本篇

『利根川の風』 その1(三浦喜代子代表のブログ「聖書の風」から引用しました。)

荻野吟子は、弓町本郷教会で海老名弾正牧師から洗礼を受けたクリスチャン女医です。すでに伝記や小説、演劇、テレビなどで取り上げられた偉人ですが、知らない方も多数おられます。私自身確かな知識がありませんでした。ある時、俄然、吟子への思いに駆り立てられ、以後、参考図書を調べ、ゆかりの地を訪ね歩き、一冊が誕生しました。お楽しみいただけたらこの上ない幸いです。

本文に入る前に、簡単な吟子伝をまとめましたのでまずはそれをご紹介します。

★荻野吟子略史(埼玉県熊谷市妻沼町俵瀬に1851年嘉永4年に生まれる)
★荻野吟子は、明治18年、34歳で政府公認の女医第一号の栄冠を手にしました。志を立ててから13年の苦節の歳月がありました。早速本郷に「産婦人科 荻野医院」を開業し宿願を果たしました。その偉業は世に知れ渡ることになり、吟子は時の名士として一躍有名人になり、医院は朝から晩まで患者であふれ、婦人病を患う多くの女性たちを助けることができました。それこそが吟子に女医の志を与えた理由の原点でした。

★明治19年、35歳で、弓町本郷教会で老名弾正牧師から洗礼を受け、クリスチャンになります。まもなく熊本出身の同志社の学生志方之善(しかたゆきよし・新島襄から受洗)と結婚します。しかし、14歳年下の若い伝道者との結婚に賛成する人はだれ一人としていませんでした。

★医療活動とともに、女性を社会悪から救済するための婦人矯風会運動に賛同し、風俗部長になり、特に婦人病の元凶である公娼制度廃止に力を注ぎます。また、そのころ女性教育で一世を風靡する「明治女学校」の講師、校医、やがて舎監としても活躍します。

★一方、若き夫志方は、伝道熱に燃え、北海道の原野を開拓してキリスト教の理想郷を作るため、後志半島に入植します。3年後、吟子は東京でのすべての活動にピリオドを打って夫のもとに駆けつけます。ここから吟子の13年に渡る北海道での生活が始まります。1894年6月、吟子は43歳になっていました。

★開拓地は現在の今金町神丘。神丘とはインマヌエルの丘の意味。ここに多くのキリスト教徒たちと一大理想郷を築こうとしました。しかしろくな道具もなく、いわば素手で原野を切り開くのは想像を絶する至難のわざでした。気候は内地とは比較にならない極寒です。風雨、洪水、質の悪い水、害虫、栄養不足で、多くの開拓民が倒れていきます。吟子は婦人病だけでなくあらゆる病気、怪我の手当てに明け暮れる、貴重な医師でした。

★理想郷を目指したキリスト者の群れは、信仰の違いから対立するようになり、志方は嫌気がさしてグループから離脱し、国縫の山中にマンガン鉱採掘のため移住します。二人は志方の姉夫婦が遺した幼い養女トミを連れていました。しかし、そこも長くはいられず、1897年、明治30年、吟子は元の地の近くの漁村瀬棚町に「荻野医院」を開業しました。この町で、女性のために「淑徳婦人会」を立ち上げ会長として活躍、また宣教師とともに「日曜学校」を作って伝道にも熱心に励みました。

★1903年、明治36年 夫志方は中途であった学びを続けようと単身同志社に再入学します。志方40歳、吟子は53歳。渡道して約10年。吟子は養女トミと二人暮らし。一時札幌で開業しますが病のため熊谷の姉のもとで療養することもありました。1904年同志社を卒業した志方は浦河教会牧師として赴任、しかしまもなく挫折して辞任。瀬棚で単身、自給伝道をします。ところが1905年9月23日、肺炎で急死してしまいます。42歳でした。

★吟子は途方にくれますが、帰京を促す姉の忠告を知りながらも夫の眠る地に骨を埋めたいと願い、なお3年を過ごします。しかし、自分の死後は孤児になるトミの将来を憂慮し、ついに帰京を決意。1908年12月、東京墨田区、隅田川の東岸小梅町に落ち着き、再び「荻野医院」を開業し、地域の人たちの医療に係わりながら静かな生活を送ります。1913年6月23日、脳卒中のため死去。62歳でした。

★1967年、瀬棚に顕彰の碑。1968年、生誕地埼玉県妻沼に顕彰碑建設
以上 

『利根川の風』 その2
前半生 風に向かって
★離縁からのスタート(1)

ちょうど世が改まって明治が始まったころ、まだ少女とも思える小柄な痩身の女性が武蔵国幡羅郡俵瀬(はたらぐんたわらせ・現在の埼玉県熊谷市妻沼町)の実家へ急いでいた。

名は荻野吟子。後に不屈の意志で苦節の歳月を乗り越え、明治十八年、三十四歳で女医第一号に認可された女性である。十六歳の時に八里先の上川上村の豪農稲村家の長子と結婚した。が、嫁して三年、二年間は病床に苦しんだ。高熱と患部の激痛に耐えたその末に、再び稲村の家には戻るまいと心を決めて家出してきたのである。吟子の病は淋病、夫からうつされた性病であった。結婚早々に発病した。夫が不貞を働いていたことは明白だった。心も傷つき痛んでいた。

吟子は利根川の川風を体いっぱいに受けながら万感の思いをこめて歩き続けた。この道がさらに厳しい向かい風になるのは覚悟の上であった。――私は再びこの道を後戻りはしない。私の道は前にしかない――

当時離婚は本人だけでなく、家名を傷つけ計り知れない汚名を負わせる悪徳であった。自分の一生と家名のために、屈辱と涙の泥沼に沈んだ女性は数知れない。

俵瀬は利根川と福川に挟まれた低地で、荻野家は農家であったが代々苗字帯刀を許された名主であり、長屋門を持つ豪壮な屋敷を構えていた。男二人女五人の末娘として生まれた吟子は、両親や兄、姉の愛情の中で大切に育てられた純真無垢な深窓の花であった。吟子は小麦色の肌をした目鼻立ちの整った評判の美人の上に、幼い頃から利発で、何よりも学問好き、当時の女性らしからぬ一面があった。


語り始めてすぐに、生涯の最期に触れるのは順当ではないかもしれないが、吟子は六二歳で亡くなっている。波乱に満ちた生涯の晩年数年を過ごした地が墨田区向島であり、私の住居から遠くない。区の誇る偉人の終焉の地点を確かめ、そこに立ってみたかったので、まずは訪ねて行った。北十間川に架かる源森橋の北詰に、区の教育委員会による小さな掲示板が建てられていた。北十間川は江戸の時代から桜の名所として有名な隅田川と東の旧中川を結ぶ人工の堀川である。源森橋は今やスカイツリー周辺の名所となっているが、そのわりには往来する人影も車の量も少なくひっそりとしていた。吟子が住んだ頃はもっとうら寂しい場所ではなかったかと、しばらく川面を見ながら立ち尽くした。

掲示板の案内文は以下の通りである。
『荻野医院跡――日本女医第一号 荻野吟子開業の地――
所在地 墨田区向島一丁目八番

荻野吟子は、嘉永四年(1851年)三月三日に武蔵国幡羅郡俵瀬村((現在の熊谷市妻沼)の名主荻野綾三郎の五女に生まれました。幼い頃より向学心が強く、近所の寺子屋で手習いを受けた後は寺門静軒の弟子松本万年に師事して学問を身につけました。医師を志したのは一回目の結婚後のことで、自身の病気療養中に女医の必要性を痛感したのがきっかけでした。

吟子は以前夫の家に仮寓していた女性画家奥原晴湖に相談して決意を固め、東京女子師範学校(後のお茶の水女子大学)卒業後の明治十二年(1879年)、私立医学校「好寿院」に入学しました。そして、女性であることを理由に二度も試験願書を却下されながらも決して諦めず、同十八年三月、ついに医術開業試験に合格したのです。時に吟子三十五歳。早くもその年の五月には現在の文京区湯島に産婦人科医院を開業して評判を高めました。

しかし、開業まもなくキリスト教に入信した吟子の後半生は必ずしも安穏としたものではなかったようです。北海道での理想郷建設を目指す十四歳年下の志方之善と再婚した吟子は、明治二七年に自らも北海道に渡り、以後しばらくは瀬棚や札幌で開業しながら厳寒地での貧しい生活に耐えねばならなかったのです。その吟子が閑静な地を求めてこの地に開業したのは志方と死別してまもない明治四一年十二月、五十八歳の時でした。

晩年は不遇でしたが、吟子は日本で初めて医籍に登録された女性として、吉岡弥生など医師を目指した後続の女性たちを大いに励ます存在であり続けました。大正二年(1913年)六月二三日、六二歳で亡くなりました。 
平成二四年三月 墨田区教育委員会)』  

『利根川の風』 その3
★離縁からのスタート(2)

掲示板には一枚の写真が載っている。中年をとうに過ぎたであろう吟子の、地味な和服姿の上半身のモノクロ写真である。国立国会図書館所蔵と説明があった。実物が見られるならと意気込んで出かけて行った。ときおり五月の雨が緑を洗う日であった。

吟子には会えなかった。すべてデジタル化されていて、吟子はコンピューターの画面からその楚々たるしずやかなたたずまいを見せてくれただけであった。画像なら自宅のPCからでも探し出せる。しかし私は感動した。心を込めてじっと見つめた。深くくぼんではいたが、自分だけの宝物をひたと見つめている涼やかな大きな目に引きつけられた。

