2006年の新年からスタートした【聖書の風から】もいよいよ最終回である。開始するにあたり私は次のような前口上をした。
このカテゴリーは、聖書66巻全巻を1巻ごとに大きく見回し、ワンポイントで私見する、聖書エッセイです。【希望の風】発見の旅でもあります。
回数も57回を数えた。57回とはおかしいではないですか、聖書は新旧合わせて66巻とは子どもでも知っていますよ、と言われるだろう。66に満たないのは、1と2からなっているのは1回にしたり、小預言書はひとまとめにしたり、反対に詩篇などは一つを2回、3回に分けたりした結果である。おりしも最終日の今日は8月31日、月の終り、夏の終りで、区切りがいい。私の気分もいい。達成感というのだろうか。つまらない自己満足だけど、うれしく感謝なのである。
8か月間、バイブルロードをひた走りに走ったと言えば聞こえはいいが、道路規則もマナーも無視して自己流を通したにすぎない。威をただして粛々と歩む方々にはさぞご迷惑だったろう。次のチャンスにはもう少し内容を充実、品格ある聖書旅行をしたいと思っている。
さて、1,2,と書いてきたヨハネの黙示録を締めくくりたい。
全篇22章中、20章までは終わった。残るは最後の2章である。ここは大変分かりやすい。もちろん字面だけであるが。この地上の生を終えて後、導かれる場所、天国の様子が
説明されている。
天国とはどんなところであろうか。
21章3,4節
『見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである』
23節
『都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである』
人はどうあっても必ず死ぬ。どんなに健康でも死を免れることはできない。そして人はなぜか死後の世界の有無について論じ続けている。死後が心配だからこそではないか。なぜなら、人に、永遠を思う思いを与えられたのは神だから。
天国の存在を信じることができて幸いだと思う。そこに入れる恵みをいただいていることを大いに喜ぶ。単なる現実逃避ではない。御国ほど慕わしいところはない。最大の理由は、愛する主イエス・キリストに直にお会いできるからである。主とともに永遠に生活できるからである。
主は言われる。22章12節~14節
『見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。… 自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都にはいれるようになる者は、幸いである』
聖書には希望の風が軽やかに、涼やかに、絶え間なくそよいでいる。神の用意してくださった新天新地、天国では、もう希望の風はいらない。希望の風の実体であるイエス・キリストがおられるのだから。
この地上で生かされる限り、希望の風なるお方を慕い求め、風のそよぎを喜び楽しみ、天に帰る日を最大の望みとしたい。