島高等学校に入学、学徒動員で向洋の日本製鋼所に勤務。その前日作業を終えて家に帰る途中、わらじばきの私は橋の穴に足が落ち込んで傷を負ったので、翌六日の電休日には広島への外出を控えていた。寮に居残り、午前8時すぎ、すさまじい閃光、猛烈な爆風、近くに爆弾が投下と直感した。ガラスの飛び散った廊下をはだしで走り、防空壕に入る。しばし静寂「火山の噴火か」「石油タンクの爆発か」一人の理科生の叫び「原子爆弾だ」後日談。数学の細川藤衛門先生の言葉「キャラメル一個の大きさの原爆で広島は壊滅する。だが、今度の戦争には間に合わない」と。その細川教授は広島文理大で原爆死された。
 戦後、アメリカのカメラマン記者オダネル氏と対談。この日の私の体験を彼に語る。足の傷のために広島に行かなかったと。「ユーアー・ラッキー」と彼は手を打って私の健在を 喜んでくれた。同じ中学出身の広高に入学した三人の友人たちは原爆死。哀悼!

戦後、ポツダム宣言受諾、平和が訪れた。
私は幼児時代、母に連れられて福山アライアンス教会に熱心に通った。牧師先生の真剣なお祈りとメッセージ。美しいオルガンの讃美、心あたたまる素晴らしい雰囲気に魅了された。しかし私は戦後は教会に復帰しないで、東京大学経済学部入学後はギデオンの聖書をもらったが、マルクス主義にひきつけられた。一九五〇年「反戦メーデー」に参加。赤旗はゆれる。デモ行進。その後結核発病。同年九月、私は東大の氏原先生ご夫妻のご厚意で大森の東邦病院に入院。東京在住三年間の生活が挫折。ベッドに伏し、タオルで顔を蔽って悔やし涙にむせび泣く。私は俗世間からしばし隔離され、静養の時間をもった。東京大学の隅谷先生の温かいお見舞いに慰められた。静かな反省の時間。私は幼児時代の清らかな楽しい教会生活に復帰したい願望が次第にこみあげてきた。健康回復。会津田島高校時代武藤ラク―ア音楽伝道で受洗。再び主のもとに帰った。主に感謝。平安あれ。

 キリストの死に生かされて                   遠藤幸治 

初めて入院したのは三十一歳の初夏だった。病院に搬送されたときは、尿は止まり体重が八・五キロ増えていた。教会の牧師先生、近くに住む弟、そして妻が呼ばれ、医師に言われたそうだ。「血液中の毒素が七〇パーセントを超えており、尿毒症となり、医学的文献上これで助かった人はいないので親戚を呼ぶように」

死を宣告されたとき、二人の幼い子どもを抱えていた妻は、何とか助けてほしいと懇願したそうである。医師は、体内の血液を全部交換すれば、あるいは…と言ったという。
私は何も知らされず、これも神さまから与えられた「通るべき道」と信じ、聖書を読み耽っていた。
当時、日本にはまだ人工透析という医療器具はなかったのか、医師の口から透析という言葉は聞かされなかった。

病院のベッドに臥し、天井板がはりあわさった線に長く伸びた真下に寝ていると、生と死が両方で私を引っ張り合っているように思われてならなかった。死に引き込まれないように、病気に負けず頑張らなくちゃ、と思った。
だが、ちょっと待てよ、聖書の世界はこれとは違うぞ! どちらが勝つか負けるかと、勝負をする前に「わたしはもうすでに勝っている」と言われたイエスというお方がおられるではないか。
生きよう。いや生きようなんて肩肘張らずこのお方に身を委ねればよいのだ。
そう思うと、平静な心になり、天国旅行でもしているような入院生活になった。

三ヶ所の病院を転々とした挙句、ようやく明日の朝、退院するという前夜のことであった。病院の屋上で独り祈っているときだった。「お前に代わってわたしが死ぬ、お前は行ってこの福音を伝えなさい。汝の罪赦されたり」
天から聖霊を強く感じ、私は体が震え、いつまでも泣き伏していた。奇跡を信じない私に神様は奇跡を起こしてしまったのだ。

以後三十年が経ち、定年と同時に透析の身となった。一日おき四時間の透析ベッドを、「神様の祭壇である」と昭島教会の石川献之助牧師は言われた。血液の浄化と共に、心も清められる祭壇のように思っている。
死ぬべきはずの罪人の私に代わって死んでくださったキリストの愛、私はいつもこのお方が頭から離れない。人を見るにもこのお方を通してしか見えてこない。
主は生きておられる。イエス・キリストの復活により、新しい生命に生かされる喜びに踊るような毎日であり、この福音を伝えないではいられない。

透析の身となって十年が過ぎ、JCPに導かれるとは、これまた不思議である。感謝!
『主はわたしのために命を捨てられた』
                     (一ヨハネ三・16)

暗黒の中の光                        小澤雅子

私は約二年前に大きな追突事故に依り、むちうち症になった。二年間というもの、頭の激痛やしびれ、目まい等さまざまな症状に苦しみ続けた。いろいろな治療をいくつかの病院で受けた。こんな痛みに苦しむ我が身を嘆き、加害者を恨みに思うこともあった。しかし、あくまでこの背後には神さまの御手が働いていること、私の人生は主に支配されていることを信じ続けようとした。
このまま、一生この痛みを自分のとげとして持ち続けなければならないのかと思ったこともある。何をするのも不自由で、思い通りに動けない体だからこそ、そこに主の助けと慰めがあるのだろう。ところが、二年の年月を経て、最後の治療が効を奏し、祈りがきかれ、不思議にいやされほぼ回復した。
いやされなおった喜びもつかの間、先月の末に、また追突事故にあった。今回は救急車が出動する程、私はぐったりしていた。

やっといやされ、また事故にあう。このことの意味は何なのか。健康にもどった体を当たり前のように思い、主が当然受けるべき分に対し、感謝と讃美が少なすぎたかもしれない。未だ告白していない罪の悔い改めの促しにも思えた。神のみこころを探りながらも、心は絶望の淵を漂った。今までの二年間の痛みとの戦いの日々が走馬燈のように思い出される。またあのような日々が繰り返されるのだ。
日に日に症状が悪化し、次第に不安と不信仰が高じてきた。「なぜ私がこんな目にあわなければならないのだろう。さんざん苦しんでいやされたばかりなのに。もう死んでしまいたい」と思った。と、その時、これはまさに自分の生をのろったヨブの姿と同じだ、と気付いた。その後ヨブが「ああ、できればどこで神に会えるかを知り、その御座にまで行きたい」と願ったように私も祈った。「神さま、助けて下さい。側に来て下さい」すると完全に愛なる姿をもって、主は私の枕辺に立たれたのだ。「私が共に居る。恐れることはない」

何が起こっても、どのような状況でも神さまに信頼していよう。主の御臨在を感じ、復活の命に生かされるなら、倒れても再び立ち上がれる。共に居て下さる方がおられるならば、暗黒の中でも光が見える。ヨブが悲惨な状況の中にいても、主に出会った時に言いようのない喜びを感じたと同じように。健康も仕事も全てを失ってしまったように思える今だからこそ、主の御臨在だけが私の宝に思える。
 神さまは歪んだ私を様々な訓練を通して矯正される。全てが愛の御計画であり、主は最善をなさる。今、再び得たこの痛みの中でもがきながらも、主が共にいて下さるという宝をひしひしと喜びかみしめている。
 
『地上ではあなたのほかに私はだれをも望みません』
                    (詩篇七三・25)
 

死からの生還                       木村隆一

「上行大動脈を人工血管に大動脈弁を人工弁に置換する手術ですから、リスクがあると思っていてください」
「そうですか…」
「家族以外の複数の人にも説明したいのです」

わたしは医者の言葉に緊迫感を覚えながら、三人の弟に連絡した。
彼らは仕事柄連れ立って来られなかったが、三々五々集まってくれた。担当の医者は、妻と息子と弟三人に、心臓の模型を使い、器用に分解しながらホワイトボードに病巣の部位を絵図にして説明を繰り返した。納得いくまで説明したいと言っては、皆の顔色を見ながら確かめているようであった。

翌日、麻酔医から、使用される麻酔薬の説明を受けた。「あなたの病気の特徴は、長身で痩身の人に多く見られます。ご兄弟に身長が一メートル八十センチ以上ある人はいますか。あなたは病気になった原因をご存知ですか」「知りません。四十度の高熱が続いて、それが下がるまで三日ほど入院したことがあります。素人判断でリウマチ熱と思っていました。心肥大の様子は、レントゲン写真から心臓の幅と肋骨で囲まれた胸郭の比率(心胸郭比)を計算して、心臓の壁が分厚くなって肥大するスポーツ心臓と診断されてました」
「背は高くないようですね」「そうです。手は短く足もちいさいほうです」「そうですか」

少し時間が長くなるがと断って、麻酔医は病気の説明をしてくれた。
手術は医師が事前に告げていたように難渋した。手術が終わろうとした時に大量の出血と心筋梗塞を起こして、危険な状態が四十日に及んだ。が、わたしは幸いにも重篤な状態だったことを、何も知らない。わたしは四十日も意識不明に陥って、二度も危篤状態になった。皆は右往左往していたころ、わたしは生死の境を行ったり来たりしていた。
あちらにも座る椅子が無くて途方にくれていたとき、耳元に聞こえた声で我に返った。