解説は次のようであった。
『日本における最初の女性医師。一六歳で結婚するが病を得て離婚。東京女子師範学校を経て、私立医学校好寿院に学ぶ。明治一八年(一八八五年)医術開業試験に合格、荻野医院を開業、女性として初めて医籍に登録された。キリスト教婦人矯風会に参加、二三年、牧師志方之善と結婚し、二七年北海道に渡り開業。夫の死後帰京し、四一年、東京でも医院を開いた』

終焉の地は墨田区であってもお墓はない。都立霊園の雑司ヶ谷墓地に葬られていると知ったので行ってみた。これも順序が逆さかもしれない。日頃、主義としては神社仏閣や墓地を敢えて訪れることはしないが、吟子は例外である。ゆかりの地の一つ一つをできるだけ見学したい思いに駆り立てられている。墓地は都内でもあり、行けない距離ではない。

乗り物は、東武線で曳舟、曳舟から東武スカイツリー線で牛田、京成電車では関屋駅である。関屋から上野行きに乗って町屋下車。さあ、そこから東京でただ一本の都電荒川線に乗り換えた。街中を走る都電、昔懐かしい都電に四〇分ほど乗って雑司ヶ谷に着いた。

墨田区小梅町で亡くなった吟子がなぜ雑司ヶ谷霊園なのか、それなりの理由があるのだろうが今のところ私には分からない。吟子は夫の志方之善の姉(北海道瀬棚で夫婦とも死去)の遺児で姪にあたるトミを養女にしていた。志方亡きあとも吟子はずっと育ててきた。小梅町での吟子の最期を看取ったのもトミであったからおそらく葬りもトミが係わったと思われる。

お墓の前で、吟子の生涯を思い出しながらしばらく佇んでいた。初めは書物や写真から知っただけの女性であるが、平面から立ち上がって血肉を備えた立体的な人間として私の近くにいるような気がしてくる。というのも、荻野家の墓地には吟子の立像が建っているのだ。その像は、女医になってからすぐと思われる吟子が華やかな鹿鳴館時代を思わせる洋装で、飾りのついた帽子を胴のあたりに持ってすっくと立っているのである。

墓地のは石像であるが、よく見かける肖像画では、明るい青地のドレスには両袖の肩から手首まで真っ赤なリボンが縦にぬいつけられ、同じリボンが立ち襟から胴体までトリミングされていて、今にも優雅なお辞儀をしてワルツでも踊り出しそうな装いである。いや、そんな浮ついた雰囲気はない。右向きであるが顔はほとんど全部見えている。可憐とは言い難くむしろ威厳が漂っている。軟な男などはにじみ出る風圧で近寄れそうもない。気品の匂うきりりとした姿である。

埼玉県熊谷市の吟子の生誕地跡に記念館が建てられている。そこには以下のような紹介がある。まだ訪れていないが、ぜひとも行かねばと思っている。

『荻野吟子は、嘉永四年(一八五一年)俵瀬村(現在の熊谷市妻沼)に生まれました。小さい頃から勉学に意欲的で、両宜塾等で学問の基礎を学びました。一八歳のとき、熊谷の名主に嫁ぎましたが、婦人病のために離婚。診療の屈辱をバネに女医志望を決意した吟子は、周囲の反対を押し切って上京。刻苦勉励し、明治一八年政府公許の女医第一号となり、東京本郷に「産婦人科荻野医院」を開業しました。

翌年、キリスト教に入信し、女性解放の先覚者として活躍。明治二二年には明治女学校教師となり、後に校医となりました。明治二八年、志方之善と再婚、吟子四〇歳の時でした。明治二九年、キリスト教による理想郷実現のため北海道に渡り、瀬棚町で医院を開業、開拓民の医療に従事しました。瀬棚町の開業した場所には、顕彰碑が建っています。また、北海道今金町には、吟子と志方之善が住んでいた住居跡も残され、貴重な資料となっています』

吟子の人生を考えるに、クリスチャン以前と以後に分けるのも一つの方法であると思う。キリストの信仰に立った吟子は、今までの人生以上に大きな冒険をする。北海道に渡るのである。北海道にも数か所吟子の足跡が大きく残されている。その一つである瀬棚に建立された顕彰碑には吟子の愛唱聖句が刻まれている。

『人 其の友の為に己の命を損なう 之より大いなる愛はなし』(ヨハネ伝一五章一三節)

以上、吟子紹介の記事をいくつか集めてみた。これらを総合すると、吟子の生涯全体がおぼろではあるが浮かび上がってくる。これを素材にして、冒頭の一文に繋げていくことにする。 

『利根川の風』 その4
★順天堂に入院、治療の日々

吟子の嫁した上川上村の名主稲村家は荻野家より格段上の豪農で、吟子の結婚は玉の輿だと世間から羨望の的になるほど荻野家には誇らしい良縁であった。学問好きで世事に疎い吟子は、先に嫁いでいった姉たちに倣って、疑いも抵抗もなく言われるままに稲村家の嫁になった。吟子の学問好きといえば、その利発さは父も戸惑うほどであった。父が兄たちのために江戸から儒学者寺門静軒を招いて講座を開いていた折、幼い吟子は後ろの方で目を輝かせて、兄たちよりも熱心に学び理解したという。さらに寺門静軒の弟子で土地の学者松本万年に漢学を学ぶようになり、ますます才媛振りを発揮するようになった。吟子より八歳上の万年の一人娘荻江は後の失意の吟子を理解し励ます無二の友となった。荻江は父の跡を継ぐ漢学者であり、後に東京女子師範学校(現在のお茶の水女子大)の教授に父とともに招かれて活躍した。 

後日、吟子はここに入学することになる。

それはさておき、実家に出戻って病床に臥す吟子を追わねばならない。

実家の奥座敷に隠れるようにして養生していても、病状は一進一退で回復の見込みは望めなかった。そもそも決め手となる治療法も薬もないのだ。時に気分のよい時があっても庭にすら出る気になれない。まして家の外へは気配さえ見せられなかった。人の目があった。家人たちを初め、辺り一面が真相を知ろうとする好奇の目と耳でうずまっていた。離縁という煮え湯を勇ましく飲み干すには吟子も荻野家も非力であった。利根川の風は覚悟した以上に無情に吟子の胸を突き刺した。

学問の師として親しく仰ぐ松本万年は漢方医でもあったから、折々に訪れては問診し、薬を出してくれた。ある時、万年は東京の順天堂病院での診察を勧めた。院長は関東一円に名を馳せている西洋医学の名医佐藤尚中である。万年は尚中と面識があった。婚家と正式に離縁の話がついて荻野姓に戻ってほどなく、吟子は順天堂に入院することになった。明治三年のことであった。まだ維新の混乱は続いていたが、すでに江戸は東京と改名、幕府は江戸城を明け渡し明治天皇の御代が始まっていた。

吟子は佐藤尚中の治療に人生を賭ける思いで上京した。俵瀬から東京まで、現在では通勤もできるほど交通は便利になったが当時は二日がかりの旅路であった。吟子は舟であった。分家の荻野家所蔵の二十石積の高瀬船に、母のかよと乗船した。利根川から江戸川、東京湾から隅田川に入り浅草で停泊した。そこで下船し、下谷の順天堂医院に着いた。入院手続きをしてその夜は近くに宿をとったという。

――是が非でも治りたい。我が身を、わが心を蝕む悪病から解放されて、新しい人間になりたい。そうなれば忌まわしい三年間を悪夢として忘れられるだろう。どんなに憎んでも恨んでも飽き足らない夫をも見知らぬ他人のように思えるだろう――

吟子は自分を縛り付ける呪縛の縄から自由になりたいと激しく願った。

――丈夫になって新しくなりたい、新しい自分になりたい、生まれ変わった別人のようになりたい―― 

吟子は狂おしいほどに思ったにちがいない。

佐藤尚中の治療は患部を徹底して洗浄することだった。ところが、である。思いもかけない展開になった。診察する尚中はじめ取り巻く医師たちは男性ばかりではないか。当時、女医がいるわけはないのだから当然のことではあったが、いざ診察となって気づけば、すべてが男性ばかりである。ハッとしたが、吟子はたった一人、半裸にされて患部を覗き込まれ、触診もされた。全身が羞恥と屈辱の塊となって縮みあがった。なんという苦行であろう。いっそ、舌を噛み切って死んでしまいたかった。身を切り刻んで捨ててしまいたかった。しかし逃げ出すことも悲鳴を上げることもできない。耐えねばならなかった。

思えば、病気をうつされたことも、病んで臥したことも、離縁の恥を味わったことも、男性医師たちに取り囲まれることに比べればたいしたことではなかった。吟子は診察のたびに血の出るほど唇を噛んで屈辱に耐えた。泣きに泣き、食事も取れず眠れない夜が続いた。

そうした中で耳に入るのは、診察を嫌悪するあまり一日延ばしにして悪化させ、不妊になり、ついに命を落としていった女性たちが無数にいることであった。

もし、女医がいて、女医が診察するのなら、耐えられるだろう。

――女医、女性の医師、女医、同性の医師、ああ、女医がいてくれたら――

――女医になろう。女医になろう。同じ思いに泣く同性たちが安心して治療を受けられるように、私が女医になるのだ。私は人のためになりたい。人を助けたい。女医になって苦しんでいる人たちを助けたい――

突然、稲妻が走るようにこの思いが吟子の脳を貫いた。閃光は心臓を貫き手の先から足の先まで全身を走り、やがて心に留まった。決意は不動の塊になって心の中心を占め、以後の吟子を支え続けた。天が吟子に与えた使命ではなかったか。

新しい目標は希望の火になって心を照らしてくれた。苦渋に満ちた診察の時の杖とも柱ともなった。しだいに涙が乾いていった。女医になるのだ、女医になるのだと呪文のように言い続けた。心の張りは病状をも好転させた。完治する病ではなかったが、吟子は一年余りの闘病の末、退院して故郷俵瀬の生家に帰ることができた。

