「私の周りにだけ人がいない」「キモイと言われてとてもつらく」。今朝のA朝刊は、自分の教室で首をつりした当時小学6年生の少女の遺書を公開しいていた。
事件は昨年9月9日のことで、少女は意識不明のまま今年1月に亡くなった。1年経った今ごろ、明るみに出たのだ。
事件がおおやけになるまでにどうしてこんなに時が経ってしまったのだろう。もっと早くわかって、少女の様子やご家族の苦悩が世間に伝えられていたら、問題の解決にまでは至らなくても、なにかがよい方に向かったのではないか。
例えば、彼女を死地にまで追い込んだ級友たちが、自分たちのしたことの大きさに早く気が付いて、病床を訪れ、謝罪ができたのではないだろうか。そのような当然のことは、私たちが知らないだけで、すぐになされていたのかもしれないが。
少女の母親さえ娘の苦悩を知らなかったようだから、少女はじっと一人で悩み苦しんでいたのだろう。しかし、SOSのサインのようなものを何一つ発信しなかったのだろうか。
新聞の紙面をかいま見ただけで、部外者が物申すのは短慮すぎるだろう。しかし、かけがえのない一つのいのちが失われたのだ。奪われたのならまだしも、自らいのちを絶ったのだ。どうしようもない悲しみを感じる。誰にぶつけるのでもないが、どうにかならなかったのかと叫びたい。
彼女に心ない言葉を浴びせかけた級友たちは今中学一年生、なにげなく学校生活を楽しく送っているとしたら、恐ろしいことだ。きっと、心の奥ぞこには罪の意識があるだろう。人間の良心は簡単にはごまかせない。罪の意識は彼らのこれからの生き方に暗い影を落すであろう。
大人たちは子どもたちが健全を成長させる貴い使命をいただいている。特にそのことを一生の職業に選んだプロの方々の責任は大きいものがある。また、子どもたちの家族や親戚や周辺の大人たちにも果たすべき役割がある。そしてさらに、当事者たちを知らない私たちも、大人として、愛する祖国の子どもたち、共生する世界の子どもたちへの責任がある。
話が飛躍したが、恐ろしい孤立感の刃の前に自らのいのちを投げ出してしまったか弱き少女の死を悼み、失われたいのちを心から惜しみます。少女のいのちの源を造られた神様も、深く悲しんでおられるにちがいありません。