「キリスト教式の葬儀の仕方がわからん。どないしよう」と、弟たちが話し合っていたのだ。「顔や身体がパンパンに腫れ上がって痛ましい。延命装置を外してほしかった。正直、
葬儀の相談には義兄を加えて四人でしていた」と、後で弟たちから更に聞かされた。
形振り構わずお医者さんの姿を見ると嘆願しました。助けて、助けて下さい。また幾度も幾度も神さま助けて下さいって祈りました。全てを神さまに委ねました」と、かみさんのこの話を聞く度に、わたしは涙を流してしまう。

「生還してよかったね」
周りの人から祝福されて五年が過ぎた。
一番好きな季節を迎えるときの喜びは、命を神さまからいただいたという実感にある。

入院前後                      川口晴絵
 
悪性の確率三割です。聞いてみて左の卵巣も駄目なようだったら摘出します。肝炎を防ぐため輸血はなるべくしませんー医師にそう宣言されたのは今から八年前のこと。折りしも皆川姓から川口姓に代わった直後のことだった。思い起こせば卵巣異常の兆候は、その半年前からあったようだ。当時の勤務先で行われた健康診断でも、血液の精密検査を勧められていたが「いつも貧血だから…」と勝手に判断していた。そのころから車を運転している最中も、光がまぶしくて難儀していた。
私の知らない奥底で、病魔は着々と成長していたのだった。

年が明けるのを待って病院で受診した。下腹部の腫れ物は、手で触っても分かるほどになり内科か産婦人科か迷ったが、ひとまず両方を受診することにした。先に受診した産婦人科でひっかかった。産科の医師は怪訝な表情で、お腹にエコーを当て「おいおい、やだぜー」次男出産時の担当医でもあった医師は、そう呟く。「開けてみなきゃ分からないけど、多分○×△」長い付き合いのその医師との気安い対応が続いた。結局「手術」は確実で病名は検査しながら、ということになり、手術のため検査通院の日々が続いたが、夫の職場の人達から「病院を替えたほうがいいんじゃないの?」と、心配の声があがった。精密検査の結果も、そんな時はことさら遅く感じられる。「悪性だったらすぐに呼び出しがくるよね」¦新婚間もない私たちなのに、会話は、つい暗くなる。

そんな日々を重ねた二ヵ月後、ようやく手術の日程が決まった。夫は、この日が今でも忘れないと言う。良性だとは思うけど、悪性三割の確率だ。やっと出会ったのに、もしものことがあったら、夫は私の連れ子と一緒に暮らすことになる。うまく行くだろうか…。夫の職場では、彼を思うばかりに「かわいそうに」と同情されたらしい。
 手術前というのは、本当に不安ばかりがよぎってしまうものだ。信頼している医師でもミスがあるかもしれない。今見ているこの景色も、たわいない会話の一つ一つも、子育てもすべてが貴重なものになって私の脳裏を被い尽くしていた。私は遺書を認(したた)めた。

手術着に着替え、診察台に乗せられたままで手術室に向かう廊下の、あの柔らかな冬の陽射しを、私は忘れまいと瞳に焼き付けた。
再び戻れるであろうか、いや戻りたい、戻る。そして生還。私が神を知ったのは、その後の一年に渡る療養生活の中でだった。すべてに時がある―それを実感した歳月だった。
それから八年。更年期障害もあるけれど、何とか「生」を真っ当中だ。生かされている命をどう使い、何をすればよいのでしょう―

自称、発達途上人の私。今日も感謝しつつ主を仰ぐ毎日だ。
(卵巣膿腫で右卵巣と子宮摘出)

姉の召天                     久保田暁一

 『最早われ生くるにあらず 
キリスト我が内に在りて生くるなり』    (ガラテヤ書二五・20)
 
この聖句は、姉花子の十字架型の墓石に刻まれた新約聖書の一節である。
クリスチャンであった花子が召天したのは昭和二十二年五月十五日、二十二歳の若さであった。
姉はミッション・スクールの近江兄弟社女学校を卒業した後、小学校教師の検定試験に合格して地元の小学校に勤めながら、教会活動にも精を出していた。当時は太平洋戦争中で、キリスト教は敵国の宗教ということで白眼視され、教会活動が思うようにできなかった。そのため、姉は随分辛い思いをしていたに違いないが、信仰を堅く守っていた。そして昭和二十年の敗戦後、生気を取り戻して教会活動に打ち込んでいた。しかし、過労と食料事情の悪化のために胸部疾患におかされて倒れ、療養一年で逝去したのである。

姉の葬儀は、町では珍しく教会葬で営まれた。その時、私は初めて教会の門をくぐり、聖書を手にした。それまでの私は、姉が熱心に教会へくるように誘っても、軍国少年的な中学生であり、敗戦後は受験勉強に夢中だった私は、姉がキリスト教と関わることを批判し、誘いをはねつけていた。
しかし、告別式の時、姉がクリスチャンとして、ひたむきに生きた清純な姿と生涯の軌跡が私の脳裏に刻みつけられ、それ以来、私は教会へ行くようになった。そして、上級学校へ進学して経済学を学びながらも聖書を手にして、「人はいかに生くべきか」を真剣に考え求める学生となって行った。その意味で姉は、一粒の麦として私の心に種を蒔いて往ったのだ。

『一粒の麦、地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん。
もし死なば、多くの実を結ぶべし』    (ヨハネによる福音書十二・24)
もし姉がクリスチャンでなく、若くして死ななかったなら、私の人生の歩みは今とは全く異なったものになっていたであろう。

私はこれまでの歩みの軌跡を振り返る時、私の人生は、キリスト教と聖書との出会いを抜きにしては語ることはできない。幾多の紆余曲折を経ながらも、私は聖書を手にして求め続けてきた。その過程で、キリスト教文学、特にドストエフスキーやアルベエル・カミュの文学作品、日本の作家では、椎名麟三や遠藤周作、三浦綾子、太宰治の作品を読んで評論の筆を執ると共に、キリスト者としての私自身のあり方を確かめてきた。そして私は、私なりに生かされてきたのである。

私の脳裏には今も、清純に生き、若くして召天した姉の姿が焼き付いている。

今日を生きる                    駒田  隆

人間は、死ぬために生きています。いえ、すべての生命あるものは、死ぬために日々を送っているのです。それは、宇宙に存在するすべてのものに当てはまることであり、存在する物のたどる永遠回帰の道と言えましょう。そこには、空しさとでも言うべきものが存在していることは否定できません。死ぬために生きる、そんな紛れもない事実に対して、わたしは青春時代に、人生とは何か、と考え込んで、街中を歩き通したことがありました。

すべての価値が逆転した戦後の社会は、十代後半のわたしにとっては、すべて空しいものでした。それまで正しいと見られたものが、悪とされた社会の現状は、見るに堪え難いものだったのです。いったいわたしは、何のために生きていたのか、わたしにとっては、それは「なんという空しさ」であったでしょうか。わたは、その空しさを社会にぶつけて、プロレタリア社会の建設を目指しました。わたしにとっては、労働運動に青春を傾けることは、自分自身の存在を確かめられる日々でもあったのです。しかし、そこにも人の醜さは存在し、空しいものが残りました。

一人の哲人は、『人間の偉大さは、人間が自己の悲惨さを知っている点において、偉大である』(パスカル「パンセ・一一四」))、と語り、自分自身を見つけることの大切さを訴えました。現在を直視しなければ、未来はないのです。人間にとって、一日一日の生が死に直結しているのです。わたしたちは、それを知っているでしょうか。わたし自身もまた、自分の存在を、死ぬべき存在であるわたしを、ただ、見ないようにすることしか考えていませんでした。しかし、それでは、何の解決にもならなかったのです。わたしたちは、死と隣り合わせの生活を送りながら、毎日を生きているのです。だが、それを認識しないだけではないでしょうか。あるいは、その認識を意図的に避けているのかも知れません。わたしはすべてが空しい、ということを知りました。日々、自分の存在を確かめるために努力していることが、死という絶望的なものを抱えて、いかに砂上の楼閣であるか、ということを知ったのです。

煩悶を重ねていた時に、わたしのような存在にも、イエスの恵みが訪れたのです。良き訪れがありました。死ぬことは、絶望ではなかったのです。死ねるという希望が、そこにありました。死ぬために生きていても、それは希望の日々だったのです。『::今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。ましてあなたがたにはなおさらのことではないか』(マタイ五・30)、とイエスは言われました。ここには生きることの空しさはなく、一日、一日の喜びが満たされています。 

生きることの喜びがせつせつと伝わって来ました。死ぬために生きていくことは、命あるもののなすべき努めでした。
 野の草花の美しさが、目に見えてきたのです。

十字架のみ旗                          坂口良彬
 
「引っこぬけ、引っこぬけ」
というかけ声とともに、デモ隊を取り囲んで編み上げの靴で足をけりあげる機動隊に押されながら、その渦の中にいた。

毎月のように続き、そして過激になっていく日米安全保障条約改定反対闘争の中で、神経がぼろぼろになってうつ病で倒れた。
無理に無理を重ねたあげくの果てであった。うつ病の発作は、ひどい時にはまるで頭の中に熱湯が注ぎ込まれ、針でかきまわされるようであった。
あまりのひどさに、もう死ぬと思ったわたしは心の中で叫んだ。
「なにも悪いことをしていないのに、なぜ死ななければならないのか。
平和と民主主義を求めただけなのに。