しかし喜んではいられなかった。実家は安穏として長く居られる場所ではない。出戻り女性の生きる場所はないのだ。恥じさらしな居候として座敷牢に閉じ込められるか、新しい嫁ぎ先を探すほかはないのだ。

吟子は自立を選んだ。それはもちろん女医への道であったが、道はない。道なき道を行くことしかなかった。しかし吟子はひるまなかった。

たった一つ、頼れる人は松本万年荻江父娘であった。すでに松本万年のアドバイスで順天堂への道が開けた。そこは地獄を見るような日々であったとはいえ、地獄の底で希望を見つけることができた。希望は生きる力の母ではないか。吟子の新しい道はすでに始まっていたのである。素材にして、冒頭の一文に繋げていくことにする。 

『利根川の風』 その5
★再び上京、国学者井上頼圀に師事、甲府の内藤塾へ 

女医への志は不動のものであっても、それを家族や周囲に公言し理解を得るのは不可能であった。時代が開いていないのだ。家族の中で唯一吟子を不憫に思ってかばってくれるのは母のかよとすぐ上の姉友子だけであるが、この二人も、吟子の本心を知ったら気が狂ったとしか思わないだろう。吟子は万年父娘にはすぐに打ち明けた。しかしさすがの彼らも吟子の大胆で遠大な志には戸惑ったようだ。

ある文書に依れば、吟子は奥原晴湖に相談したとある。晴湖は女流画家として名声を馳せていた。茨城県古河の人であるが、いっとき熊谷の近く上川上村に仮住まいしていた。晴湖は芸術の分野でこの時代に考えられないような活躍をした女性である。岩倉具視、木戸孝允らにも認められ、後には明治天皇の前で揮毫したという。一時は三○○人からの弟子がおり、岡倉天心も門下生であった。吟子はこの力ある女性を信頼したのだ。晴湖は吟子の中に稀に見る学才と固い意志を見抜いたのであろう、なによりも晴湖には男性特有の女性蔑視の視線はなかったにちがいない。

一八七三年(明治六年)吟子は二二歳になっていた。

吟子は上京すると、有名な国学者井上頼圀の門に入った。紹介者が松本万年であるのか、奥原晴湖であるかはっきりしないが、吟子を女性と分かって許可した頼圀はかなり開かれた目をもった人であったと思える。明治の世になったとはいえ、たいていの男性の女性に対する見方は旧態依然、封建時代からの男尊女卑であった。女性が学問すること、まして男性と机を並べるなど、奇異としか思えなかったのだ。吟子はめきめきと頭角を現した。松本万年のもとでの学びがしっかりした基礎になっていた。吟子の才媛ぶりは東京の学界にちょっとしたセンセーションを巻き起こした。

ある時、吟子の名声を聞きつけて、甲府で女子の私塾を開いている内藤満寿子塾長が教師として招聘したいと訪ねてきた。吟子は内に秘めている女医への夢をいっときも忘れたことはないが、迷った末にしばらくして甲府行きを承諾したのである。理由があったのだ。日々学問を教授されている師井上頼圀から後妻にと結婚を申し込まれたのである。当時頼圀は妻を亡くして独り身であったから、彼にとって美と才を兼備した吟子は妻にするにはまたとない女性であったのだろう。

吟子にはその気は皆無である。吟子の心を占めるのは女医の二字だけである。吟子はていねいに断ったがもはや井上塾に留まることはできない。一度は辞退した甲府へ下るのは本意ではなかったが、かといって俵瀬には戻れない。女医になるまではなんとしても自活しなければならなかった。吟子は苦渋の回り道を選ばねばならなかった。

しかし内藤満寿子女史は大いに喜んだであろう。明治七年、二三歳のことである。

内藤塾で、吟子は漢文と歴史を教え、舎監も兼ねて女子教育に専念した。吟子には持って生まれた威厳があり、教師は適役ではなかったかと思われる。今でいうリーダーシップの能力も優れていたのではないだろうか。また手も気も抜かない一本気と熱意があった。 

『利根川の風』 その6
★東京女子師範学校入学 私立医学校好寿院へ入学

 甲府で一年余り女子教育に誠心誠意で携わった吟子の評判は高かったが、吟子の内心は満たされてはいなかった。女医の志があるからである。吟子の心には生木のままかまどに放り込まれた丸太のように黒い煙がくすぶり続けていた。そんなとき、ある説によれば、故郷俵瀬以来強い絆で結ばれている松本万年師の娘荻江がわざわざ甲府まで吟子を訪れたという。

 荻江は驚くような話をしに来たのである。

政府はついに女子の教育者を育てるために東京女子師範学校を設立することになり、松本万年と荻江はそこの教師として招聘を受けたという。すでに上京して備えている。それにつき、入学を勧めるために来たのだ、女医の道は今は閉ざされているが、世の中は大きく動いている、きっとその時が来る。その時のためにも東京へ戻って目の前に開けた新しい道を歩んでみたらどうだろうと荻江は言うのである。

 荻江の親切と適切な助言は吟子の心を動かして余りがあった。吟子は応じる決意をした。

――女性の教師を育てる国の学校ができる、その次は女性の医者の学校の番かもしれない。今、開かれた道を歩いてみよう――

 翌年明治八年、二四歳の吟子は後のお茶の水女子大になる女子師範の第一期生として入学し、四年間、寝る間も惜しんで厳しい勉学に挑戦した。努力の甲斐あって、明治十二年、吟子は主席を守り通して卒業した。二九才になっていた。約五年間の学びであった。

 しかしめでたく卒業したからといって吟子は学校の教師になるつもりは毛頭ない。先の見えない五年間はどんなにつらかっただろう。それに耐えられたのは女医になるという初心があるからこそであった。

意志あるところ道ありというけれど、五年経ってもまだ女医の道はない。有るのは強烈な意志だけである。医学を学ぶための医学校は男子のみで女人禁制であった。が、立ち往生してはいられなかった。

 卒業面接で幹事の永井久一郎教授に医学を学びたいのでなんとしても医学校に行きたいと志を明かした。永井教授は驚きつつも、現行制度では女子には門戸が閉ざされていることを語った。しかし吟子の鋼のような意志と健気さを前に、真摯に向き合ってくれて、医学界の実力者、陸軍軍医監石黒忠悳(ただのりあるいはちゅうとく)子爵を紹介した。石黒子爵も吟子の熱意を理解し、下谷練塀町の私塾『好寿院』に入学することができた。ないはずの道がほんのわずかではあったが備えられたのである。

 しかし吟子の戦いはいよいよ本番を迎えたにすぎない。本番とは苛烈なものだ。志を抱いて上京してからすでに五年が経っていた。学びの場が与えられたとはいえ当然ながら塾生は全員男性である。しかも、女性が自分たちと同じ医学を学び医師を目指すことは到底受け入れられないことであった。自分たちの誇りが汚されたとさえ感じたのだ。吟子への嫌がらせはすさまじかったそうである。今でいえばセクハラ、パワハラの類が公然とまかり通った。レイプの危険さえあった。吟子は野獣の檻にいるようで、極度の緊張を強いられた。いつも命がけであった。

 学費、生活費の問題もあった。どこからも援助はないし頼むつもりもない。すべて自立である。吟子はいくつも家庭教師をした。すぐ上の姉友子が始終心にかけて援助してくれたがそれだけではどんなに切りつめても間に合わない。幸い、女子師範を卒業していることが有利に働き、名家に出入りすることができた。中でも豪商高島嘉右衛門は後々まで吟子を支援した。

 当時は乗り物がない。すべて徒歩である。真夏も寒中も雨の日も雪の中も、ひたすら歩くしかなかった。時に持病が頭をもたげ体をさいなむ時もあったが寝込んではいられない。身も心も酷使しながらの勉学であった。無我夢中とはこのことではないだろうか。なりふり構わず食うや食わずの三年間が過ぎ、吟子はついに『好寿院』を卒業したのである。医者としての知識、技術などは男性と同等に習得したから免許さえあればすぐにでも医者として開業できるのだ。明治十五年、吟子は三一歳、あの順天堂での屈辱的診察から、女医を目指して歩いたいばらの歳月は十年を超えていた。 

『利根川の風』 その7
★受験、前期試験合格

 開業するためには今でいう国家試験にパスしなければならない。医学学校卒業は受験資格ができたに過ぎない。最後の難関は国家試験である。内務省管轄の『医術開業試験』と言った。願書を提出すると、その場で却下された。そもそも女性には受験資格がないのである。新しい時代、文明開化の明治の世が進んでいるのに、いまだに女性が医師になるという発想は政府や官僚のお役人にはなかったのだ。依然として封建時代の男尊女卑のままである。

 吟子はほとほと困り果てた。押せども叩けども聳え立つ扉はびくともしない。受験期が来ると願書を出すがそのたびに却下された。また挑戦した。むなしいばかりであった。しかしじっとしてはいられない。吟子の焦燥と苦悩を深く理解し同情したのは、吟子の家庭教師先の高島嘉右衛門であった。吟子のかつての漢学の教師井上頼圀を通して、時の衛生局長長与専斎に紹介してくれた。また、石黒子爵も長与に頼んでくれた。しかし女医の前例はなく現行制度にもないと断ってきた。すでに長与はじめ内務省に女医を認可するべく、全国から多くの女性たちの声も上がっていた。吟子以外にも女医志願者たちが各地にいたのである。彼女たちもみな吟子に劣らない苦節の道を歩みながら女医を目指していたのだ。

 吟子の志を応援する井上、石黒、高島たち有力な男性たちの熱心な口添え、また時流の力もあって、ついに女性にも受験の道が開かれた。ついに、ついに巨大な沈黙の石は動き、鋼鉄の扉は開かれたのであった。しかし、扉は開かれたが通過するには試験に合格しなければならない。吟子は勉学から離れていた二年間を取戻し是が非でも合格するために、再び昼夜分かたずの受験勉強に力を振り絞った。

