(小自分史(4))三十代後半から四十代半ば 再出発、再々出発   投稿者 草枕

神様から『永遠の愛』をいただいた私は、予測されたあらゆる危険から守られ、左足切断の危機も脱して予定の半分で退院できた。多少の障害を抱えることになったが日常生活に大きな支障はなかった。
ところが、夫との関係はもはや修復不可能だった。
十五年の結婚生活はもろくも砕け散った。

三十六歳の早春、私は二人の娘とともに再出発することになった。
早速、食、住の強風に体当たりされた。
「家に部屋があるじゃないの。使えばいいのでは」
父母が提案してくれた。それまで、私たちは実家の近くに一戸建てを構えていた。
「三浦さん、これからは教会の職員として働いてもらいます」
教会から声がかかった。幼稚園の仕事が主だった。それまでも時間があれば園児たちの中に入って奉仕してきた。教会に仕えながら暮らしていけるのは願ってもないことだった。神は、『苦しむとき、そこにある助け』であった。
この神の愛さえあれば、きっと生きていけると固い確信に立つことができた。

「スピードの三浦さん、パワフル・ウーマン」といくつかの異名を付けられながら、私は教会の真ん中で夢中で働いた。それがかっきり十年続いた。
私はもう以前のように自分の生き方に不安や疑問や後ろめたさを持つことはなくなった。すべての罪とがを赦された喜びがあった。
――たとえ貧しくても、清い経済でこどもたちを育てたいーー
教会の片隅で、神の宮で、一生を過ごせたら、これこそ本望だ、これは神が与えてくださったまことの生き方ではないかと、私は満足しきっていた。

十五歳の時から導いてくださった牧師は、まるで娘のように親身になって祈り支えてくださった。
恩師の牧師が八十歳になろうとしていた。戦後まもなく焼け野が原の東京下町に開拓伝道を志し、後半生をささげ尽くした、愛と力にみちた偉人であった。
第一線を退く時期にきていた。若い牧師家族を迎えるにあたり、教会は幼稚園を廃園に決めた。私は不用の存在となったわけである。
娘たちは二人とも高校生であった。大学を目指していた。子どもたちのためにもう一踏ん張りせねばならない大切な時期だった。が、胸突き八丁の一番苦しいときに、頼みの手足をもぎ取られてしまった。途方に暮れ、詮方尽きる思いであった。

私はまた神様のみ心がわからなくてうめいた。主の教会に仕えることがなぜ閉ざされるのか。私は不要品なのか。神様は私を捨てるのか。私は紙くずにすぎないのか… 
思えば,この時の打撃が生涯で最大ではなかったか。
しかし、ここから今までになく強い太い導きの光が差し始めた。

2025年08月18日