自分は、生きる道を間違えていた!」その混乱した頭脳にはっきり写ったのは、小さい時から教会で見てきたイエス・キリストの、手を広げて立っておられる姿であった。それはちょうど、パウロが回心した時に、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」といっておられる姿と同じに思えたのである。
その後、病気を治すために精神病院に入院した。生きる道を探すために、何度も独房である保護室に入り、自分自身と闘いぬいた。
それから四十五年、神から与えられた試練と闘い、聖霊の恵みに守られて、浜松の地に立てる教会学校という十字架のみ旗をかつぎ、一歩一歩進んできた。

神のみ手にゆだねていると思いながら、準備は大丈夫か、無事成功するのかというプレッシャーを抱えて歩いてきた。私のかついできた十字架のみ旗は、イエスがモーゼ、エリヤと会われた時、衣が白く光っていたように、み心に守られて白く輝いていることだろう。
東から、そして西から集う兄弟姉妹の上に、神は霊の恵みをふりそそいでくださっている。夏期学校が開かれる浜松に近い、東海三県、静岡市、三島市、などにはペンクラブのPRを広げていくことができた。
この十字架のみ旗を担いでくるまでには、子どもの生まれる前と同じように不安にかられた陣痛を経験してきた。

生まれるまでは、不安とプレッシャーでさいなまれるが、生まれてしまうとその子の可愛さだけが残るように、み旗をかつぎきった時、新たな中部ブロックが誕生するだろう。
その上に、新しい使命が与えられ、新しい気持ちで例会を展開していくことになるだろう。 この地に、み旗が、 「文は信なり」言葉とともに輝く時、官憲に弾圧された私が、神の力によって高く上げられ、また一層の希望の時を、身をもって味わうことができるはずである。

生かされて                    佐藤一枝

自分の力で生きているとばかり思っていた私が、生かされているのだと気付いたのは、何時からだったろう。
物事を深く掘り下げて考えることの苦手な私は、どっちかというと感情に流されやすい女の子だった。十七、八歳になっている私をつかまえては母よく言っていた。
「誰に似て、喜怒哀楽の激しい性格になったんだろうね。お父さんもお母さんも至って冷静な人間なのに…」
私は言われる度に、心の中で、「それはお母さんに決まっているじゃない」と反発していた。母は茶道、日本画、琴などを趣味にしているうちに、自分をしとやかな人間だと勘違いしているのだった。けれど、本来は激情がたで、愛情は特別濃い人間だった。私はそんな母が無口な父よりずっと好きだった。
それに母は、母方の祖父母、叔父叔母と共にクリスチャンだった。私が第二次世界戦争の激しくなってきた昭和十九年に、青山学院の学院教会で洗礼を受けた時も、最初は、「スパイと間違われられるから今はやめておいたら」と言った母が、押し切って受洗したことを報告すると、「いつ死んでも安心だね」と言ってくれた。私が「死んでも死なない命がほしいから受洗したい」と言ったことを受け止めていてくれた母だった。
私が四月イースターに受洗して二ヵ月後、私の家族は栃木県に疎開した。私は休学届を出し、妹は現地の高校に入学した。そして私は兄の働いているところへ徴用のがれに働きに行っていた。ワクチン製造所で機密と危険いっぱいの恐ろしいところだった。
或る日、ブヨに足を数箇所刺された私は、四十度の熱が急に出て、全身ふるえが来た。医者は召集されてしまっていて、近くには一人も居なかった。兄が研究所から馬に注射する薬を持ってきて私に注射した。いくら獣医とはいえ本当はしてはいけないことだった。

私は熱にうなされ注射したこともよくわからなかったが、意識がうすれてゆく中で、母が泣き声をはりあげて「一枝、一枝」と呼ぶ声をうっすら記憶している。そのまま私は昏睡してしまったと後で聞いた。兄は母に激怒されたと言う。丸一日以上たって意識を取り戻した私は、熱が下がり、食欲も出て、四、五日で回復した。母は今度は、兄に「あんたのお蔭で一枝は命びろいした」と礼を言っていた。私は不思議なほど冷静だった。そして「ああ、神様に生かされてる!」と大きな体験を真底味わったのも、この時からである。

以来、試練は数え切れないが、生かされている喜びを失うことはなかった。
悩みが大きければ大きいほど、涙で心がふさがれるような折でも、主は一筋の光を必ず与えて導いてくださった。主にハレルヤ!!!

万象を指揮するもの               鈴木喩香子
 
昨年五月末、ある集会の中にブックストアーがあって、二冊の本を手に取り、買い求めました。関西で牧師をされている堀越鴨治先生の書かれた「大自然の不思議発見」と、「人体の不思議発見」という大人の絵本のような本でした。この本は、宇宙、天体のことから始まって、自然界の全ての物が、不思議に満ちている神の創造物であること。そして人間の身体の仕組み、目が見える仕組み、耳が聞こえる仕組み、そして血管、受精、赤ちゃんが生まれるまでのこと等、神秘に満ちた人間の身体の構造を、わかりやすく絵をもって説明したものでした。

これは、私がずーっと思っていたこと、考えていたことと、ピッタリ同じでした。また特に人間の身体のことについては、あまりに漠然とした知識しかなく、無知であったことを知らされました。また深く知ろうとしなかったということ。目が見えるということ、耳が聞こえるということ、これ一つ取ってみても、このことが可能になるために、実に神秘的と言える精巧にして微妙な仕組みが作られている、ということを…。
私が、現在健康に生きているという事の背後に、なんと、何千何万という精巧な人体の中の機械を滞りなく、動かしていただいていることだろうか。それを創って下さったのも、動かして下さっているのも、創造者なる父なる神様…聖書に語っておられる神様なのである。私達はそれをあまり感じることなく、また、感謝をすることもなく過ごしている。

心臓は、私が寝ている時も休まずに動いて身体中に血液を送ってくれている。そして私達は、食べること、飲むこと、それしかしていないのに、胃、腸は、働いてちゃんと消化してくれて、必要なエネルギー、栄養素を吸収して、不要な物は出す、という作業を立派に行ってくれている。この精密なる自動機械、一体誰が動かしてくれているのだろうか?
不思議に思う。
私を創って下さったお方がおられるのだ、ということ、本当の親、というものを、私達は持っているのだ。と知ること、思うこと、それ以上にうれしいことはなく、心が安らぐことはない、と思っている。

旧約聖書のイザヤ書四十五章に、このように書かれている。『日の昇るところから日の沈むところまで、人々は知るようになる。わたしのほかはむなしいものだ、と。大地を造り、その上に人間を創造したのはわたし。自分の手で天を広げ、その万象を指揮するもの。
神である方、天を創造し、地を形づくり、造り上げて、固く据えられた方、混沌として創造されたのではなく、人の住む所として形づくられた方。主はこう言われる。わたしが主。ほかにはいない』
まもなく春がやってくる。美しい春も、お花も創って下さったのは主。そしてお花は、私達人間が忘れていること…創って下さった方に感謝し、讃美して咲いているのです。

田奈の森                  柴田 知子

酒井智恵子さんと初めて出会ったのは一九九二年七月の末、熱海で開かれたクリスチャン・ペンクラブの夏季学校であった。特にその時に話をした記憶はなく、私は初めての参加であった。その後、入会して月一回の例会に出席するようになった。
ある時の例会で、私は酒井さんと席が隣り合わせになった。それはたまたまのことであったが、私に自分で出版した本「ヨルダン川よりアンギデス川のほとりへ、私の聖地旅行記」をプレゼントしてくれた。

五年後の一九九七年、ペンクラブの夏期学校でも再会して、本を出版していたことを知った。題名は「田奈の森、学徒勤労動員の記」、近代文芸社からである。一冊目が印刷所に頼んでの自費出版だったが、今度は出版社からである。美しい本に出来上がっていると思った。食事の時、酒井さんがスピーチで、
「自分がかって太平洋戦争中、学徒勤労動員した工場跡地(JR横浜線長津田駅から北へ約四キロ奥まった所に広がる多摩丘陵の山中)が、戦後しばらくたち、子供の国になった。牧場や湖やプールもある遊園地になったそこに記念碑を建てた。ここはかって弾丸を作っていた田奈部隊があったところ。二度と戦争が起こることがないため同級生達と一緒に記念碑を建てた」と言った。私はそれを聞いて、「今、教会の日曜学校を担当しているが、子供達を連れて子供の国に行き、記念碑を見たい」とスピーチをした。

その言葉にとても喜んで、「あなたと日曜学校の子供達に私の本を贈りたい」と言って下さった。その後手紙がきた。「今私の手許に本はないが、出版元にあるので書店を通して注文して欲しい」と五千円札も同封されていた。私は恐縮したが、出版した本に対する深い愛情を知り、ただ驚くばかりであった。
学徒勤労動員をした時、酒井さんは十四歳の女学生であった。住んでいた横浜にも空襲があり、田奈部隊では弾丸を作っていた。小さな天秤で火薬を量り、それをポケットに入れて針で縫って閉じる。女学生の仕事だった。「火薬を針でつっつかないように、発火するぞ」と言われる中で、その仕事をした。まさに生と死のはざまであった。

生きのびて五十代の時キリスト者となり、六十五歳で学徒勤労動員記を書いた。が、その時すでにガンに冒されていて、生と死を意識する中で書き上げたのだった。本は多くの人に読まれ、二年間で三刷にもなっていた。
夏期学校が終わった年の暮れに私は酒井さんの家に電話をかけた。
「妻は天国に凱旋しました」
ご主人が大きいはっきりした声で伝えた。
それから月日が経ち、二〇〇三年に私は同じ近代出版社より本を出版することができた。その道筋を酒井さんが導いてくれたと思っている。

