(前回は、友人と法律家が裁判をするように勧めに来て、いよいよ返事をする段になり、H氏が妻の考えを求めたところでした)
「どうするかね」かたわらの妻に聞いてみた。さすがに即答はできかねた。
妻は終始無表情で聞いていた。
「この話はお断りします。私たちは恨んでいませんから」妻はあっさりと言った。
唖然としたのは彼らだけではなかった。だが、私は、これでいいと即座に決意した。信仰一筋の妻が神により頼み、神がいちばん喜ばれることを選んだのは明らかだった。客人は程なく退散していった。
妻の言い分はこうであった。
「あの人は会社に恨みを持っている人でしょう。そんな人に任せたら、神様の喜ばれる結果にはならないとおもう。そんなお金なら返らなくてもいい。お父さんのこの度のことは神様もご存じのことだと思っている。Sさんの愛も神様から出たことです。ヨブ記の『主が与え、主が取られたのだ。主の御名はほむべきかな』この信仰に従いたい。
私はひとつのみことばを思い出し、信じてきました。『主の手は短かろうか。今あなたはわたしの言葉がなるかどうか見るであろう』神は力強い御手を伸ばして私たちを守り、必ず神様のわざが起こされると信じてきました」
妻の信仰は結婚以来、いや結婚前からずっと見てきたが、この度ほど驚かされたれたことはなかった。私はただかぶとを脱いで敬服するばかりだった。
S氏に取って私は親戚でも友人でもなんでもない。私がたとえ借金を申し込んでもS氏には一銭も出す理由はない。それを黙って提供してくださった。返すのはいつでもいいと言うのでもない。無条件で差し出してくださったのだ。
S氏が大富豪だとは聞いていない。いや、たとえ億の富を持っていても、3××××万円を施す人は日本にはいないであろう。人にはできないことなのだ。神にしかできないことだ。S氏を動かしたものは神である。それ以外に説明のしようがない。むろん、S氏は自発的にご自分の信仰による深い愛からそうしてくださったのだ。工面してくださったのだ。大きな犠牲があったにちがいない。
これが本物の愛というのだろう。この偉大な愛を実物としてみたのは初めてであった。聖書には『世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか』とあるが、この通りを実践したS氏は偉大な信仰者だと思う。その愛の対象にされた自分をつくづく幸せ者だとおもう。この愛にどのように報いたらいいのだろう
しかし、当時の私は、どんなに努力しても上司に対する怒りと憎しみを消すことはできなかった。一生、心の傷を抱えながら恨み続けるだろうと思った。(続く)