日々の泉

 大江健三郎逝く   寄稿者   草枕

2023年3月3日に88歳で大江さんがこの世を旅立った。ついにあの巨匠も生を終えたのかと、しみじみと哀感を覚える。私の半世紀以上の歳月、なんとなく眼中にいた人であった。特別な愛読者でもなかったが、物書く上で教えられることが多かった。近年、大江氏の話題に接することがなかったので、どうなさっているのかなと思うこともあった。

私が高校生の頃だったろうか、大学生の大江氏が「芥川賞」を受賞したことに大きな衝撃を受けた。そのころ私は書くことにほのかな憧れを抱いていた文学少女だった。「死者の驕り」という小説を読んだが、よくわからず、共感できなかった。その後しばらく作品に触れることはなかった。ただし、大江氏に大きな知的障害を持つ息子さんがおられ、氏がケアのために全力で取り組んでおられるのを知り、氏の人間性に深く感動した。偉大な作家である前に一人の「父親」として苦闘する大江氏に親しみを感じ、応援したいような気持になった。

大江氏が愛媛県の山深い地に生まれ育ったことにも興味を抱いた。ご両親やご家族のこと、村の様子がいくつもの作品に鮮やかに書き込まれていて、次第に氏への関心が深まっていった。ひとつひとつ覚えていないが、氏の視点や感じ方を追えるようになった。

大江氏が渡辺和夫という東大の先生を深く尊敬し、先生の下で学びたくて東大に入ったことに深く心打たれた。学ぶということはそういうことなのかと知ったのだ。渡辺先生は大江氏に、作家生活を続ける上で3年毎に一つの主題を決めて書物を読み進めていくといいと助言を与えたという。大江氏はそれを実践し創作に取り入れていった。私は先生のアドバイスに深く感銘を受けた。なるほどと、心の底にすとんと落ちた。以後、曲がりなりにもまねをして、興味を感じた作家や歴史のある時代の書を出来る限り読んだ。ひとつのテーマに没頭することに喜びを覚え、一区切りとして私なりに小作品にまとめてみたりした。それは今も続けている。

大江氏の作品から遠ざかって久しい。今も創作活動を続けているのだろうか、それにしては情報がない。体調が悪いのだろうかなどと想像していた。突然のように3月3日に88歳で他界した。「老衰」と報じていた。「老衰」、「老衰」・・・。ご自宅で静かに息を引き取られたということなのだろう。これは大江氏のはっきりした意志の表れであろう。すばらしい意志ではないか。大江氏ほどの方ならその気になれば現代医学の最高の終末ケアーを受けられただろう。しかしおそらく大江氏は自然な死を選ばれたのだろう。ご家族も同意されたのだろう。「人は生きてきたように死ぬ」とよく言われるが、氏の生き方の根本は自然体だったのだろう。その延長に自然死があったのだろう。

一時期はノーベル文学賞までいただき、世界的文学者として名声を馳せた大江氏だが、晩年は無理してのお仕事はしなかったのだろう。体も心も自然に任せて、穏やかに暮らしたのではないだろうか。私の勝手な想像であるが。そうした大江氏に限りない親しみを感ずる。大江氏の生き死を大いに参考にしたい。

2023年03月31日
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