死と隣り合わせになって          土筆文香(島田裕子)

二〇〇三年十二月にわたしは乳がんの手術を受けました。初期だったので温存手術ですみ、退院後、放射線を当てに通院しました。
一年でいちばん寒い時期でした。放射線を当てれば転移の心配もなくなるのだと思って毎日必死に自転車をこいで病院に通いました。
通っている間は緊張していたためか元気でした。ところが二五回の照射が終わると、急にがっくりとしてしまいました。放射線を当てている間は再発転移の可能性はない。でも、今後は大丈夫なのだろうか。抗ガン剤は飲んでいるけれど、効くのだろうか…。
乳癌が肝臓に転移して亡くなった人の話を聞き、不安でたまらなくなってきました。

わたしが死んだら、子供たちは…。主人は…。年老いた両親は…。いろいろ考えると落ち込む一方で、夜も眠れなくなり、情緒不安定になってしまいました。
受難週の礼拝で三度イエスさまを裏切ったペテロの話を聞いて、自分は三度どころか数え切れないほどイエスさまを裏切っているなあと思いました。
我が家の家庭集会に八年間集い、求道している姉妹のために何年も祈り続けてきました。彼女が救われるならこの命が削られてもかまいませんと祈りました。でも、現実に命が削られそうになってあせりました。
「神様、ちょっと待って下さい。まだ死にたくありません。せめて娘が成人するまで、いや娘が結婚するまで、いや娘が子供を産むまで…。あと十年、いや、あと二十年生かして下さい」

気がつくとそう祈っていました。心の中には彼女の存在はなくなっています。友のために命を捨てることなど、とうていできません。死と隣り合わせになって、友のためだけでなく、主人や子供のためにも死ねない、愛に欠けた自分の姿を発見しました。
そのとき、「いのちが一番大切だと思っていたころ、生きるのが苦しかった。いのちより大切なものがあると知った日、生きているのが嬉しかった」という星野富弘さんの詩を思い出しました。
いのちよりも大切なものというのは、イエス・キリストへの信仰だと思ったとき、イエスさまのしてくださったことの大きさに気づき心が震えました。
人のために命を捧げることのできないわたしですが、イエスさまはこんなわたしのために命を捨てて下さいました。その大きな愛に迫られて、自分がまだ神様に委ねきってないことに気づきました。わたしを愛して下さる神様は、わたしに最善をして下さる。だから、すべて委ねようと思い、「神様、いっさいをあなたに委ねます」

そう祈ったとき、平安が訪れ、夜もよく眠れるようになりました。
これからは、一日一日生かされている日々を大切にして、与えられている時間を無駄にしないように使っていきたいです。

この命をありがとう             島本 耀子
 
五歳だった長男が交通事故で運び込まれた田中外科は、脳外科専門の個人病院だった。病室には三台のベッド。息子は真ん中のベッドに寝かされたが、両脇は一人通れるだけの隙間しかない。しかし、息子のために急に退院してベッドを空けてくれた方がいたのだから文句は言えない。入院施設は不十分だが、医師は信頼できる優しい人だった。
左側のベッドの青年は二十七歳。彼も息子と同じような事故に遭い、一か月間意識を失っていたそうだ。その頃はかなり回復され、熱心に聖書を読んでいた。
右側の二十六歳の青年は、既に四ヶ月間も意識を失ったままだという。彼は大きな目を見開き、焦点の定まらない瞳を空に向けていた。医師や看護婦が来る度に、「モトさん」と、声をかけるのだが、全く反応がなかった。

二人とも喉に、呼吸困難に陥ったとき気管切開をした傷跡があった。
息子は事故に遭ってから十二、三時間経ったころ、やっと意識を取り戻した。しかし、 数日間は、容態急変に備えて目が離せなかった。私は、夫や派出看護婦と交替しながら徹夜で見守っていた。
静かな真夜中、モトさんが大きな目を開けているのに気付いた。薄暗い病室の中で目覚めているのは私とモトさんだけである。〈この人は生きている!〉と、私は勇気付けられた。時は十二月の半ばだった。急に冷え込んだある日、年取った彼のお父さんが暖かそうな掛け布団を背負って千葉県からやって来た。「意識が戻ったら田舎に連れて帰りたい」と、父親は呟いた。基(モト)さんは可愛い末っ子だったのだ。回復の見込みのない植物人間でも、多くの家族は最後まで希望を失わない。

モトさんは、鼻から差し込まれたチューブの交換が上手く行かなかったとき、苦しそうなうめき声を上げた。肉体的な快、不快は感じ取っていたようだ。身体は動かないが、周囲の話はすべて分かっていて、それに応えることが出来なかっただけなのかもしれない。モトさんは、一人の人間として確かに生きていたのだ。彼には生きるべき務めがあって、生かされていたとしか私には思えない。
私の息子は、東京警察病院で足の植皮手術を受けた。田中外科へ全快の挨拶に行った日、モトさんが父親と一緒に無言の帰宅をしたのを知った。聖書を読んでいた青年は、リハビリを続けながら職場に復帰したという。季節はもう夏になっていた。

あれから間もなく四十年になる。見る度に私の心を疼かせた足の傷跡は、回りの皮膚と同化して、殆ど目立たなくなっている。
息子は覚えているだろうか。意識が完全に回復した頃、見舞いの包み紙にぶどうの葉が描かれていた。私は色鉛筆で緑色の濃淡に塗り分けて見せた。息子は、「ほんとにきれいだねぇ」と、感に堪えないように言った。あれは、蘇生した彼の喜びの声だったのだ。

平和                     田中 節子

長い長い冷たく寒い冬が去って、大自然にいのちが躍動する暖かい春を迎えました。牛川遊歩公園の、空に向って伸びているけやきの細い枝が芽吹き、桜の蕾が少しずつ膨らみます。
幅約二十メートル、長さ一キロメートルのこの公園は、一番端に桜並木があり、両側に楠の並木道―遊歩道―があります。中側にけやきがあり、所々に子供たちのための遊具があります。地下水を汲み揚げた飲料水にもなる綺麗な水の流れる水遊び場も、新しくできました。ここでは、歩いたりジョギングしたりする人々や、犬の散歩をさせる人が絶えません。親子連れもいます。近くの中学生の春の写生大会も恒例になっているようです。

私は毎朝、近くに住む妹のうちの「ラッキー」という名の小型犬(マルチーズ)を散歩させに行きます。桜の花が咲き始めると、花がほのかに甘い香りを放ちます。歩いている人は、出会う人々にも、ついにこやかに挨拶が出ます。
妹夫婦は、娘を中心にして、デイサービスセンター「けやき」を経営しています。
桜の花が満開の日に、この姪が三五〇〇グラムの元気な男の子を出産しました。この子に会いたくて、私がデイサービスセンター「けやき」に出掛けていくと、この子は大抵眠っていて、時々微笑みます。丸顔の可愛い赤ちゃんです。平和です。全く無力の筈の赤ん坊なのに、日の出にも似た命の恵みの力を授かっています。私はこの子から喜びと力を貰いました。あと半年ぐらい経てば、お年寄りの方々と接しても良さそうです。デイサービスセンター「けやき」のご利用者の方々は、人生の終わりの幕が間もなく静かに下りようとしている寂しい方々です。この子は、お年寄りの方々に力を与えてくれるでしょう。

名前は「祐弥」と付けられました。辞書で調べてみると「祐」とは、おかげ、神仏の救い。「弥」は、いよいよ、益々、とあります。
妹家族の祝福と救いのため、日々祈る私には感謝あるのみです。
楠は春が来ると、どんどん落葉して柔らかく美しい黄緑色に衣がえをします。桜の花びらと楠の葉が、風に吹かれて降り注ぐ中を、犬を連れて散歩します。けやきも新芽が若葉に、そして青々と葉を茂らせます。ラッキーは散歩が大好きです。子供たちは犬が好きです。

神様の豊かな恵みをいっぱい受けて、美しい新緑の中で身も心も養われます。
私もこのけやきの樹のように、天に向って引き揚げていただきたいと願います。
     讃美   聖歌四八六番一節
   きたれ友よ、共にイエスの  みくらのまわりを、楽しき声もて
   うたいめぐらん、めぐりうたわん  うたい進まん、あまつやを指して
      いざうたい進まん、シオンの都へ

聖霊による一致             中田 てる子
 
五月二十一日~二十三日、今住んでいるセットンの家から私ひとり朝祷会全国大会に出かけた。会場は福岡の中心街、大名町のカトリック教会(カテドラル センター)。
全国から二百五十名の人達が集まり、ステンドグラスで受胎告知からゴルゴタの処刑迄が鮮やかに描かれている会堂で、パイプオルガンの奏楽での讃美(女学生時代パイプオルガンでの讃美をしていた私の心はその頃にタイムスリップしていた)を捧げた。

土地柄もありカトリックの先生のお話が続いたが、聖書は新共同訳を用いられた。大会聖句は『平和のきずなで結ばれて、霊による一致をはぐくむように努めなさい』エフェソ四章二節である。
講師はカトリックの司祭、長崎純心大学学長、救世軍小隊長、黙想の家院長(神父)等々と続いた。愛餐会は地元のゴスペル歌手の本田路津子姉他が讃美された。
二泊三日、思い返せば大変な強行軍であった。帰苑したのが日曜夜十一時少々前であった。主催者の方々には頭が下がる思いであった。

