ヨブは「誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっていた」(ヨブ1章2節)と評された人です。その彼が、数々の苦しみを経た後に、「私は自分を蔑み、悔いています。ちりと灰の中で。」(42章6節)と告白します。そして神はヨブを回復させ、二倍の祝福を与え、最後に「こうしてヨブは死んだ。年老いて満ち足りた生涯であった。」(42章17節)と結ばれます。これがヨブ記の大きな流れです。
正しいと認められていた人が、なお悔い改める。その事実は、初めて読んだとき、少なからず驚きをもって受け止めました。しかし、読み返すうちに、別の思いが与えられるようになりました。ヨブが正しい人であったのは、悔い改める心を失わなかったからではなかったのか、ということです。正しいから悔い改めるのか、悔い改めるから正しくされていくのか。その二つは切り離せないもののように思えてきました。
自分の歩みを振り返ると、「自分は正しい」と思い込んでいるときほど、かえって神の前に立つことを避けていたように感じます。むしろ、「私は何を悔い改めるべきなのでしょうか」と問いかける心こそが、神との関係を新しく保つのではないでしょうか。ヨブほどの人でさえ悔い改めたのだとすれば、わたしたちはなおさら、神の前に静かに自分を差し出す必要があるのだと思わされます。
悔い改めとは、自分を責め続けることではなく、古い自分を手放し、主に従って新しくされていく道なのだと思います。自分で握りしめてきた人生の領域を、少しずつ主にお委ねし、主役の座をお返ししていく。そのとき、ヨブが告白したように、「あなたには、すべてができること、あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、私は知りました。」(42章2節)という言葉が、わたしたち自身の言葉になっていくのかもしれません。
2025年もあと一日です。「自分は正しい」と思い込む者ではなく、「私は何を悔い改めるべきなのでしょうか」と問いかける心で一年を終えたいと思います。