秋は雨の中に  投稿者 希望の風(掲載日2006年10月)

友人がサイトに小さい秋を紹介しているのを読んで、私も見つけますとコメントしたが、はてと、あわてて周辺をぐるり見回している。

秋の表情として、風を挙げる人、雲の形を言う人が多い。高い空、中秋の名月、虫の音もよく話題になる。もちろん紅葉も。友人は椎の実とコスモスに出会った。さて、私は何を見つけられるだろうか。大きな秋でなく、小さな秋を、である。

朝から雨が降りしきっている。低気圧の影響で秋雨前線が活発化している。各地に警報が出ているようだ。私としては、秋の雨は静かに降ってもらいたい。荒々しい雨風は遠慮したいところである。

細かい雨が真っ直ぐに下りてくる秋雨はいいものである。昨日はそうであった。
雨の日の外出はたいてい一瞬気がひるむが、昨日の雨には私を呼ぶものがあった。雨に誘われて二、三度外へ出てしまった。足は木々のあるところを目指す。季節はまず自然界にその姿を現わすのではないか。自然界の季節に合わせて、人は生活スタイルを工夫していく。

私の周辺で木々がまとまってみられるのは、近くの公園と、その先にある団地の中の植え込みである。雨の日は人の気配が少ない。それが気を休めてくれる。決して人間嫌いではないと思っているが、極端に自然の少ない都会の中で、自然の中に息づく秋に会いたいときは、雨のほかは不必要なのだ。傘を差すとそこにはまた静寂に満ちた小宇宙ができる。

ちいさな秋は雨の中にあったと、宿題をひとつクリヤーした気分でうなずいたとき、一人の婦人と擦れちがった。杖をついて一歩一歩と歩いているが少し不自然な歩調である。さして年を取ってはいない。上背があって背筋も伸びている。目が合った。しっかりした光りがあった。知らない方だから会釈はしなかった。おそらく大きな病をして不自由が残るのだろう。雨にもかかわらず歩いているのは、訓練のためであろう。

はっと、我に返った気がした。自分の憩いばかりを探していた貧弱な我を見た。杖をつく女性は人生の秋と戦っている。毅然と一人戦っている。杖だけを頼りに明日に向かって歩いている。

雨に呼ばれたような気がして、できれば避けたい雨の中を出ていった私は、もう一つの小さなさ秋を見つけたのである。これを見せたくて、秋が、雨が、私を呼んだのだ。いいえ、自然をも人をも見尽くしておられる神様の招きであったにちがいない。

杖をついて、信仰の杖をついて、人生の秋を、秋の雨の中を、けんめいに歩きなさい。
婦人はメッセージを携えた神の使いであったかもしれない。

2025年10月07日