数年前までは、山崎宗太郎兄(朝祷会の発起人とか?)が全国津々浦々に出席されていたと聞く。山崎兄は、セットンの家、朝祷会二百回記念日に召天された。今も天国から見守っていて下さると思う。
福岡にはキリシタン大名黒田如水の築いた城もあり、ザビエル、殉教の二十六聖人が歩いた街道もある。
土曜日午後バスツアーで長崎に行った。大浦天主堂、浦上天主堂、そして谷の底から白い尖塔をかいまみることの出来る出津の教会(フランス貴族出身の、ド・ロ神父がキリシタン住民のために私財をなげうって尽くされた)や遠藤周作文学館等を見学した。

長崎は起伏に富んだ所。ただ一人杖をついている私のために、鉄平石のデコボコの石だたみを車椅子で見学させてくださった若い添乗員さんに感謝している。
これも生かされているからの尊い経験。時々この旅のように苑をとびだして行く私を見て羨ましがっている人がいる。これからも主の召命に従って、多くの恵みを受くべくあちこちに出かけて行きたいと思っている。
バスツアーは、日曜午後四時頃に終わり、福岡空港に横づけされ、南に北にと約半数の人達が散って行かれた。残りは博多駅に、私もその一人。博多駅で「のぞみ」に乗った。
別れぎわに私の口から、「お名残惜しかばってん、お別れしまっしゅたい」と九州弁がとび出し、世話をしてくださったカトリック教会の方や運転手さん、ガイドさん、そして添乗員さん等が握手をして下さった。
 忘れがたい思い出となった事は言うもでもない。

死の壁より生の壁へ              長原 武夫

人生の最終回答は死ぬことだ。
「死の壁」の作者は書く、誰もが通る道を目をそむける「死」から逃げず、怖れず、考えたいと。旧約聖書から引用しているので聖書を開く。コヘレトの言葉の七章二節から。
命あるものよ、心せよ。

葬式は面白い、主役の個性が見える。現代人にとって死は実在でなくなった。死が本気じゃなくなった。解剖一筋のドクターの書「死の壁」は第八章まで続く。そして、天のルールと地のルール、つまりタテマエとホンネは違うと書く。
又「昨日の安楽死者一名」と片付け方は出来ないと心を見せている。
人生とは「父の死より周囲の死を乗り越えてきた者が生き延びること」と書く。
ドクターとしての養老孟司は「今日という日は明日にはなくなるのですから、人生のあらゆる行為は取り返しがつかない。そのことを死くらい歴然と示しているものはない」と。

キリスト者として「死の壁」を読み終えて「生の壁」の実在を進めてみる。
最後の自由といわれる安楽死を身近に体験した苦しみを思い浮かべてみる。
タテマエで人を殺すなと言うが、ホンネの現場をみた。苦しみより安らかに死ぬ方法をとった弟の安楽死を新聞社にFAXを届ける。地方病院の実態と家族の心境、ドクターの対応を綴っている。
不治の病というC型肝炎、肝臓ガンの末期治療は絶無である。病院の中でドクターは一体化されたシステムをルール通り進めていく。強度のモルヒネを時に打ち続けていく。一瞬わずか意識がもどる一声を発する、けれど死は訪れる。

弟の娘はナースとして付き添っていて全ての器具は自由に解放されている。ドクターは手の脈をとり臨終の一言を告げていく。
家族の願い安楽死だと解して天のルールより地のルールを優先している。
丁重なる新聞社よりFAXの礼状がとどいた。「貴重な体験報告ありがとう」と。
「死の壁」はある意味で神様っていいな、結局神の思し召しだから、人間の力ではどうにもならないことだから、仕方ないと考えるのに役立つからと書く。

天のルールは無視されて地のルールによって死という作業をする姿が見えかくれする。
死から生にとキリストの福音は伝えているので生かされている私はとまどう。
人生の最終回答は「生の壁」であってほしい。神は仕方ないと語っておられるのだろうか、コヘルトの言葉は一伝道者の人生論としてのみとらえてはいけない。
「命あるものよ、心せよ」
そのルールの中にいるキリスト者として、今こそ心して生かされている私の発見に努めたい。「死の壁」により「生の壁」を求めて近づき黙して祈る。

シャウト                   西山純子
 
その秋の暮れは特に早かった。
十月の末近く、家から徒歩でも十五分位で行けた国立病院の一室で、母は思いがけなく亡くなった。
遺族のだれもが、肉親の急逝を必然とは思えず、理不尽な思いがけないこととして捕らえるのではあろうが、今でも釈然としない思いが宿るのはなぜなのだろうか。

神のご計画の中ではあったが、私の体も心もいっぱいになって「大切!」と抱きしめたい思いに駆られる母は、慌ただしくこの世から去っていった。三十年余も前のことだ。
元来、のほほんと育っていた私は高校生時代に洗礼を受けていたのにもかかわらず、母の死を考えてみたこともなかった。「お母さん!」と呼べば、いつも「はあい!」と応えてくれる母しか考えられなかった。
「ご臨終です」と、何故かタバコの臭いが気になった医師が、そう告げた時私の頭は立錐の余地もなく、乳白色の塊が詰まってしまって機能しなくなっていた。

祈ることだけができた。「神さま、母をお助け下さい。母を死なせないで、私から母を奪わないで下さい。神さま、お願いです。お願いです。お願いします…」私はただ、ただ繰り返し、くりかえし同じ言葉を声にならない声で発していた。
やがて、私はその祈りの声の中に何か別の声が重なっているのに気づいた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」
「主よ、母をお助けください。でも御心に委ねます」「神さま助けてください! けれど、御心ならば、そのようにして下さい!」

いつの間にか、私は十字架の上の主イエス・キリストを仰いでいた。頭の中は相変わらず乳白色に覆われていたのだが、叫びつづけた声にならない声は、静かにしずかに湿り気を帯びた空気の中で、柔らかささえ漂っていた。
往生際が悪いというのであろうか。私は夢の中に出てくる母に、今も言う。「お母さん、気をつけてね。帰りが遅いと心配しちゃうから」
外出着姿の母は、「可笑しいわ」というような様子で、ウン、ウンと肯くようにして、何処かへ出かけていく。

少しずつ、私も夢の中の母に近い年齢に近づいていく。
良き信仰の師を与えられ、御言葉に聞き従い、信仰の友にも恵まれて、奉仕のお交わりもいただいている。
死が神の愛の恵みであると、確信もいただいている。十字架の上から私の声に合わせて絶叫して下さり、私の母の臨終を共にいて下さった方に、その後どんな時にも捉えていていただいている私だ。 

いたずら結石金平糖            長谷川 和子

「えっ、何か言いましたか」突然麻酔マスクがはずされた。
「う、た…を唄って…いるん…です」と答えたように思う。体が宙に浮いている。「ここはどこ雲の上?」硬直した体は丸太を転がすように横向きから仰向けにさせられた。
(手術が終わったのかな…)ストレッチャーが廊下を通っている。寝かされているのは私のようだ。「ほら、君を苦しめた石だよ」小ビンに入った石を振って見せる。(ギザギザの石、金平糖みたい)これでは水を飲み、階段と縄とびで運動しても一ミリとて動かない訳だ。一度痛みに見舞われると七転八倒、我慢強いのにも限度がある。「見ていられない」と同室の者がナースコールを押す。モルヒネを打ったとて痛みが和らぐことはない。幼い子供たちが側にいても、声をかけることが出来ない。だが痛みだけはしっかり感じられる。

検査を重ねた末尿管結石だと判明した時は三週間が経過していた。研修医の計らいで更に日本医科大に移され、検査すること一週間。
いざ手術の日が決まると痛みから解放される喜びよりも、手術への恐怖心から不眠と「逃げ出したい」衝動にかられた。祈っても平安は与えられず、町の美容院に出かけたのは心の動揺の表れだったのかもしれない。
「ピンセットでつまんでもすぐにはとれなかったよ、ところでさっき唄っていた歌は何の歌?」「賛美歌です」「えっ、賛美歌? そうか…」若い医師たちが私の顔を覗き込んだ。「しかし手術中に歌を唄った人っていないよなあ」「うん沢山手術をしているが初めてだよ」麻酔が完全にとれていなかったのか、いつしか眠りに入ってしまった。

「結石が出来やすい体質」と医師は結論づけた。防ぐ方法は「早期発見、半年に一回検査が必要」。ところがこの検査で「死」という言葉が心によぎるとは、普通のX線では腎臓は写らないので、造影剤を注入するのだが必ず呼吸困難となる。顔から首にかけて玉子大の斑点が腫れたように浮き上がり、別人になる。覚悟を要する検査となった。「検査をする意味は?」自問自答して出した結論は(やめよう、石が出来たらその時考えていこう)。あれから二十五年が経つ。

内臓を三ヶ所摘出したのは十五年前、「あと二ヶ月遅かったら骨盤の中はチョコレート腫瘍になる寸前だった」とか。その後三件の交通事故に出会ったが、神さまは天国への道をとざし、まだ私にはこの世になすべきことがあると判断されたに違いない。病に臥す度に多くの愛の手に助けられて来た。
『あなたがたは神の宮であって…』 この身を大切にし、老人ホームでは良き相談員として、また証し文章によって「主を賛美」していきたいと思っている。ペンを休めることなく書き続けていきたい。