 明治十七年九月三日、吟子は前期医術開業試験を受験した。他に女性三名が受験したが、月末の合格発表では女性の合格者は吟子一人であった。それは吟子にとってどれほどの喜びであったろう。支援者、理解者の喜びも大きかったろう、しかし吟子と同じ振動で喜びの共鳴板を鳴らせた人はいなかったのではないか。この十年、吟子の流した涙の量は大河を造り、うめきの数は天にまで達したであろう。吟子は合格通知を手にしてひとり座していつまでも泣き続けたにちがいない。

 ゴールまであと一息である。半年後に後期の試験があるのだ。安閑としてはいられなかった。 

 『利根川の風』 その8
★後期試験の合間にキリスト教の集会に行く

 ある日、吟子は友人の古市静子からキリスト教の大演説会に誘われた。吟子はそこへ出かけたのである。場所は京橋の新富座であった。今でいえば超教派の一大伝道集会のことだろう。なぜ、場違いなところへ行く気になったのだろう。

 古市静子とは東京女子師範学校でいっしょだった。同室者として特別に懇意でもあった。静子はクリスチャンであった。静子がひそかに吟子のために祈っていたことは想像がつく。すぐ近くで大きな伝道集会があるのだ、これこそ神の備えた絶好のチャンスではないか、静子はそう信じたであろうから、誘わないわけがない。

 吟子は義理で誘いに乗ったのだろうか。それも皆無ではないだろうが、いっときの歓楽的な催しなら親友の誘いといえども言下に断っただろう。吟子には無駄に使う時間も心もない。後期の試験が迫っている。しかし緊張と期待とが背中を擦り合わせる、小さなすきまがあったのかもしれない。静子の誘いはその小さな空間に伸ばされたのだ。静子の信じたとおり、その時こそ、吟子の後半生を導く神の時であった。

 吟子は、そこで植村正久とともに日本のキリスト教界をリードする海老名弾正牧師の説教に出会った。海老名牧師の説教は内容の斬新さと鋭い舌鋒と内側から燃えたぎるエネルギーで吟子を圧倒し魅了した。吟子は我を忘れ目を輝かせて聴き入った。この日の説教は吟子の魂の深いところに留まったにちがいない。

 古市静子と吟子の間には知る人ぞ知るかなり有名なエピソードがある。

 時は遡って東京女子師範時代のことである。吟子は同室で親しくしていた静子からある悩みを打ち明けられた。一方的に婚約を破棄されて苦しんでいるという。聞けば、相手は明治政府の高官、森有礼であった。森も静子も薩摩藩の人で長い付き合いがあった。が、有礼は静子を捨てて他の女性としかも福沢諭吉を証人に立てて、当時としては新式の結婚式を教会で挙げたそうである。大いに話題になって世を沸かせたのだ。

 聞いた吟子は義憤に燃え、有礼に単身直談判に行った。彼の非をなじり、非を認めさせ、償いとして静子の卒業までの学費を出させたという。吟子の正義感と勇気に驚くとともに、大胆な行動力に吟子のもう一つの面を見て、興味深い限りであった。なによりも痛快であった。洋行帰りの政府の高官といえども、品位に欠ける男性の横暴さに対して吟子と同じ怒りを抱くからだ。吟子さん、あっぱれと声援を送りたくなった。

 ところで、古市静子は日本の幼児教育の分野で草分け的な大きな働きをした、忘れてはならない偉人である。しかし、世間での知名度は高くない。隠れた女傑である。本郷に初めて「駒込幼稚園」を開設し、三〇年間幼児教育と経営に力を尽くした。鹿児島県種子島の人で、種子島には静子の偉業をたたえた記念碑があるという。

 静子は、その後もずっと吟子のそば近くで力強く祈り支えた人ではなかったろうか。 

『利根川の風』 その9
★後期試験合格、婦人科荻野医院誕生

 明治十八年三月二十日、後期試験を経て、ついに発表の日である。吟子は合格者の中に自分の名を見つけた。『荻野吟子』、『荻野吟子』、『荻野吟子』。

 吟子は見ては目を閉じ、開いては見た。消えてしまいそうで、吹き飛んでしまいそうで、何度も何度も確かめては脳裏に刻み心に収めた。とうとう女医になったのだ。患者を看られる資格が自分のものになったのだ。吟子は一度に体中の緊張が解けて行くのを感じた。ふわふわと宙に浮くようであった。二十歳で実家に出戻って以来、実に十五年近くが過ぎ、吟子は三四歳であった。

 ついに日本で初めての第一号の公認女医が誕生したのである。吟子がこじ開けたこの門こそ大きな意義があった。すぐ後ろには続々と志高き有能な女性たちが押し迫っていた。彼女たちは吟子の苦闘に感謝しながらこの門をくぐり、女医ならではの貴い働きに従事した。

 ――もう、だれにも妨げられずに堂々と患者が見られる。女性たちの喜ぶ顔がみたい。彼女たちを救うのだ。さあ、一刻も早く医院を開こう――

 吟子は感慨に更ける暇もなく早速医院開業に着手した。事は終わったのではなく始まったのである。吟子の名はあっという間に広まり、一躍有名人になった。今までの支援者に続いて、ぞくぞくと手が差し伸べられた。しかし吟子は浮かれはしなかった。なるべく人の好意に甘えず乗らず、本郷三組町のしもた屋を借りて診察のできるように改装した。『産婦人科荻野医院』の看板が掲げられると吟子は時を忘れて見つめた。体の奥深くから喜びが込み上げてくる。それは女医の免状に勝るうれしさであった。

明日、最初に医院の戸をたたく人はだれであろう。自分にとって第一号となる患者はどんな人であろう。安心して受診できるように、信頼してもらえる女医にならねばと、吟子は患者受け入れの心構えまで考えたことだろう。

 今でいえばマスコミに大々的に取り上げられた女医第一号のニュースを聞きつけて、物見高い江戸っ子、東京人たちはぞくぞくと荻野医院に押し寄せてきた。「産婦人科」と看板に銘打ってはあるものの内科も外科も小児科も扱ったので、患者は女性ばかりではなかった。診察時間の制限はない。患者が来ればどんな早朝でも迎え深夜まで拒まなかった。吟子は連日連夜の診察に疲労過労に陥っても、時に持病が起きても、患者を看られる喜びと使命感に燃えて、持ち前の一途さでひたむきに従事した。

 地名を頼りに、場所をたずねてみた。『三組坂下交叉点』あたりとのことである。

都バス錦糸町から大塚駅行きへ乗車し湯島三丁目で下車した。近くには全国的に有名な湯島天神がある。『産婦人科 荻野医院』跡とは文献にあるだけで、実際の地に何一つ記念のものはない。案内板すらない。文京区の怠慢ではないかとさえ思う。医院があったとされるところは、上野から銀座、新橋を南北に走る中央通りの一本西を並行して走る都道452号線を南に250mほど下った地点である。そこには現在があるだけである。私がカメラを上に向けて道路標識を写しているのを、ガソリンスタンドの店員さんが、一瞬視線を向けただけであった。辺りは湯島天神を抱えている土地柄なのか、飲食店や小さな宿泊場所がびっしりと重なり合うように軒を並べていて、表通りにはない独特の雰囲気が漂っていた。

 急に、初老の女性と中年女性の二人組に「あの、湯島天神はどこでしょう」と声を掛けられ、すぐ先の木々のこんもりした高台を指さしたが、吟子「ぎ」の字も見当たらないのは寂しかった。無表情な都道452号線を眺めながらも、涙が滲んでならなかった。

 ここで余話を一つ。

 世には、日本初の女医は楠本いね子との説がある。いね子はかのオランダ人医師シーボルトの娘である。母は長崎の芸妓である。父が帰国して以後、混血児として好奇の目、蔑みの目、差別扱いされながらも男性世界の中で吟子のように道なき道を血の涙を流しつつ医術を学び、明治三年、東京築地居留地の近くで産科を開業した。

当時はまた明治政府公認の開業試験制度はなかった。いね子は吟子より二八歳上である。いね子も立派な医者であったが、公認の女医第一号は荻野吟子なのだ。ついでながらいね子を主人公にした小説『ふぉん・しいふぉるとの娘』が吉村昭氏の著にあるが、史実を丹念にたどった超大作である。 

『利根川の風』 その10
★医院大繁盛の中で、洗礼を受け、婦人矯風会活動へ 

 吟子は多忙ではあったが患者一人一人に十分な医術を施し、治療の成果を確認し、医師として充実した日々を送っていた。初めて心に憂いなく順調な人生の手ごたえを実感した。満足といっていい日々であった。患者の対応も板に着き、患者たちも、特に性病に付きまとわれている女性たちは、医者が同じ女性であることから気を楽にし、ぽろぽろと生活の様子を話すようになり、吟子は彼女たちの私生活や心の内を知るようになった。

 思えば吟子はわずか二十歳で独り身になって以来、一筋に勉学の道を走ってきたのだから、世間の実態は知る所ではなかった。医師になって初めて一般庶民の生活を知ったのだった。患者の中には夜の街の女性たちも囲われ女性もいた。そうした女性たちのあからさまな生活ぶりや切ない身の上話や心持ちを知るようになると、吟子の心には、一通りの同情では済まされない、受け入れがたい感情が生まれ、わだかまってくるのだった。

 もっと強い意志を持って生きてほしい、自分の態度を変えれば病気も治るのにと、歯がゆくてならないのだ。生き方一つで治る病もあるのだ。診察して施術して薬を出しても、本人の自覚が変わらないからまた病が高じてしまう。泣きついてくるとそれをまた診察するのだ。終わりなき治療の現状に吟子はむなしさを感じないわけにはいかなかった。

