8月15日に出発したネット『カラマーゾフの兄弟』読破ツアーは、12月25日クリスマスの朝、予定より10日をオプションして、全員無事に帰国いたしました。無事にとは、全員があの大作『カラマーゾフの兄弟』を読み終えて、4回に渡る旅日記(感想文)を提出したことです。
途中帰国する方が一人もおられなかったことが、なによりも第一の収穫です。かなりの強行軍でしたが、さすが長年鍛えた健脚がものを言ったのか、弱音を吐く人もなく、かえって終りに近づくほど、意気盛んでした。皆さんが異口同音に、参加してよかったと言ってくださったこと、ツアコンとしてはこれ以上の喜びはありません。
最終旅日記は合計でA4版19ページの圧巻となりました。回を追うごとに感想文もりっぱになり、一冊にまとめて出版したいような気持になりました。
最終旅日記から、9名の抜粋文をご披露します。
Fさん(女性50代)
12月4日にようやく読み終えました。最後はアリョーシャの言葉を読んで号泣。
『カラマーゾフの兄弟』読破ツアーに参加してよかったと心から思いました。ひとりなら完読しなかったでしょう。
最初読みづらかったのと、内容が理解できないので、ツアーに参加したことを後悔しました。感想などとても書けないと思って、ツアコンの希望姉に途中下車します!と書き送ると、「空の旅ですから途中下車はできませんよ」とお返事をいただき、悲鳴を上げつつ読み進めていきました。
4か月のツアーの間に父の葬儀と息子の結婚式があり、激動の時を過ごしました。つらいときでも本を読むと『いま自分はロシアにいるのだ』という気になり、(現実逃避かもしれませんが)気がついたら悲しみの波が去っていたという感じでした。旅の仲間たちの存在も心強く、同時期に9人が同じ本を読んでいるのだという連帯感が孤独から救ってくれました。
イリューシャの埋葬で小説が終わっているのは意味深いことだと思いました。
父の死を目の当たりにして、人の命のはかなさを感じ、『生きるとはどういうことなのか』深く考えさせられたこの時期に読むには、あまりにもぴったりすぎました。主のくすしい導きを感じて、心が震えています。
アリョーシャが石の傍らで語った言葉は、遺された者にとってなんと慰めに満ちた愛のあふれる言葉なのでしょう。読むたびに涙があふれ出ます。
「美しいひとつの追憶がわたしたちを大いなる悪から護ってくれるでしょう。」「われわれの心のよき記憶を捧げようではありませんか。永久に変わることなく!」
天国で再会するという希望のメッセージにドスト氏の信仰を見、ヨハネ12:24のみ言葉が書かれていた意味をようやく見いだしました。
Sさん(70代男性)(S氏は全巻を一節ごとにまとめてくださいました)
第三 イリユーシャの埋葬 アリョーシャの別辞
少年イリューシャを埋葬する場面が詩のような美しい文章で書かれています。特に、
「いったい楽しい日の思い出ほど、殊に子供の時分親の膝もとで暮らした日の思い出ほど、その後の一生涯にとって尊く力強い、健全有益なものはありません。諸君は教育ということについていろいろ喧しい話を聞くでしょう。けれど子供の時から保存されている、こうした美しく神聖な思い出こそ、何よりも一等よい教育なのであります。過去においてそういう追憶をたくさんあつめた者は、一生すくわれるのです。もしそういうものが一つでも私たちの心に残っておれば、その思い出はいつか私たちを救うでしょう。 以下略」
と書かれたアリョーシャの別辞が素晴らしく、読む人の心を強く打ち、ドストェーフスキイの子供に対する愛と願い、そして復活を信じる強い思い等がひしひしと伝わってくるように思われました。
Mさん(70代女性)
裁判について
こんな風に裁かれたら堪ったものではない。科学捜査はなし。お江戸が舞台の捕り物帳でも、もう少し理詰めにやっている。これでは正に、心情的感想の発表会だ。
控訴の制度はなかったらしい。現代の日本なら、一審の判決が二審で覆ることもある。それも不服なら、地裁から高裁にという道もある。そして、一事不再理となれば仕方がない。それに、なによりも、確たる証拠の品が大切。
私事ですが、夫の退職直前、部下が詐欺事件に巻き込まれ、裁判になりました。一審は負け、その筋のお方に、証人を頼まないと勝てなくなりました。が、そのお方は成功報酬を要求されました。それはまずいので、証人は断りましたが、二審では勝ちました。
そのお方が書いたメモが有力な証拠となったのです。それには、資金の経路が説明されていました。一審は二億円の支払い。二審はゼロ円。高裁は門前払いで終わりでした。
そのメモは、震災後の神戸へ、瓦礫を踏み分けて行き、得てきたものでした。