神様の愛と憐み            長谷川 乃武男

私は小学校入学の直前大病(赤痢)に罹り、入学が遅れてしまいました。これが原因かどうかは定かではありませんが、小三までは「ひ弱で医者と縁が切れない生活」をしていました。ところが、どう言う訳か、小学四年ころから健康となり、徴兵検査では見事「第一乙種合格(近眼でなければ甲種合格)」に。
空襲が日増しに激しくなり、敗色濃厚となっているとき、赤紙(徴兵令状)が私の元へ届きました。時は昭和二十年二月二十六日。名誉? の入営。入営先の近衛連隊が空襲で破壊され入営不能のため、山梨の「六三部隊」へ間借り入営しました。一ヶ月後には千葉の外房大里町に移動。小高き丘の中腹に丸太で兵舎を建てて住み、海岸の砂浜で「蛸壺堀りと井戸掘り(演習どころではない)」という生活が始まりました。

毎晩のように米軍の空襲! 爆撃機B29から撒き散らされる焼夷弾で家々は炎上するし、戦闘機P57は民家すれすれに飛来し、機関銃を発射する始末。弾から身を隠すのに汲々。この頃は輸送船も無く、飛行機での応戦もままならず、兵舎の食料も不足気味で生きていることさえ覚束ない有様でした。
無謀な戦争も八月十五日ついに「敗戦」。この日から人々は生きるために、食べものを求めてヤミ市へ。まるで泥沼から這い上がるような血みどろの毎日が始まりました。
いま、発展途上国の人たちが食物や住むところを求めている様子をテレビで観る度に、当時のことを思い出し胸も心も痛みます。敗戦から六十年経った現在の日本の繁栄は宣教師を送ってくれたアメリカの援助と、日本人自身が互いに助け合い、励ましあって努力した結果です。

幸い神様の愛と憐みによって三十八年前真の救い主イエス様に出会い、神の家族に加えて頂きました。
『神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。すべてのことを、つぶやかず、疑わずにおこないなさい。それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷の無い神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです』(ピリピ二・13~16)

いのちは恩寵のうちに           藤田 和範

今、静かに過ぎ去った時のことを顧みている。齢八十余りを数える間に三度も生と死のはざまをさ迷った己が身のことを…。
一度目は四歳の時だった。脳脊髄膜炎に罹り、担当医から死の宣告を受けたのだった。私は後になってその時のことを母に教えてもらった。
二度目は太平洋戦争の時だった。出征をしてすぐ肺結核に冒され、除隊して祖父の家で療養していた。が、医者からも見放されてしまった。そして伝道師である叔母が重篤の枕辺で、執り成しの祈りを捧げてくれたのだった。
三度目は一九九四年の秋だった。大宮教会九十年史編纂に拘わる用件を成し遂げた瞬間、急に気分が悪くなり、翌朝七里病院に緊急入院をした。心筋梗塞で、それから三日間意識がなく、私は死の淵をさまよっていた。もしものときに備えて教会では葬儀のことを話していたという。ちょうどその時に、私は蘇生したのだった。

このようにして、私には三度も「生と死のはざま」での苦しい戦いがあった。一度目は母の信仰が主なる神のみ心に叶い、私を支えてくれ、二度目は伝道師の叔母の信仰が神のみ心に受け入れられ、主がみ手をさしのべて下さったのだった。そのようにして生かされてきた私は、肺結核の療養中国立中野療養所で胸部成型手術を受け、その直後に病床で神との大いなる出会いを経験したのだった。七転八倒の苦しみに堪えていた私は一瞬のまどろみの中で、「和範、目を覚ましなさい」との主の呼び声を聞いた。それはまさに大いなる恵みであった。

病を癒された私はその二年後、一九五二年のペンテコステの日に日基柏木教会の植村環牧師によって受洗の恵みをいただくことができた。主にあって生かされている自分を見つめていると喜びが溢れ感謝の念でいっぱいになる。
柏木教会の青年会の一員として、主への奉仕に参加できたことも私にとっては大きな喜びであった。その喜びの中で私は結婚をし、後に大宮市に転居して同教団の大宮教会に転会をした。
新しい地にあっても神の召しにあずかり、奉仕の場が与えられたことは何よりも大きな恵みであった。多くの兄弟姉妹との交わりを通して日々生ける主と共に歩めるということは何という恵みであろう。

『いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい』(一テサロニケ五・16~18)
いつも主にあって喜ぶことのできる私。絶えず祈ることによって主の励ましをいただいている私。事毎に主に感謝する思いが私を励まして心の中に充満し、主のみ心によって生かされている喜びが私の日々を支えていてくれる。

神に生かされてこそ人は生きる           藤本優子
                         
実家へ母の介護に行った帰り道、高校生のころにいたお手伝いのおばさんと出会った。八十歳前後になっておられたその人は、母の容態がかなり悪いことを知り、はるか昔に母から借りていた八万円を返しに来られたのだ。
「返してもらえなくてもいいの。困っておられるのだから、こちらに余裕があるのなら差し上げたと思って渡してあげなさい」

お金を無心に来る人にも快く用立ててやっていた母の姿が甦った。
忙しい時も時間を見つけては困っている人を訪ね、愛の労を惜しまなかった母が、神経難病に侵された。末期には五体の一切が動かず横たわっているだけの肉体となった。思考力と感情は侵されなかったものの、唯一の意志伝達法がかろうじて動く瞬きだけであった。
これ以上の残酷な生かされ方が他にあるだろうか。
闘病中期の頃、困難な口調で言った。
「優ちゃん、Hさんはわがままやけれど、赦したげてね」

母は、自分や家族に対して筆舌に尽くしがたいことをし続けている人のことを言ったのである。クリスチャンでも何人の人があの非道さに耐えられようか。しかも、たった一つのみことばも握らせてもらっていない、キリストを知らぬ母が、赦してやれと言うのだ。
「神様、なぜこの母に難病なのですか」
私は慟哭苦悩した。最後の一年三か月の入院期間中に、神様は教会の信仰篤きご夫妻を母に遣わしてくださった。師は短くメッセージを語り、夫人は母の手を握って祈られた。
「神様、今までの長い年月、お母さんは愛を尽くし、誠実を尽くして近隣の弱き者、貧しい者のために尽くしてこられました。しかし、どんなに立派な人でも罪を持ったままでは天国へは行けません。どうぞ、お母さんの罪を赦し…」
さらに、「お母さん、いつも『イエスさま』って呼んでくださいね。声が出なくても心の中で『イエスさま、イエスさま』って呼んでくださいね。わかったら目を閉じてくださいますか」と言われた。その時、母はしっかり瞬きをした。神は母に、死んでも死なない焼いても焼けない永遠の命を賜ったのだ。

今になって、そのことがどんなに大きなことであったかを思い知らされ、号泣感謝するのみである。また、そこに至るまでの長い年月、苦しみ続けていた私に神様がどんな想いで寄り添い、見守ってくださっていたかを想う。
「神を知る前は人生の夜明け前」であり、神様と出会い、神に生かされてこそ人は生きるのである。私もまた祈りとみことばに生かされる者となった。
『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きるものである。』(マタイ四・4)

恵みを覚えて                  堀川きみ子

証しの題材と言えば、大きな試練や生死の境を通過した場合が多い。平凡な者が平凡な日常生活を通して、証しを見い出すことは、なかなか難しい。
私に特別大きな試練が与えられなかったことは、逆に見れば大きな恵みであった。
「あなたは、それだけ神さまから守られてきたということで、それが大変なことなのよ」と、ある人から言われた。真にその通り。

しかし、私自身は大きな試練に遭わなかったが、振り返れば、主人や親族には大きな出来事があった。
今から十年前の地下鉄サリン事件の日、主人は出勤途中の数分前にあの駅を通過していた。タッチの差であの列車に乗っていなかったのである。
もう一つは、やはり会社への途中でのこと。主人はビルの前の通りを歩いていた。数分後にビルの上からの落下物で下を歩いていた人が大ケガをしたということがあった。
 
また主人の兄は身代金誘拐事件に巻き込まれたが無事に解放された。
私の兄は車の事故で正面衝突し、レスキュー車で引き出され命を助けられた。その後に心臓の大手術を受けて助かった経験もある。
私の周囲の者は命の危険な目に会っているのに私自身は守られてきたのである。何という驚き、そしてまた感謝なことであろうか。
 
『神、その道は完全主のみことばは純粋主は、彼に身を避ける者の盾』(詩一八・30)
神さまの見えない盾が、今日まで私を取り囲んでいてくださった。私に耐えきれない程の痛みは加えられなかった。寒さも貧しさからも守られ必要なものは与えられた。
しかし、私の心の中に真の自由と解放感が得られていなかった。神さまと自分との関係の中で「心のいやし」が不充分だったことを知った。今回二回目の{十二ステップの学び}で自分のたな卸しをするという作業があった。過去の自分を振り返り見つめること。現在の自分に至るまでの人生をどんな生き方をしてきたか。私の人生はどんな意味があったのか。
 
私の両親と家族。結婚により霞ヶ関の地へ。二人の子供が与えられ、教会に導かれ、受洗に至った。三人の牧師先生との出会い。新会堂の建設。三十二年の信仰生活で家族の救いを経験した。そして今は、クリスチャン・ペンクラブに導かれ証しや詩歌の学びをさせていただいている。
これらの全てが主のご計画のうちにあったということがわかってきた。私の至らない信仰生活のかたわらにいつも主が共にいてくださった。
 『全てのことが神から発し、神によって成り、神に至るからです』
(ロマ十一・36)

