差出人も分からず宛先もはっきりしない文書を手紙と呼べるだろうか。本書はその点ではちょっとミステリアスな手紙である。それだけに人の好奇心や想像力を刺激してきたらしい。差出人にはパウロを始め新約聖書に顔の見える多くの人が候補にあげられている。だが決め手はない。宛先はおよそパレスチナ以外のユダヤ人だと言われている。
内容もかなり難しい。とくに前のピレモンへの手紙の余韻を引きづりながらだと、とまどってしまう。しかし読み進むうちに、大祭司としてのイエス・キリストがはっきり見えてきて、厳粛な思いになる。神様の御前で取りなしのご労をとってくださるイエス様に非常な親しみを覚える。ふと、ピレモンの文が思い出され、オネシモをとりなすパウロがこの手紙のイエス様と重なってくる。
また、この手紙から信仰とはなにかが鮮やかに見えてくる。
『信仰がなくては神に喜ばれることはできません』の一節には忘れられない思い出がある。日本が生んだ世界的な大伝道者本田弘慈師が、ことあるごとに叫ぶようにまた噛んで含めるように用いておられた。いまでも耳の底から先生の声が響いてくる。
特に11章、12章は信仰街道の頼もしいエンジンとなってくれる。弱くなったとき、疲れたとき、失意に陥ったとき、希望の風を感じなくなったとき、力になる箇所である。
『信仰の創始者であり、完成者であるイエス・キリストから目を離さないでいなさい』を読むと、視線の向けどころが間違っているのに気付き、正される。
イエス様から目をそらすから、不満や不平や失望落胆に取り付かれてしまうのだ。イエス様だけを見ていたら、微笑むイエス様に微笑み返さずにはいられないではないか。ああ、信仰とはこのことなのだと、わかってくる。難しいようでやさしいヘブル人への手紙が私はとても気に入っている。