Nさん(70代女性)
面白かった!もう一度辿り直しながら細かく検討し、読んでみたいと思う書物の一つとなりました。
ドストエフスキーは、この大作を書き終えて八十日後に亡くなっていることも考えさせられることです。彼自身は後二十年後も生きて書き続けるつもりだと言っています。そして、アリョーシャを主人公に続編を書くという約束もしていたそうです。残念な気もしますが、書いてくれなくて良かったと思います。十三年後のアリョーシャの構図は、この後の続編には精神の病に冒された(イヴァンのみでなくドミートリイも)兄たちだけでなく、アリョーシャさえも救いのない末路を辿るのではないかとの危惧を抱かせるものだからです。「一粒の麦、地に落ちて死なずば、唯一つにてあらん。もし死なば、多くの実を結ぶべ
し」 ヨハネ伝第12章24節
ドストエフスキーの視点から、主人公の一人アリョーシャの生き方は、この御言葉の真の意味が成就される方向に展開されるでしょうか。少し不安感を持ちます。
読破ツアーのお蔭で、楽しい旅の終着となりました。一人きりではない、同乗者が居るという心強さに支えられて来ました。ありがとうございました。
Yさん(50代女性)
今回はこの大作に挑戦する意欲はよかったが、自分の能力を改めて考えさせられる経験となった。自分の能力と今の状況を考えるべきだった。せっかくのネット読書会のチャンスなのに大急ぎの読み方で、じっくり考えることなく義務と化してしまったことを告白したいと思う。故に細かい感想は述べられないが、何よりも感じた事は大作家たるものは深く悩み、深く求めいく魂を持つからこその器であり、傑作であるということだ。
人類最大の難問であるところの神の問題を問うていて、これこそが「神の沈黙」という終わりのない問いかけであり、深い苦悩である。これこそが究極の苦悩であり、その問題を書いたドストエフスキーこそが徹底して悩みぬいた人だということである。「大審問官」における思想劇を読んでいると、まさに自らの軌跡でもある。
私にとって『カラマーゾフの兄弟』は読んだことにはならない旅の終わりであった。ただ、大きな収穫はツアコンさんとの関わりである。途中下車させてはいただけなかった。
ここに自分の姿勢が正される思いがした。一度決めたことは、日常の忙しさということぐらいのことでは中断してはならないということである。私の意志の弱さが暴露され、55年間を悔いてもいる。今後に活かし、収穫ある人生としたいと思っている。
Aさん(40代女性)
「カラマーゾフの兄弟」4巻読了後、私はさらに亀山邦夫著「ドストエフスキー父殺しの文学」上下巻(NHKブックス)を読むことにした。インターネットで見つけた本だったが、良い本と出会った。これも赤鉛筆を持ちつつ読んだ。興味のある方は是非お読みいただきたい。
「カラマーゾフの兄弟」は、私にドストエフスキー流のノンフィクションと小説の関係というものを教えてくれたが、また文豪と呼ばれる人達が、なぜ男であることが多いのかもわかったような気がした。非日常と観念の世界に、強烈なリアリティとシンパシーを感じられる鋭い感性や、人に同化してしまう稀な才能、開き直らない繊細さ。こういったものは、日常の暮らしを生活感を持って逞しく生きる女にはない、まったく「ロシア的」な資質なのではないだろうか。作品の中の登場人物たちと共に生きていたような作家の人生を知って、逆に平凡な毎日の中にある幸せを思った。
偉大な作家の最後の作品から読み始めたことは、読者としてすごいことだった。ただ読むだけでなく、定期的に感想文を書かなければならないこともまた大したことだった。無神論者や悪者達(悪魔と呼んでもいいのかもしれない)といっしょの旅は、私の今後にとって、とても良いことだった。この作品に今出会えた意義があり、今の自分だから自由に受け止められたことも多かった。他の作品を読んでから、また必ずこの作品を読み返したいと思っている。
みなさんといっしょだったから最後まで続けられた旅だった。いっしょに旅して私が得たものはとても大きかった。読書の楽しさ、感想文を書いている時のまた違った楽しさ。2006年は「カラマーゾフの兄弟」をみんなで読み、ドストエフスキーに出会った1年として、いつまでも記憶に残るだろう。
一度はゴミ箱に捨てたのに…「カラマーゾフの兄弟」は戻ってきて私をつかみ、新しい文学の扉を開き、豊かな世界に招き入れてくれた。
Mさん(60代男性)
No.7 最終章 ニヒリズムの超越
長い旅、5ヶ月に及ぶ読書生活。思い返すに、暑さの中、また秋風の中、そして木枯し吹く中と読み来たった「カラーゾフの兄弟」感動です!