揺れ動く地に立ちて             前山英子

一九九五年一月十七日午前五時四六分、その時私は台所の床の上に座り、朝の祈りを捧げていた。
「グラグラッ」と地を揺るがすような地震が起きた時、「あぶない!」と叫び、思わず右手を伸ばしてガスストーブを切っていた。十秒、二十秒、一向に止まない地震に恐れを感じ食卓の下に潜り込む。どれくらいの時が経ったであろうか、大きな揺れがひとまず止んだので、食卓の下から這い出してきた。停電で真っ暗がりだが、床の上は足の踏み場もないほど物が落ちているのがわかる。とりあえず懐中電灯を探しに手探りで二階へ上がる。畳にもベッドにも物がうずたかく積もっている。気が動転する。
 
「リ、リ、リーン」。けたたましい電話のベルに我に返り、受話器を取った。広島の妹からである。「テレビで神戸に大きな地震があったと言うとるけど大丈夫…。火事も起っとるし、電車も停まっとる言うとるけん…」
私はその時までお弁当を持って出勤するつもりでいたが、妹の話でそれどころではないことが分かった。水道もガスも止まっている。ふだんなら通勤通学の人々が往来する表通りはしんと静まり、時が全く止まってしまったいるのだ。うすら寒い冬空が重く垂れていた。それからも何度か大きな余震が起った。私の住居は筑後四十年の木造建築、揺れるたびに壊れやしないかと不安になる。どこか安全な場所へ避難すべきでは、それがどこにあるか分からないがーー。
 
どうしよう、どうしよう。苛立ちと不安が交錯していた時である。
「わが居るべき所になんじらも居れ」と神さまのみ声が聞こえてきたのは。
「神さまの居られる所ってどこ?」走馬燈のように思いを巡らす。やがてその想いは一点に止まった。「ここ、ここだ」。私が毎日賛美を捧げ祈りを捧げているこの家にこそ神さまは居られる。そう決心した時、危険はあったがこの老朽家屋に留まる決心をした。
昼からやかんを持って水を探しに行った。
 
「お姉さん、うちへおいで。ポンプで水を汲み上げているから」と、近所に住む看護婦の姉妹が目聡く私を見つけて声をかけてくれた。どんなにうれしかったことか。銭湯は満員、それでも寒風の中、星の瞬きを見つめながら何時間も順番を待った。お互いにやさしい言葉をかけあって。
ボランティアの人々は温かいスープを振る舞ってくださり、親しい方々や国の内外から援助物資、義捐金、見舞金などが届けられた。私の会社は健在で給料の遅配は一度もなかった。家屋は一部破損のり災証明を受けたが、家の中で壊れた物はほとんどなく、高所から落ちた物は元へ戻せばよかった。マグニチュード七・三。死者六四三三名。全壊家屋十万棟の阪神淡路大震災の真っ直中を生きて、私はなお深く神さまの愛を知った。

遠くを見るまなざし               槙 尚子
                              
なんで何時までも生きているのだろうと紀子は思う。同じ年頃の親戚や友だちは、ほとんど天国へ行ってしまった。
紀子がキリスト教に入信したのをきっかけに、家族が次々に受洗した。キリスト教がいいものだと思っていた家族は、紀子が伝道者になろうと志している人と結婚したときは、すこしびっくりした。時は戦時中、生きることにだれもが必死だったころだ。
 
やがて夫は戦後の貧しい時期に独学で牧師の資格を取った。紀子は被災者用の薄暗いアパートで夫と子どもを支え、励ました。念願の一戸建てが与えられて伝道所の看板を掲げたのは、紀子が四十歳の時だった。
教会の奥さん、紀子は地域でそう呼ばれた。家庭を開放しての日曜礼拝。CS教師も礼拝奏楽も、信徒の訪問や教会事務など、平日は学校の教師をしている夫に代わって、紀子はなんでもした。話を聞いてほしいと人の出入りが多かった。少しぐらいの熱でも、まずは教会第一だった。若い頃あんなに体が弱かったのが嘘のようであった。
教会、聖なる空間であるが、人の集まるところである。たくさんの恵みと共に苦しみもあった。紀子はその度ごとに夫と祈り、聖書に聞いた。教会は歴史を重ねるごとに、葬儀も増えてきた。教会員を天に送ることは、紀子にとってつらいことだった。
 
紀子が「教会の奥さん」から解放されたのは、七十代であった。地味に控えめに、黙々と教会に仕えてきた日々は終わったのである。もう色物のセーターをきてもよかったし、、パーマをかけてもよかった。しかし若い頃ホーリネスで育った紀子は、慎ましく生きることしかできなかった。
夫を天に送った後、神様もう十分です、わたしも御国に連れて行ってください、これが紀子の祈りになった。「その時」は間もなく来るであろうと周囲も紀子も思った。だが神様はお急ぎにならなかった。自分より若い人の葬儀のたびに、なぜ自分ではなくあの人がと思った。しかしそれは神様がお決めになることで自分から言ってはならないことを知っていた。
 
九十を越えて人の助けを借りなければ生活できなくなると、紀子はますます御国を慕うようになった。
長い人生でよかったと思うことはと聞かれ、
「そうねえ、信仰を持ち続けてこられたことかしら」と、遠くを見るような目をして言った。
『神を愛する者、すなわち御旨によりて召されたる者の為には、凡てのこと相働きて益となるを我らは知る』(ローマ八・28)

五歳からの生と死                 三浦喜代子

あの日、入道雲は出ていただろうか。息を呑むような快晴だったと今でもよく耳にする。五歳になったばかりの私もそう記憶している。もっとも、わざわざ空を見上げて確認したとは思えないが。 
二つのことを鮮やかに覚えている。まもなく六十年になんなんとする終戦の日、一九四五年八月十五日の昼下がりのことである。
私は庭に面した南側の縁側の近くで遊んでいた。三つ違いの妹はいなかったように思う。庭は畑になっていた。戦争末期のことだから、にわか百姓になった母が必死の思いで耕したのだろう。
 
私は異様なものを見た。父であった。昼日中に父が帰ってきたのだ。あり得ないことだった。同じ社宅の数人といっしょだった。
「わあ、お父ちゃんだ!お父ちゃんだ!」
驚きのあまり私は棒立ちになって大声をあげた。よほど大きな声だったのだろう。
「えっ!」
家の中から母の声がした。絶叫だった。私よりずっと鋭く、短く。と、つぎの瞬間、大きな音がして、母が開け放した玄関から転がり出てきた。素足のままだったようにおもう。 
母は正午の『玉音放送』を聞いたにちがいない。徴用で近くの軍需工場に勤務していた父の安否に気を揉み、待ちわびていたのであろう。これは後年、私が想像したことである。戦闘機の製造会社に勤務していた父たちは戦争終結と同時に、全員、即刻帰宅を命ぜられたという。 
そこで記憶はいったん切り落とされたように途絶えている。
 
もうひとつのことがアルバムに貼られた写真のように見えてくる。
父母の姿が消えて、一人きりの私がいた。畑の隅に大きな大きな向日葵がそびえ立っていた。私の背丈の二倍はあったろう。凛と背筋を伸ばした姿は逞しく勇ましく生き生きと見えた。妙に親しみを覚えた。以後、私の戦争記念の花となった。
その夜、母は電灯を覆っていた黒い布切れをはずして
 
「今日からは堂々と電気をつけられる。こんなものは要らなくなった」と晴れ晴れした笑顔で言った。私の家族は幸いにも戦争という死の刃を免れ、戦後という新しい生を歩むようになった。生き抜くために父母が払ったであろう大きな犠牲を私はたいして知らない。
その十年後、十五歳で私はキリストにあって新生し、永遠の生を喜ぶ恵みにあずかった。
 夏の終わりに、八十六歳を全うして天に凱旋した父の墓参に出かけた。母を伴った。あの日には比ぶべくもない姫ひまわりを携えて。危機満ちる世界にキリストの平和を祈った。空は一面曇天、入道雲はなかった。

福音に生きる                三杉 富子

『しかし、自分の決められた道を走り通し、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません』(使二〇・24)
シンガポールに滞在して十年近くになる。教会は、シンガポール・クリスチャンフェロシップ(SJCF)の会員だ。超教の共同体で無牧状態が続いていた。が、二〇〇四年に日本から協力牧師が来られて教会も落ち着いて来た。
 
信仰生活は、一人ひとりが聖書を中心に御言葉を聴き祈ることによって成長する。
SJCFに重荷を感じている日本の宣教師や牧師が、シンガポールやインドネシアに研修に来られて帰国される際に、SJCFに立ち寄り、聖日説教をしてくださっている。他にも女性会や各地域の家庭集会等が多くあるというのにである。
教会には駐在員の家族や単身赴任者、それに青年や神学校に留学している人たちがおり、約八十名で礼拝を守っている。また、帰国する者なども多く入れ替わりもはげしい。

