ま新しい詩集の表紙を見つめていると、急に本がふっくらとしてきて、詩から詩へ歩みゆく生きた詩人の気配を感じます。
高いところが好きなんだ。
この世をよく見わたせるから。
東京の高い建物は、すべて上がった。
新宿。池袋。東京タワー。汐留。
見下ろすたんびに、思った。
これが、世の中だって。
目を凝らしたって、
誰の、人生の、痕跡も、
どこにも、まったく、ねェんだ。
東京築地、国立がんセンターの、
最上階の、見晴らしのいい
食堂で、突然、男が話しかけてきた。
二の腕に点滴の針を突き刺したまま。
あんた、ここに面会にきたんだろう?
おれは、八百屋なんだ。川のある町で、
根ェ張って、芽ェだして、育って、
実った、旬の野菜を売ってきた。
いい果物も。病気が見つかってから、
小さな花屋もはじめた。暮らしに
必要なものは全部、土からもらった。
男はふっと、遠くを見やった。
空も、河口も、切ないまでに澄んでいた。
あとは、土にもらったものを、
土に返すだけ。
天国はいちばん高い場所にあるんじゃない。
なぜ、この詩に心が留まったかというと、つい先日、詩中にある築地の国立がんセンターへ行って、最上階ではなかったけれど、見晴らしのいい廊下の窓から、ぐるりと東京を見まわしからである。長田氏と同じ風景を目にしたのだなあと思うと、ひどく親しみを覚えた。詩が、遠い世界の物語でなく、つい隣りの出来事なのが、妙に新鮮であった。
詩集のあとがきにある『この21篇は思わぬがんの告知を受けた家人に付き添って、傍に、樹のように、ただここに在るほかはない、日の重なりのなかで編まれた』を読んで、ハッと胸を突かれ、こみ上げてくるものがあった。詩人のどうしようもない苦悩が伝わってきた。
最後の5行は、八百屋氏のことばではなく、長田氏の心境であろう。土に返すだけと言い切っているけれど、言い切れているのだろうか。
《天国はいちばん高い場所にあるんじゃない》とはどういう意味か。では、どこのあるというのだろう。おそらく詩人は天国を探しているのだ。大切な家人の生と死の狭間に立ちつくして、詩人の感性だけでは見いだし得ない天国を確信したいと呻いているのではないだろうか。