最初、旅出するにあたって本書に掛けた課題が答えられたからです。十分かどうかはこの方の責任ですが、ニヒリズムは克服された!万歳!主に感謝!ハレルヤ!
結論;ニヒリズム否、ニヒル(無)はニヒルを受け入れる事です。本書を読み始めた最初から、私はイワンに注視、注目してきた。ドストの思想は、登場人物に万遍と無く与え表されていますが、取分け中心はこのイワンにこそ注がれていると私は考えてきました。彼をして、「全ては赦されている」と語らせているからです。これが本書の中心主題であると確信します。
今回皆様と読書の旅すがら、その内容理解を深められた事を厚く感謝申しあげます。ドストの思想は、今一度ニーチェの超人思想、「神は死せり」に結実。不安の哲学者ハイデガーにより「実存哲学」に普遍化された。そこからサルトルの「人は自由であるべく呪われている」と自ら自由の道を全うした。彼ら、カインの末裔たちも神の赦しのもとにあることは聖書が保証しています。(創世記:4章15節)
19世紀最後の予言となったニーチェの言葉通り、20世紀は正に”戦争と革命の世紀”(レーニン、毛沢東、金日成、ヒットラー、昭和天皇、・・・・)の世紀でした。私たちもその証人です。現在、ペレストロイカロシアの再建にドストの著作が再び光を受けていると耳にしますが、スラブ主義を超えた超現代の思想「全ては赦されている」を生かしてもらいたい。ロシアンオーソドックス(正教)の枠を超えた実存として、神につながり「全ては赦されている」と実感したいものです。
Sさん(50代女性)
ツアーの皆様、その後いかがですか。
わたしは、終了後、本を開くことなく年末を迎えました。
1ヶ月ほど前、椎名麟三の「信仰というもの」昭和39年を見ていたらイワンのことが出てきました。「自由の不合理」でドストエフスキーの「未成年」のアルカージイと我々のイワンを取り上げていました。アルカージイは孤独の自由について、イワンは社会主義的な自由についてです。とくに「大審問官」を取り上げて論じていました。
椎名氏の経歴からして、そのような論は推測されます。また、時代もあることでしょう。あそこを信仰の面から読むか、政治の面から読むかは、読者次第です。人が自由なのはキリストによるのか人の力によるのか、と問う。彼はクリスチャンですから信仰的な解釈をしていましたが、なるほどそのような読み方をあるのかと思いました。
お目にかかっての読書会があったら、参加したいです。
Kさん(60代女性)
終りに近づけば近づくほどイヴァンが気になった。一般的には彼は無神論者だとかニヒリストと呼ばれる。しかし、そうだろうか。そうは思えないのだ。彼は苦悶する人だ。鋭敏な魂を持ったむしろ宗教的な人なのだ。彼こそドスト氏を反映しているのではないか。
よく長男ドミートリーはロシアを、イヴァンは西欧を著していると言われるが、アリョーシャは宗教であろう。宗教であるアリョーシャにありったけの光を当て、人々の賞賛を与え、終焉をかぎりなく感動的に飾る役を与えたドスト氏は、ここにどんなメッセージをたくしたのだろう。ロシアも裁かれ、西欧も裁かれる。勝利はキリストの信仰だけだと言いたいのではないか。
それにしても、本書が冒頭に掲げた聖書の一節、ヨハネ12章24節の一粒の麦は本当のところ何を意味するのか。多くの実を結ぶために一粒の麦になって死んだのは誰のことなのか、ふと、あの少年イリューシャではないかと思えた。彼の死は多くの人の心によきものを芽生えさせた。アリョーシャの信仰によって、未来への希望の光となった。惜別の辞には忌まわしく悲しいいくつかの死を越える希望の風がそよいでいたはずだ。
最後に、最近興味ある話を知った。
あの日野原重明氏は、1970年の赤軍によるハイジャックのとき、よど号に乗り合わせていたことは有名であるが、その機内で、赤軍は本をぎっしり詰め込んだトランクから、好きな物を読めと乗客に促したそうである。日野原氏は『カラマーゾフの兄弟』を手に取った。そしてページを繰って、冒頭の聖句を読んだ。
ああ、自分はここで一粒の麦になって死ぬのだろうかと思ったそうである。
日野原氏は死なずに、生きながらにして多くの実を結んでいる。希望の風を吹かせている。
あわただしい年の瀬に、大量の文書をアップしますが、おゆるしください。このツアーの行方を興味を持って見守り密かに応援してくださった皆さまのご好意に対しても、果たすべきだと信じて敢行しました。ご声援ありがとうございました。