何のための医術か、自分は何をしているのか、こんなことのために人生を賭けてきたのでないと怒りを覚えることもあった。

――もっと役に立ちたい、役に立てたい、役に立つことをしたい――

 吟子は自分でもわからない渇望にもだえることもあった。

 不完全燃焼の自分をもてあまし、満たされない思いを抱きながら、吟子はキリスト教の教会をたずねた。以前、古市静子に誘われて初めて接したキリスト教は、あの時以来吟子の心の底から消えることはなかった。幸いにも、新富座での説教者海老名弾正が近くの本郷教会の牧師をしていた。吟子は日曜日になると教会へ通うようになった。まもなく洗礼を受けた。明治一九年、吟子三四歳、開業して一年ほどのことであった。

 日曜日の礼拝が待ち遠しくなった。渇きをいやす氷水のようであった。説教と聖書のことばは診療で疲れ切った心身の隅々にまで流れ込むいのちの水であった。吟子は夜、仕事が終わると自室にこもって聖書を書き写した。一字一句、かみ砕くように読んでは書いた。

 吟子の通った弓町本郷教会は今も活発に活動を続けている。建物は火災や関東大震災に遭って建て替えられ、場所も変わったが、訪ねてみた。都バスで、先の荻野医院跡の本郷三丁目の一つ先『真砂坂上』で下車してすぐであった。吟子が歩いて通ったことがうなずける。平日であったためか、正面入り口は厚い鉄の扉でしっかり施錠されてびくともしなかった。あの時代から130年も経っているのに、教会は健在、今も毎週日曜日には信徒が集まり、讃美歌と聖書を中心とした礼拝が捧げられていることに深く感動し、感謝した。日本でたった一人の女医として日本中から称賛され注目の的になったばかりの吟子が、それに溺れず奢らず、神のみ前に額ずく姿を思い浮かべて、心に染み入る涼風を感じた。

 吟子は当時の思想書を手当たり次第に読んだ。吟子は世の中に矛盾を感じていた。特に女性の生き方に失望を感じた。それは社会の在り方への批判に繋がった。つまり、女性の意識改革とそのための教育の必要を強く感じ始めていた。特に諸悪の根源は公娼制度にあると痛感した。こうした前近代的なことがまかり通っている社会が、政治が許せなかった。医術だけを見ていた吟子の目は社会へ向けられて行った。

 折しも、矢島楫子を中心にした『東京婦人矯風会』の活動が始まった。禁酒、禁煙、廃娼などの社会悪への運動である。それは吟子の琴線に触れて、新しい音色を奏でた。吟子は運動の中に飛び込んで行った。矯風会の中心女性たちは学識もキャリヤも最先端を行く才女たちであったが、吟子は女医第一号という立場から廃娼制度を強く訴えた。医師として性病に取り組む現場からの声は説得力があった。吟子は早速風俗部長になった。 

 一介の女医としての働きに限界を感じていた吟子の熱く広くたくましい精神は、キリスト者の信仰と矯風会の社会活動による女性救済活動で、深められ高められていった。 

『利根川の風』 その11
★婦人矯風会と矢島梶子、明治女学校

 矯風会の中心人物である矢島楫子については、かの名門女子学院の初代院長であり明治、大正の女子教育と社会運動家としてその名を海外にまで馳せた熱血女子であるから、知らぬ人はいないだろうが、多少紹介する。

楫子もまた封建制度、男尊女卑の苦杯を飲み干して立ち上がった人である。明治元年三五歳を自分の「新生元年」と名付けて屈辱の婚家を飛び出して以来、大正十四年九二歳で天に帰るまで、女性の福祉のために一生をささげた優しき猛女である。

 天保四年、一八三三年熊本生まれ。二五歳で富豪林七郎の後妻として嫁いだ。夫は儒学者で維新十傑の一人横井小楠の弟子であった。しかし家庭内では暴君、酒乱。時に白刃を振り上げた。楫子は今でいえばDVに苦しみ、ついに半死半生で婚家を飛び出した。数年後上京して病気の兄直方の家庭を取りしきりながら教員伝習所に通い、明治六年に学制が施行されると芝の桜川小学校に採用された。明治十四年桜川女学校の校主代理に就任した時、楫子は生徒たちに「あなたがたは聖書を持っています。だから自分で自分を治めなさい」と言って校則は作らなかったという。このエピソードは忘れ難い。教育者として資質が美しく匂ってくる。

 明治十二年、築地新栄教会でディビッド・タムソンから洗礼を受けた。明治十九年には東京婦人矯風会を組織して初代会長に就いた。二六年、楫子六十歳のとき全国組織を結成し、会頭になった。以後、活動は海を越え、明治三九年にはバンコク矯風会大会に出席しルーズベルト大統領と会見した。楫子七四歳である。その後も海外に出かけ、八九歳で三回目の渡米を果たした。楫子の姉たち、また親族からは社会に名を馳せた有名人が多数輩出されている。書き出したら相当の紙面が要るだろう。

 楫子の一生は三浦綾子の評伝『我弱ければ』にまとめられている。楫子は自分自身を筆頭に、人間の罪に対する《弱さ》を知り抜いていた人であった。ついで吟子は大日本婦人衛生会幹事に就任し、さらに明治女学校の生理衛生担当教師になり、校医になった。

 ここで、少し明治女学校と係わった人たちに言及する。

 千代田区六番町にあった学校跡をたずねてみた。
 東京は連日猛暑日を更新しついに37、7度まで行きつき天地が溶けるような、猛暑日の最中であった。明治女学校は、高校生の頃、島崎藤村に熱中したことから覚えていたが、まさか今ごろ荻野吟子のことで再会するとは思っても見なかった。懐かしさがよみがえり、すっかり忘れていた青春の血が噴き上げてきた。

明治女学校は明治一八年に開校し、明治四二年には閉校したが、そのわずかな二三年間、全国に名を馳せた、しかもきらびやかに存在を示した学び舎で、まるで夜空を焦がす花火、あるいは一日だけの朝顔、聖書で言えばヨナの日よけになったとうごまの木のようだ。明治の世が、特に女性たちに見せた真夏の夜の夢ともいえる、近代日本の女子教育の先駆けとなった学校である。

 創立者は木村熊二牧師、二代目はかの岩本善治(彼の妻が小公子などの翻訳で有名な若松賤子)であり、日本初の女性誌『女学雑誌』が刊行された。この雑誌の投稿者である文学者たち、なかでも島崎藤村も教壇に立った。初期の講師の顔ぶれは華やかである。音楽は幸田幸子(幸田露伴の妹・幸田文の叔母だと記憶する)英語は津田梅子、若松賤子、医学を荻野吟子(ここに吟子の顔が見える)。島田三郎、内村鑑三、植村正久まで教壇に立ったこともあった。

 生徒からは羽仁もと子が出た。この人こそ明治女学校が生んだ最高の偉人ではないだろうか。実践家もと子が夫君と建設した自由学園と女性誌『婦人之友』は今に至るまで栄え続けている。

 若松賤子も忘れられない。会津藩の悲劇をまともに経験し、孤児同然の身ながら不思議な出会いを重ねて横浜のフェリス女学院の一期生として学び、教師になり、英語力と文学の資質を用いて『小公子』などを翻訳した。若くして亡くなったのが惜しくてならない。羽仁もと子も若松賤子もキリストの信仰に生きぬいた人たちである。

彼女たち他、明治女学校の様子を詳しく書いているのが相馬黒光の『黙多』である。読み出したら止められない本である。この人のことも書けば一冊になるだろう。しかし、キリストの信仰を捨ててしまったことは嘆かざるを得ない。

 さて、今は無き明治女学校の跡であるが、そこに千代田区の建てた銘板があると知ったので、行ってみた。千代田区六番町である、JRでは四谷と市ヶ谷の間になる。土地勘であの辺りだと想像はつくが、その一地点を探すのは容易ではない。案内の通り、わざわざ市谷から有楽町線に乗って一駅の麹町で下車し、出口番号も間違いなかったのに、いざ、地上に出るとわからない。地番名も手にしているのに、なぜかそこだけ逃げてしまうのだ。『文人通り』というわかりやすい通り名もついている。まさにそこを歩いているのに、一軒の商店で訊いてみると、ここは確かに文人通りですがと言って、スマホで探してくださったが、ついに分らなかった。

 しばらく行くと、ようやく目指す地番名が現れてきた。うろうろしていると、自転車を引く初老の女性が声を掛けてこられた。「明治女学校ですか」といわれた。ずばり明治女学校の名が聞こえてきて、顔に血が上るのを感じた。「そこですよ、私は羽仁もと子の集まりの帰りです」とも言われた。なぜかその女性はとてもうれしそうだった。ついに銘板に行き当たった。マンションの植え込みの中に立っていたのだ。真紅の二〇センチ四方の千代紙の様な版で、菱形にしてあった。しかし、人工的な銘板だけとはなんとも物足りなく悲しい。建物の一部とか土台とか、なにか当時のものがすこしでもあれば現実感が沸くのだが、跡形もない。資料を思い出しながら想像するしかない。歳月の無常、歴史の一方的な流れには逆らえないのだろう。

 吟子は明治二二年に、講師、校医になり、女子教育の現場に立つのである。さらに、明治二五年には医院を畳んでここの舎監に就いている。この三年の間には、吟子の生き方を根底から変える大きな出来事があった。 

『利根川の風』 その12
後半生 風の中で
★若き伝道者、志方之善との出会い(1)

 いよいよ吟子の名声は高まり大東京のど真ん中で押しも押されぬ名士となった。本業の医業と心の支えとしての信仰生活、そして熱情を燃やすに足る矯風会を始めとするいくつかの社会活動で、吟子の心は明るく張り合いに満ちていた。

