五十嵐建治が日本初のドライクリーニング会社「白洋舎」を創立したのは1906年、30歳の時でした。利益ではなく奉仕のために働くというのが創業の精神でした。当時の参議院議長片岡健吉が早朝の教会で教会員の草履を修繕していたという話に感動し、「奉仕の精神をもって人様の垢を落とさせていただく」という決心を固めたのです。
創業当初、五十嵐はクリーニングを神からの業と信じ、正直誠実にやりさえすれば理想を実現できると考えていました。しかし現実はそう簡単ではありませんでした。工場の爆発事故、悪質な職人や社員による横暴・不正、関東大震災による壊滅的打撃など、数々の災難に見舞われたのです。そのような困難な時に五十嵐に勇気と忍耐を与えたのは聖書の言葉でした。「神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私は決してゆるがされない」(詩篇62篇2節)、「自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。悪に負けてはいけません。かえって善をもって悪に打ち勝ちなさい」(ローマ12章19節~)。これらの言葉を実践することで道を切り開いていきました。
創業3年目にライバル社が出現した時、競争相手への脅威を感じながらも、五十嵐はその恐れを克服し、なお一層の知識習得と技術研鑽に励みました。その競争は結果的に、あまり知られていなかったドライクリーニングの宣伝に大いに役立ち、会社の向上発展にもつながりました。さらに創業10年目、社員が反旗を翻し、従業員の大部分を抱き込んで白洋舎を転覆させようとした時も、「自分で復讐してはいけません」という聖書の言葉に従い、残った数人の社員とともに必死の努力を重ねました。そして以前の倍する業績を達成したのです。五十嵐は後に「もし神の憐れみがなかったならば、私は憎悪と復讐心のために身を誤るようなことがあったかもしれません」と述懐しています。
このように五十嵐はキリストの愛とクリーニング業に生涯を捧げた人物でした。実は彼は貧しい養父母に育てられ、16歳の時に一攫千金を夢見て放浪の旅に出て、19歳の夏、小樽で受洗しています。その小樽に新潟からはるばる訪ねてくれた乗松雅休の愛を終生忘れず、彼自身も辺地に住む一人ひとりを訪問して励ます人となりました。旭川で自暴自棄の療養生活を送っていた無名の三浦綾子も、たびたび五十嵐の訪問を受けた一人です。彼女が後年作家となり、五十嵐の伝記小説『夕あり朝あり』を著すことになろうとは、当時は思いもしなかったことでしょう。