しかし、主イエス・キリストは私たちの必要に応えてすべてを整え顧みてくださっている。主への讃美と祈りに応えてくださり、協力牧師を与えてくださった。協力牧師は教会内だけでなく、外に向っての働きをもしてくださり、シンガポールYMCAを借りてのセミナーを開き、シンガポールに住んでいる日本人や、他の日本人教会にも呼びかけをして、一緒に学びや交わりの時を持てるようにしてくださった。日本語での学びの場が与えられたことは感謝なことであり、私達は協力牧師の指導の下に開かれた教会としての道を歩んでいる。教会では聖書の学びの集いが多い。新しい方が来られたり何かの記念会等があると、愛さん会やSJCFの集いをする。一品持ち寄りの交わり会は好評だ。共同体だけに一致を望んでも難しい。牧師招聘の祈りもまとまらない。しかし、祈祷会やCSの働きは盛んだ。神様のことをもっと深く知りたいという願望と福音に生きる証しをもっとしていきたいと思う。

私は重症の糖尿病だ。祖父、父、伯母から続く遺伝である。医師に、「あなたは、もう何べんも今までに死んでいる。生きているのが不思議」と忠告されてきた。が、私はいつも、「神様が守ってくださっている。教会のみんなも祈ってくださっている」と、無神論者の医師に言ってきた。 
シンガポールではよく起こる事故がある。アパートの高いビルから子どもやメードが落ちると助からない。遺族や悩みの多い日本人のためのカウンセラーがいない。協力牧師に頼んでカウンセリングの勉強をしたいと望んでいる。
 
神の恵みの福音を力強く証しするためにはまず、とりなしの祈りが必要だろう。この現代社会に、主の栄光を証ししていきたい。

よろこびのある生活               水谷 節子

母と私の二人暮らしの我が家の一日は、朝食の前に聖歌を一曲歌い聖書を読み感謝の祈りをささげることから始まる。
食事の仕度は私がして後片付けは母がする。母は今年八十九歳になるが、身体が元気なので台所の掃除、居間、風呂場の掃除、衣類の洗濯のいっさいを引き受けてくれている。
金曜日の午前中の聖書の学びと日曜日の礼拝に私の車に乗って教会へ行くのを楽しみにしている。礼拝の暗誦聖句は必ず覚えていく。復誦する母の声ははっきりしていて美しいと教会の皆さんは言ってくださり、年をとっても母のように生きたいと言って励ましてくださる。
「長生きしたおかげで色々な事を体験できたし見せてもらえた。世の中がこんなに変わるとは思わなかった。私は浦島太郎になったみたいで、今の事がわからないけれど、生きているものだねえ」と母はいきいきと言う。
 
私は舌の細胞ががんになりかけているところを見つけていただき、初期の段階で手術を受けてから一年九か月たった。現在も毎月一度病院で診察を受けているけれども、元気に毎日を過ごしている。 病院へお見舞いにきてくれた妹が言った「お姉ちゃん良かったわね。舌があるのね」の一言が忘れられない。
もしも舌が無かったらどうなるのだろう。妹はきれいなメモ帳と花柄プリントの可愛い感じのボールペンを差し入れてくれた。心配してくれていたのかもしれない。
味覚も舌にある。食べ物が美味しいと感じることの幸せに気がついた。
手術後の現在見た目には変わりのない舌だけれども、少し話がしずらい感じがする。
最初に舌にかすかな痛みを感じたのは三年前の一月の末ごろだった。私は口内炎だろうと思い、いつか治ると軽く考えていたけれど、五月になっても治らない。耳鼻咽喉科でも、口内炎だから心配いらないと言われた。半年程その病院へ通ったけれどよくならない。四軒目の病院でがんの診断を受けた。
 
その病院へ私は母の付き添いで行った。診察室の横にマウスピースのポスターが貼ってあったので、医師に鼾の相談をしたら私の舌が少し腫れているとのこと。検査を受けてがんの初期であることがわかった。この病院へ来たのは神の導きだったと感謝している。
退院後、東海神学塾の女性奉仕者コースで学ぶことにした。学びは楽しい。共に学ぶ方々との良い出会いが与えられ、瞬く間に一年が過ぎてしまった。残る一年間も無事に学びを終えたいと願っている。
 
永年、愛知県立の障害者施設「はなのき寮」でパソコンの指導をするボランティアをしている。寮生のK子さんが一年がかりで「四季」という自作の句集を作り上げた。「お世話になっている方々に差し上げるの」と顔を輝かせてうれしそうに言った。私もうれしい。

今日の日を生きる                  山下邦雄

古典は言う「棺ををおおいて事定まる」と。
霞ヶ関キリスト教会の藤飯進兄はまさに「その人」であった。兄が教会に転入されたのは一九九九年四月。すでに末期癌という大敵との痛ましい格闘が続いていた。
ある日、私は教会のソファに横たわる兄と話す機会があった。恐々の態であった。兄は
「いずれ自分の肉体は朽ちる。幾ばくかの余命と神の国を嗣ぐことの喜びを、来る日ごとに喜びたい」と静かに話された。このことばとやさしい目に、私はこれほどの人がいるのかと驚かずにはいられなかった。
 
出会いから半年ほどしたころ、あちこちを向いて自分探しに忙しい私に、兄は大きな渇をくだされた。
「イエスという人間を神として信ずることができるか」、「イエス・キリストの真髄は限りない愛である」、「愛はことばではない、実践することだ。これが信仰だ」。
私は尋常ならぬ兄の姿に圧倒され、自分を恥じた。
イエス様が教えられた「愛」の一字を心に刻みこんだ。
イエス様に従うという単純素朴な信仰に、心から喜びが湧いてきた。あの時の渇は意識の深いところで私の日常を支えている。
 
さて、昨年のNHK紅白で白組のトリは「世界に一つだけの花」であった。
 ――そうさ僕らは 世界に一つだけの花――ナンバー・ワンにならなくてもいい、もともと特別なオンリー・ワン―
初めて知った歌であるが気に入った。そして藤飯兄こそオンリー・ワンだと思った。兄には正真正銘のイエス様の弟子、自己の考えを持ち、自己の姿勢を貫く存在感があった。
また、弱い者を愛し、会った人をうなずかせ、ほっとさせる不思議なものを持っていた。
藤飯兄は死の二日前、病院長と主治医に次のメッセージをしたためた。
「地上最後の苦しみの時間をできるだけ短くしてください。期待にそえず申し訳ありませんでした。
ただいまの心境は『一粒の麦地に落ちて死なずば唯一つにて在らん』(ヨハネによる福音書十二・24)と言うところです。(二〇〇一・一・二九)
 
私はここに真に生きた人の姿を見る。生死の問題に立って兄の生はイエス・キリストの恵みの中で輝き、『瓢陰独語』を上梓した。聖書の理解と深い思考、それにもまして驚くべき精神力、忍耐、努力に私は深く頭を垂れるのみである。

 真摯なる 生きざま遺し もえつきて 貴兄(きみ)召されたり ゆふ晴れの朝 邦雄

戒め                   山本 披露武
 
死ぬかもしれないと思ったことがあるかだって、あるある、何回も。ところがね、ありがたいことにその都度特赦をいただいて…。でも、あの時だけは本当に駄目かと思った。
なになに、そしたらその時のことを詳しく話さないかだって、勘弁してよ。そんなことを話せばまたくだらないことを言ってと…。でもまあいいか、もう一回だけ。
重要な会議があってね、前の日から神戸のホテルに泊まってたんだ。そして、朝歯を磨こうとしたらコーヒーのような色をした液がどっと出てきて…。前の日にもあってね、それが三回目だった。無知だったんだよなあ。血は赤いものとばかり思っていただろう。だから、吐血に全然気がつかなかったんだ。
 
ものすごく苦しくなってね、とにかく息ができないんだ。そして、やっと息ができるようになったと思ったら、今度は心臓がドドドッと暴れだして…。哀れなもんだねえ、立っていることもできないんだから。それで、あっちにつかまりこっちにつかまりして、やっとの思いでベッドに戻り、そして受話器を。ところが、話をしようとしたらまた心臓がドドドッだ。だから、「タス…ケ…テ…」といっただけで受話器を置いてしまった。それでもすぐ、同僚が若い社員をつれてきてくれた。
「山本さん、聞こえるか? 山本さん!」というのが同僚の声。
その後ろで、「返事あらへん。もうあかんのやろか」、「あかんかもわからんなあ、可哀想に…」、「子供さんは二人? で、奥さんの年は」というのが、若い社員たちのささやき。
「あほう! 何をごちゃごちゃいうとんねん。早う救急車を!」
「ハイ。すんません」

叱られて若い社員が電話を。
「たのんます。早う来てください。息でっか、まだしてます。そやけど虫の息ですわ」でも神様は生きることを許して下さった。それを機にね、生き方を変えることに…。『重
荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい』という、マタイ十一章二十八節のみ言葉。あれだよ。それからは、難しいことは全部イエス様に助けてもらうことにしたんだ。そして、生活習慣も少しずつ変えて。そしたらほれ、この通り元気になって。
 
考えてみたら、ぼくの病気は殆ど不摂生とストレスが原因だったと思うんだ。神様にいただいた体は粗末にする。その上、人に負けるのが大嫌い。だから、いつも背伸びばかり。
あの時の吐血と苦しみは、それに対する神様の戒め。そう思ってね。
もっと早く気がついていたら、あと五,六年は会社に残れたかもしれないと思うんだ。でも、もしそうなっていたら今の生活は変わっていただろうしね。そしたら、クリスチャンペンクラブにも入れてはいただけなかった。それを考えると、やっぱりこれでよかった。そう思ってね、感謝しているんだ。