 最初の医院ではどうにも手狭になりすぎたので、十九年秋に下谷西黒門町にひとまわり大きな家を借りて移転した。看護婦、下働きの男性、女性、車夫も雇った。今や一国一城のあるじである。時に四十歳になっていた。

 しかし吟子の生涯はここで大きく向きを変えることになる。吟子自らが選んだのだが、神が吟子を捉えて新しい道の先頭に立っていると思えてならない。だが、それは前半生にも勝る苦難の道であった。

 終焉の地である墨田区向島、源森橋のたもとに立つ案内板は語る。

『開業もまもなくキリスト教に入信した吟子の後半生は必ずしも安穏としたものではなかったようです。北海道での理想郷建設を目指す十四歳年下の志方之善と再婚した吟子は、明治二七年に自らも北海道に渡り、以後しばらくは瀬棚や札幌で開業しながら厳寒地での貧しい生活に耐えねばならなかったのです。その吟子が閑静な地を求めてこの地に開業したのは志方と死別してまもない明治四一年十二月、五十八歳の時でした。晩年は不遇でしたが、吟子は日本で初めて医籍に登録された女性として、吉岡弥生など医師を目指した後続の女性たちを大いに励ます存在であり続けました』

 案内板が、『開業もまもなくキリスト教に入信した吟子の後半生は必ずしも安穏としたものではなかったようです』、『晩年は不遇でした――』と語るのに不服を感じる。安穏とは何か、不遇と決めつける基準はなにかと問いたい。こうした偉人を、単なる世の秤の上に乗せて、幸福な人、不幸な人と色分けするのはどうであろうか。

 吟子の後半生を追いかける。

 人の日常はある日突然、一瞬の出来事によって大きく変わる。出来事をもたらすものは人災、天災、あるいは人との出会いがある。吟子の前に、一人の青年が現れた。突然、天から降りてきたようであった。もっとも天使のような容貌ではなく、もさっとした大男、九州は熊本の男児で、志方之善(しかたゆきよし)といった。

 志方は同志社に学び新島襄から洗礼を受け、大久保慎二郎牧師の助手として秩父伝道の帰途に下谷に寄ったのである。吟子はかねてから懇意の徳富蘇峰・蘆花兄弟の実姉大久保慎二郎夫人に彼を一晩泊めてほしいと依頼されていた。ちなみに徳富蘇峰・蘆花兄弟は婦人矯風会の創始者矢島楫子の甥たちである。大久保夫人はその後矯風会の代表となる久布白落実の母である。 

『利根川の風』 その13
後半生 風の中で
★若き伝道者、志方之善との出会い(2)
 吟子と志方は一瞬のうちに恋に落ちたと世の人は非難めいて言う。吟子については、恋情に負けて、医師の座も社会活動の栄光の立場も投げ捨てて、十四も年下の男を北海道くんだりまで追いかけて行き、悲惨極まる年月の果て、無一物になりはててひっそりと東京に引き上げ、墨田区の片隅で息を引き取ったと、嘲笑めいた噂を立てる。

 人はそれぞれの価値観から自分流の判断を下す。「自分が見たいように見」、聞きたいように聞き、書きたいように書く。悪人が善人になったり、その逆があったりする。歴史は超然とその評価に任せ、関知しない。

 私は、私なりに吟子像を描きたい。史実のすきまに突っ込みを入れたい。突っ込みに使うメスは、吟子の人となりへの愛であり、吟子への信頼と友情であり、吟子を導かれる神への信仰である。

 明治二三年夏、吟子三九歳のある日、大久保夫人が紹介して寄こした志方之善が荻野医院を訪れた。二六歳の九州男児は小山の様な体躯をすぼめて吟子の前にかしこまった。全身キリスト教の伝道熱に燃える同志社の学生志方は、吟子の敬愛する海老名弾正牧師と同県人で面識もあるという。

 この時、確かに吟子の内に固く立っていた長年にわたる男性不信の垣根が一度に壊れたと言えよう。吟子は目を細めて、熱弁をふるう志方の話を母親のような心持ちで聴き入った。一方、志方はその名を知らぬ者のない女傑吟子に直接会えたことで感情は激しく昂り、吟子の柔らかな雰囲気に包みこまれ敬愛の色濃い親しみを抱いた。ごく短期間のうちに二人の感情は一つになった。周囲はそれを常軌を逸した不釣り合いな恋だと激しく批判した。

 結婚の意志を固め、親しい人たちに知らせたが、日ごろ吟子を応援してきた人たちはだれ一人として、理解し賛成しなかった。俵瀬の実家は無論だが、松本万年・荻江父娘も、志方を吟子に紹介した大久保牧師夫妻も、さらには海老名弾正牧師も反対の手紙をよこした。四面楚歌とはこのことではないか。しかし二人はひるまなかった。もともと吟子は反対されることには慣れていた。女医を目指した時に比べれば取るにたりなかった。二人は熊本の志方の生家で式を挙げた。

 まもなく志方は学業半ばで北海道の開拓に行きたいと言い出した。キリスト教の理想郷を建設しようというのである。志方は瀬棚郡利別(としべつ)原野に二百町歩を借りることができた。北海道の南西部渡島半島の日本海側である。そこへ丸山という二十歳の青年と入植していった。吟子との結婚にも勝る冒険であり無謀ともいえた。しかし志方は理想に燃えていた。九州男児の一徹と信仰による希望は周囲の声を聞く耳をふさいでしまった。

 吟子は若き夫の唐突で非現実的なビジョンをどのように受け止めたのだろうか。おそらく心からではないにしても、賛成したのではないだろうか。熱っぽく語る夫の夢を聞きながら、しだいに共感が増し、やがて自分の夢としたのだ。できることならすぐにでもいっしょに飛んでいきたいとさえ思った。

 考えるに、吟子という女性は現状に留まるタイプではないのだ。どんなに困難が待ち構えていようと、自分で納得できることなら突き進んでいく人だ。未知の世界へ冒険するエネルギーがたぎっているのだ。小柄で痩身な体は全身が希望の風なのだ。女医もその一つだったと思う。一つ達成するとまたもっと違う目標を発見し、前へ前へ、上へ上へと向かっていく、そんな人に思えてならない。そのためには今の名誉も地位も勘定に入れない。吟子はまもなく夫の冒険をそのまま受け入れたのではないだろうか。

 しかし当面は東京に残って資金援助などで協力することにした。しかし、吟子の思いはすでに北海道に走っていた。そうそうに医院を畳んだ。あれほどの辛苦のあげくに手にした医院をあっさりと閉じてしまったのだ。周囲は唖然として言葉もなかったろう。結婚のせいにして吟子を非難した。確かに常識では考えられない行動である。そもそも常識の範囲内の人だったら、婚家を飛び出しては来なかった。男の中で医学を学びはしなかった。道なき女医の制度を作らせはしなかった。吟子は英雄なのだ。凡人に英雄の心が分かるはずはない。

 吟子は幸いにも係わっていた明治女学校の舎監になって渡道する備えに入った。かつての支援者たちは遠のいて行った。吟子は再び孤独の道を行くことになった。しかし今度は夫がいる。同時に神への信仰が燃えていた。それに、医者としての力がある。開拓地には医者はいないだろう、しかし病人はいる。都会よりももっと医者は必要だろう。その人たちを助けることができる。夫の開拓事業のそばで、キリストの愛と医術をもって地域の人々に仕えたい。吟子の夢も膨らんだ。 

『利根川の風』 その14
★渡道する志方、後志(しりべし)半島の利別原野、インマヌエルの丘開拓 

 明治二四年五月、志方と丸山は横浜港から汽船で出発した。二人が入植した中焼野は瀬棚から利別川を二日遡った前人未踏の原始林であった。昼間も暗いほど木々が生い茂り、特に熊笹が密生し、開墾は困難を極めた。蚊とブヨの大群に襲われ、手も足も顔も膨れ上がった。のこぎりと斧だけではわずかな平地を作るのにも気の遠くなるような時間と労力が要った。その厳しさを吟子は想像もできない。

 越冬は不可能と思えた。丸山はどうしても残ると言い、志方は十月末に一人で引き上げた。翌年春、志方は姉夫婦など新しい仲間五人と出発した。志方は心流行る吟子を押さえた。あの未開の恐ろしい地へ妻と言えども、いや、愛する妻だからこそ、連れて行く気にはなれなかったのだ。しかし事実をそのまま伝えるわけにはいかない。もう少しめどがつくまで東京で待機していてほしいというほかはなかった。

 吟子は瀬棚の町や利別川に、生家のある俵瀬と利根川を重ねた。故郷のように懐かしく恋しい思いがこみ上げた。利別川の風に吹かれてみたい、北海道の川風はどんな風合いなのだろうと、未知の地へ憧れにも似た思いを抱いた。 

『利根川の風』 その15
★吟子の出発 利別、国縫(くんぬい)

 ついに吟子は渡道を決意した。一人で東京に残っている意味を見いだせなかった。夫婦は一心同体、生きるも死ぬもいっしょだ。吟子は相変わらず一直線であった。みな大反対であったが、だれひとり止められる者はいなかった。若くはない吟子の行くところではないのだ。東京には吟子ならではの重要な働きがいくつもあった。みな、かつての吟子が勇んで選んだものだった。富と名誉も自然についてまわり、何よりも吟子自身が女性の地位向上の見本のような存在なのだ。折しも、次期婦人矯風会会頭にとの話があったとか。姉の友子だけは、肉親ならではの情をもっておろおろと心配した。

