(小自分史(2))十代 聖書から教会へ   投稿者 草枕

私の十代こそ、わけても十五歳こそ黄金の年、生涯最良の年ではなかったか。五十年を経た今になってその感を深くしている。輝かしくもイエス・キリストの救いに預かった勝利の年だからだ。
そこへたどり着くまでには多少の道のりがあった。

あるころ、妹二人の話がなぜか心に引っかかった。私の知らない言葉が出てきたせいである。
「日曜学校で…」
「日曜学校が…」と言うのである。
日曜学校?
学校といえば、一つしか知らない。日曜日に学校へ行くとは聞いていない。おかしいではないか。どうやら普通の学校とはちがうところらしい。胸がざわざわと音を立てた。妹ごときが私の知らない場所に出入りしているらしいのだ。姉として許せなかった。私は四人姉妹の長姉を笠に着てひどく威圧的な支配者だったらしい。面子もあって率直に聞けない。何気ないふりをしながらも神経を尖らせていた。

妹の手に真っ赤な小さい本を見たとき、面子は消えていた。
「なによ、それ」
「日曜学校でもらったの」
「ふーん」
見たこともない色と形に心奪われてしまった。
何の本だろう、何が書いてあるのだろう。ほしい、ほしいなあ、私も!
心がうずいてしかたがない。
「もらってきてあげようか。だれにでもくれるよ」
「ほしいでしょう、自分でもらいに行けば?」

妹たちに心の内を見透かされたようで、怒りがこみ上げてきた。
「そんなもの、いるもんか。ほしくなんかない!」
強がりを言って話を切ってしまったが、それ以来、赤い小さな本が忘れられなくなった。後で知ったことだが、新約聖書の分冊で、ヨハネの福音書だった。

中学三年生になって、高校受験が不安で仕方がなかった。加えて青春前期特有の情緒の高潮を浴びていた。魂の飢えが始まっていたのだ。
「お姉ちゃんも教会に行ったら。日曜学校でなくて大人の集会がいいよ」
妹の一声にこの時ばかりは抵抗しなかった。実に不思議だ。私は初めて教会なるところに、しかも礼拝に、たった一人で出かけていった。その道がなつかしい。

ずっと後になって、同じ道を、子どもを抱き、手を引き、肩を並べて通ったものだ。今は、時に老いた母と通う道でもある。
三ヶ月後のクリスマスに、私は早くも洗礼を受けた。

2025年08月16日