 明治二七年六月、四四歳の吟子は単身、志方の開拓する原野に入って行った。
 志方はその地をインマヌエルと名付けた。インマヌエルとは、【神ともにいます】の意味である。彼らは理想郷建設を目指して希望に燃えていたのだ。現実には、吟子の予想した通り医者を必要とする日々が待ち構えていた。吟子は人々の間を駆け回って医療を施した。

 当時、政府の開拓奨励策もあって、全国各地から続々と大規模な開拓団が渡って行った。利別原野にもキリスト教徒の開拓団が入植してきた。志方は信仰者同士が一致すれば、理想郷の実現も進むだろうと、さらに意欲を燃やした。 

 ところが思わぬ状況になった。
 志方たちプロテスタントの信者と聖公会の信者たちの間で組織の運営などで意見の相違が表立ってきて対立状態になった。あとから入植した聖公会の人数は多く、しだいに志方たちの影は薄くなってしまった。もう、志方の意見は聞き入れられなくなった。

 志方はやる気を失い、同志たちにあとを任せて、さらに奥地のクンヌイ(国縫)にあるマンガン鉱山開発へ行くことにした。彼は熱しやすく冷めやすい性格だと人は評す。一理あるだろう。

 志方は新しい仕事しか頭にないようであった。彼もまた夢を追う人であった。

 さすがに吟子は志方より冷静であったろう。マンガン採掘など素人ができることではない。吟子は止めたに違いないが志方の意志は固かった。

 あとさきになるが、内地からやってきた志方の姉夫婦は、女子を産むと相次いで死んでしまった。他にもこの劣悪な環境に耐えられず、亡くなる人はあとを絶たなかった。吟子夫婦は姪にあたる遺児にトミと名を付けて養女とした。その後トミは吟子と暮らし、吟子の最期を看取った。

 吟子夫婦は生まれたばかりのトミを背負って奥地、国縫に向かった。しかし、成功するはずがないのは初めからわかっていた。半年を待たずして吟子夫婦とトミはそこを出ることにした。しかし、もとの開拓地、インマヌエルの丘で生活するつもりはなかった。志方は瀬棚町に出て町暮らしを計画した。もともと志方は吟子を開拓地に迎えたくなかったようだ。極寒と飢えと熊や蚊とマラリヤの惨禍にみちた地に、女医第一号の栄光に輝く有能な女性、しかも丈夫ではない妻を連れていくには忍びなかったのだ。志方の吟子への愛は敬愛に近かった。志方は吟子には下男のように仕えたという。

 吟子には志方の愛が痛いほどわかっていた。吟子もまた夫のビジョンに身を捨てて尽力する思いがたぎっていた。割り切って、渡道せずあるいは離婚して、東京で最初の使命を続けていたら、吟子はもっと大きな働きが出来たかも知れない。
 しかし吟子は自分を捨てた。
 瀬棚の顕彰碑には吟子の愛唱聖句が刻まれているとはすでに述べた。
『人 其の友の為に己の命を損なう
之より大いなる愛はなし』(ヨハネ伝一五章一三節)
 吟子は医術を持って、またキリストの愛を持って、地域社会の人たちを愛し仕えたのであるが、己を捨てる愛の対象者の中に夫志方之善が、最初に入っていたのではないか。夫への愛は神の愛による献身だと自覚していたと思う。

『利根川の風』 その16
★瀬棚へ

 明治三〇年、吟子四六歳の時、瀬棚の町に転居し、ここで吟子は渡道して初めて『荻野医院』の看板を掲げて本格的に医療に従事する。吟子のたっての願いなのか、吟子に本来の働きをさせたいとの志方の思いやりなのか、そのあたりは判然としないが、生計をたてるのにはこれしかなかったこともある。志方は医師としての吟子を助けながらも利別のインマヌエルの地を往復しながら開拓と伝道にも力を注いだ。

 ここではかなり腰を落ち着けて吟子らしさも発揮でき、慣れない気候のもとではあるが利別原野や国縫ほどの苦労はなかったのだろう。瀬棚はニシン漁の港町であり、当時は町として経済的に繁栄していた。女医が開業したといううわさで一時は多くの患者が押し寄せたそうである。しかし目立った看板を掲げることもなく、まして吟子が日本の公認女医第一号であることなど誰も知らず吟子も言わず、ひっそりした物静かなおばさん医師と言われ、それで通したらしい。いかにも吟子らしいではないか。医院では専門の性病もさりながら、日常の様々な病気を扱い、病人たちには分け隔てなく誠実に暖かく応対した。往診にも出かけた。

 馬に乗る吟子のかたわらで、志方は轡を取り、患者の家々を訪ねた。志方は吟子をいつも労り下僕のように仕えた。夫婦は確かにキリストの愛で結ばれていたのだ。お互いの人格を尊重し、お互いのビジョンを理解し、相手の必要に徹しようとする自己犠牲の愛があった。吟子も志方もともに生きることに喜びを感じていたのだろう。幸せ感を味わっていただろう。端が見るほど不幸でも失敗でもないのだ。吟子にはいつでも『人 其の友の為に己の命を損なう 之より大いなる愛はなし』が息づいていた。 

 瀬棚では吟子の持ち前の実践力が働き出した。吟子は頭脳明晰であるが、机の上の人ではなく体の動く人であった。医師として町の人たちには一目も二目も置かれていたから話は早かった。町の有力婦人たちに呼び掛けて『淑徳婦人会』を立ち上げ、自分から会長になった。会にはいわゆる町の名士婦人たちが集まってきた。村長夫人、警察署長夫人、神社宮司夫人、住職夫人、呉服屋や小間物屋、菓子店の主婦などが主だった人たちであった。活動内容は、吟子のことだからまず女性としてのあるべき考え方や女性たちの地位向上のための講座、また病人の救急法や衛生面のことなど医師の立場からの知識を教えた。さらに親睦の場もある会であったようだ。吟子の頭の隅には東京の婦人矯風会があったと思う。吟子はここでは張り合いと生きがいを感じてうれしかったに違いない。

 さらに吟子は日曜学校も作った。志方もかかわった。インマヌエル教会の牧師や、宣教師ローランドも応援した。ローランドの国や日本に来た動機などは今の所資料を見つけられないが、瀬棚には二度訪れており、伝道の演説会もしている。吟子がこうした伝道にも一線に立って働いているのを見ると、信仰が単に精神的なものではなく、生活そのものになっているのを知る。吟子は生きた信仰者であった。だからこそ、自分の過去の栄光に捕われず、もちろんひけらかすこともなく、辺境の地で黙々と隣人愛に励み、日々の働きに喜びを感じたのだ。吟子は大東京の医療や社会活動と同じ重さで瀬棚のそれにも体当たりした。  

『利根川の風』 その17
★志方、学業復帰、同志社へ 

 一方、志方にはずっとくすぶっている課題があった。もともと志方は伝道者、つまり教会の牧師になるために人生をスタートさせたのである。その準備のために同志社に学んでいた。たまたま夏期伝道に参加して大久保牧師に同行し、秩父で伝道を終えて関西へ帰る途中に吟子宅に宿泊したのであった。そこで、吟子に出会ったところから方向が変わってしまった。同志社を中途止めにして情も意志も吟子に傾注してしまった。やがて北海道の開拓にのめり込んで行った。命も惜しくなかったインマヌエルの理想郷建設は、志方のビジョンを越えて大勢の人の手で、そこそこ進んでいる。

 志方は中途半端な立場であり、不完全燃焼なのだ。彼はいつも真っ赤に燃えていたいのだ。立ち止まること、まして座り込むことは彼の性分ではないのだ。ふと、心の隙間に囁くものがあった。中途にしている同志社の学びに決着をつけて正式に牧師になろうと。牧師になって教会に仕え、伝道するのだとの思いが満ち満ちてきた。ローランド宣教師の強い勧めもあったようだ。

 明治三六年九月、四十歳の志方は京都の同志社へ再入学し相国寺畔の寄宿舎へ入った。吟子とトミはそのまま瀬棚である。時に吟子は五二歳、渡道して十年近くが経っていた。志方が京都にいる間に、吟子は勧める人たちがあって札幌で開業した。医師会名簿にも登録した。しかし理由ははっきりしないが、一年ほどで瀬棚に戻っている。札幌は吟子が精魂込めて活動できる地ではなかったようだ。その間にインフルエンザに罹って一時熊谷の姉友子宅で療養している。夫の志方は京都である。幼いトミを連れて、札幌、熊谷、再び瀬棚と、吟子の足取りをたどるとその時々の吟子の心境がおのずと偲ばれる。いくら奮い立っても逆境の中では平安な笑みは浮かばない。もともと吟子は寡黙で笑顔の少ない人だったようだ。

 同志社を卒業した志方は浦河教会の牧師として赴任した。念願かなったのである。しかし同じ北海道とはいえまたまた別れ別れの生活である。吟子もトミも寂しかったに違いない。ところが志方は早々に浦河教会の牧師を辞し、ひとりで自給伝道することにした。この辺りに来ると、志方の行動には着いていけないし共感もできなくなる。なぜ落ち着いて一つのことに身を入れることができないのか。半年ほど自給開拓伝道に奔走し、基礎が固まりつつあった。たが、どうしたことだろう、一度も寝込んだことのない強靭な志方が、高熱にうなされ、吟子は肺炎を疑ったが、数日で息絶えた。明治三八年九月二三日、志方四二歳であった。吟子が渡道して十一年の歳月が流れていた。

この書も終わりに向かっている。もの寂しく悲しい。吟子の身の上に起こった出来事を拾い集めてみれば不幸な人、悲劇の人と言わざるを得ない。世間はそうやって吟子の人生の収支報告書を出している。しかし、そもそも、その評価に不服で、吟子を追かけてみたのだ。吟子は志方が利別原野に最初に入植し、一足を付けたインマヌエルの丘に彼を葬った。これを知った親戚たちは東京へ戻ることを勧めた。志方がいない以上、吟子のいる意味がないとの思いからだったのだろう。しかし吟子は同意しようとはしなかった。吟子にとって瀬棚は志方以上に生活の場であった。志方がどこへ行こうとも吟子は町の医者として町の社会活動家としてしっかり町に根を下ろした生活を営んできた。志方のそばに単に妻としていたのではなかった。瀬棚の人たちは、吟子は知っていても志方を知らない人が多かったそうだ。現に、吟子が往診の時、馬を曳く志方を、下男と思っていた人もいたほどである。

 吟子には瀬棚は立ち去りがたい愛着の地であった。自分の半生を掛けて愛し従ってきた夫、働きの同志でもあった人生の同伴者を残すには忍びなかった。夫の墓に骨をうずめるのが本意であった。吟子はトミと静かな暮らしを続けた。しかし、吟子は老いていた。臥せる日もあった。姉の友子からは毎月のように帰京を促す便りが届いた。いっしょに暮らそうと言うのだ。そのころ友子は夫とはとうに死別し、子や孫も成人し、一人暮らしであった。吟子は長い間経済的に支援されてきただけに、姉の誘いには心が動くのであった。恩返しの思いも働いた。トミの将来のこともあった。自分亡きあと身寄りのないトミを僻地に残すのは養母としての責任から不安があった。今ではトミは吟子の支えでもあった。 

『利根川の風』 その18
★十二年ぶりの帰京 墨田区本所小梅町へ 

 志方の死後、吟子はなお三年瀬棚にいた。瀬棚は吟子には生まれ故郷の俵瀬につぐ、長期に住んだ土地であった。戦い激しかった、また、栄光の東京には、順天堂に入院の時から数えると二四年になるが、医者として活動したのはわずか六年に満たない。瀬棚で開業していたのは十一年に及ぶ。吟子は北海道の人になっていた。思えば、志方も吟子も世渡りの下手な人たちであった。これは否めない事実である。
 が、吟子はついに帰京することにした。

 吟子が渡道する時は、反対の声の渦巻く中を突っ走った。しかし、離道に際しては、瀬棚町の人たちが別れを惜しんでくれた。この町でこそ、吟子のキリストのスピリットは大きく開花したのだ。聖句の様に、吟子から愛を受けた人たちが別れを惜しみ涙した。
『人 其の友の為に己の命を損なう
      之より大いなる愛はなし』(ヨハネ伝一五章一三節)
 明治四一年十二月、吟子は五八歳になっていた。
 吟子は友子が用意したであろう隅田川の東岸、本所小梅町に住むようになった。かつての本郷や下谷はあえて避けたのかもしれない。吟子が初めて上京してから、また東京を不在にした十年余りの間に、明治の世は、特に東京はフルスピードで姿変わりをした。医学界の女性の活躍は目覚ましかった。明治十八年に吟子が初の公認の女医になったときはたった一人であったが、吟子の開いた門には洪水のように女性たちが押しよせた。明治三三年には、二七番目の女医、吉岡弥生が東京女医学校を開いている。三五年には十一番目の女医前田園子の声で日本女医会が設立された。女子教育も開かれていた。津田梅子が津田英語塾を、さらに翌年には日本女子大が開校した。女医界も女性教育も飛躍的に前進した。

 吟子は目がくらみそうであった。医学そのものは日進月歩、吟子が学んだ医術はもう過去のものであった。

――私は女浦島太郎――

 しかし吟子は過去の栄光をなつかしみ、感傷に更けり、立ち止まり座り込む人ではない。
もとより野心はない。道なき道を前へ前へと進む人である。婦人矯風会も過去の一ページ、再び訪れる気持ちはない。
 吟子は心身に老いを感じながらも、小梅町の自宅に医院を開設した。在京時代に深く係わった人たち、女医になるまでに支援してくれた多くの人たちと旧交を温めあうことができたであろうか。ある資料には、吟子の身内が近寄ってきて、小梅町の家に親しく出入りしたとある。姉友子の仲立ちによるものであろう。

 残念ながら俵瀬の実家は紆余曲折の内に没落して跡形もない。そのかわり、上京している者が幾人かいた。

荻野家の血筋の者たちは、一門から日本初の女医が出たことが大きな誇りであったようだ。吟子と友子とトミのおんな三人暮らしの家は結構賑やかであった。

 『荻野医院』であるが、吟子の手に負えない病気もあったが、今までの処方で間に合う患者も多くいた。今でいえば『かかりつけ医』、『ホームドクター』である。人々は気軽に吟子の医院を訪れ、喜んで診察を受けた。

はからずも、『信仰に生きている吟子の、自然ににじみ出るような徳性は人を引きつけずにはおかなかった』と、ある吟子研究者の証言を目にして、胸が熱くなった。

 ★吟子の最期

 小梅町での穏やかな五年余りが過ぎた大正二年(一九一三年)三月二三日、吟子は肋膜炎を併発して病床に臥した。さらには、姉の友子、養女トミを初めとする近親者の必死の看病のさなか、五月二三日は脳卒中を起こし、一か月の後の六月二三日、吟子は波乱の人生を終えて神の御元に旅立って行った。六二歳であった。
『人 其の友の為に己の命を損なう
之より大いなる愛はなし』(ヨハネ伝一五章一三節)  

『利根川の風』 その19
 ★利根川の風の中で・生誕地に立って

この書を閉じるにあたって、生誕の地を訪問した。最後に、生誕の地訪問を記すのは順当ではないが、そもそも、終焉の地に立ったことから吟子を追かける旅が始まったのだ。終わりからの始まりであったわけである。

 だれのことであれ、どこでこの世に第一声を上げ、どこで最後の息をしたかは興味深いものがある。その間にその人の人生模様がある。誕生と死が同じ場所の人は今では少ないかもしれない。異国の地で客死した人もいるであろう。吟子がその信仰に生きたイエス・キリストは、ユダヤのベツレヘムの家畜小屋で旅の途中に生まれ、エルサレムの丘で十字架にかかって亡くなった。

吟子は利根川の風に包まれるようにして産声を上げた。そして、隅田川の水を流す横十間川の源森橋のたもと近くで息を引き取った。そのとき吟子の耳には利根川の水音が聞こえ、一陣の川風が頬をかすめたかも知れない。六二歳とは、今では若すぎる死である。あと二十年生きていてほしかったと思う。吟子より一八歳年上の矢島楫子は九二歳、羽仁もと子も八四歳まで生きた。

 俵瀬は交通網の発達した今でも行きにくい僻地である。

 八月の末、暑さの和らいだ日に、熊谷市の荻野吟子生誕の地顕彰碑と記念館を目指した。高崎線普通電車で上野から一時間余りである。その後はバスに乗る。これも一時間を要した。バスは果てしなく広がる田園の中を走る。青空の下に畑や田んぼが整然とフラットな大地を埋めつくしている。点在する家々はまるで住宅展示場からそのまま運んできたモデルハウスのようだ。人々の暮らしの豊かさを物語っているように感じた。バス停の終点で下車。帰りの時刻を睨みながらまずは生誕の地へ。ちなみに降りたのは私一人であった。記念館見学者も終始一人であった。

 見上げるような顕彰碑に惹かれた。幅2メートル、縦3メートルほどの大きな石で、読むにもカメラに収めるのも難しかったが、碑の後部に、吟子女史の愛唱聖句『人 其の友の為には 己の命を捨つる 之より大いなる愛はなし』(ヨハネ15章13節)がしっかり刻まれているのがこの上なくうれしかった。この碑は北海道の瀬棚に同じく顕彰の碑が建てられたのに触発されて一年後に設置されたと、これもたった一人の記念館のボランティアの老男性が語ってくれた。

 この地を訪ねた大きな目的は利根川を見ること、利根川の風に吹かれることであったから、碑の裏手に見つけた階段を上がって土手に上った。広い河川敷のはるか向こうに利根川は静かに流れていた。吟子の産声を聞いたであろう利根川、失意の吟子が実家へ戻る心のうめきを聞いたであろう利根川だと思うと、胸が張り裂けそうだった。

ちょうど快晴に近い空の下を微風が吹いていた。心地よい風であった。しかし、離縁覚悟で家出してきた吟子には剣の刃先のように痛かったに違いない。

 今、私を急き立てるのは北海道の利別川の風と吟子が十年以上暮らした瀬棚の空である。

 吟子をその地へ導かれた神が、鷲の翼に乗せて連れて行ってくれる日を待望している。
                                   おわり
▼参考資料
『続すみだ ゆかりの人々』墨田区教育委員会社会教育課 
『荻野吟子 実録 日本の女医第一号』 奈良原春作 国書刊行会  
『花埋み』 渡辺淳一 新潮文庫
『人物近代女性史 明治女性の知的情熱』瀬戸内晴美編 講談社文庫 
『明治の女性たち』 島本久恵 みすず書房
『黙移』相馬黒光 日本図書センター
『とくと我を見たまえ 若松賤子の生涯』山口玲子 新潮社
『人物近代女性史 自立した女性の栄光』瀬戸内晴美編 講談社文庫
『ふぉん・しいふぉるとの娘』吉村昭 新潮文庫
『我弱ければ―矢嶋梶子伝―』三浦綾子 小学館
『時代を駆け抜けた三人のなでしこたち』DVD いのちのことば社
その他パンフレット等

▼訪問地
吟子終焉の地 墨田区向島   
吟子の写真を見に国立国会図書館 
吟子の墓地 豊島区雑司が谷霊園  
本郷教会 吟子受洗の教会 文京区真砂坂上 
荻野医院開業の地 千代田区三組坂下    
明治女学校跡 千代田区六番街   
吟子生誕の地 熊谷市妻沼町俵瀬  
吟子夫妻渡道の地 北海道久遠郡せたな町