今日の礼拝のメッセージはスイスから来られている宣教師がしました。奥様は日本人で3人のお子様がいますが、成人してスイスで暮らしています。巧みな日本語を駆使して説教しますが、難しいといわれる日本語をここまで使えるようになるには、並でないご苦労があったろうと察します。
その彼が、日本語で自由にお祈りをするのはいまでも難しいと前置きしながら、今日は『祈り』について聖書から解き明かしてくださいました。
開かれた聖書は【マタイによる福音書】6章5節から15節まで。ここには有名な『主の祈り』が記されています。
説教を要約しますと以下のようです。
神さまは人間とコンタクトを取りたいと願っておられる。交わりの中に入れたいと望んでおられる。そしてそのように人間を創造された。これは人間にとってまたとない特権であり、神さまからのプレゼントである。
その道は祈りである。神は祈ることを人間に教えられた。イエス・キリストも、父なる神に絶えず祈っておられた。神は遠い存在ではない。私たちの言葉にならないうめきでさえ、聞いてくださっている。
祈りには美しい言葉はいらない。長々しい祈りもいらない。正直に心を開いて自発的に、祈ればよい。神は私たちの祈りをどんなに待ち望んでおられることか。
聖書を読むこととお祈りすることは、まるで三度の食事のように日々の生活に密着していますが、ともすると、心がともなわないときがあります。上の空で聖書を読み、祈りの最中に雑念にとらわれてしまうこともあります。が、大いに反省しました。
愛である神さまが祈りをとおして、取るに足りない私ごときとコミュニケーションを取りたいと望んでおられるのです。なんともったいないことでしょう。
ひれ伏して、神さまの前に出て行き、人様には見せられない心の扉を大きく開いて、見栄も外聞もかなぐり捨てて、子どものように、慈父のみふところに飛び込んでいきたいと、熱く、熱く、願ったことです。
神との交わりの中にこそ、まことの【希望の風】があると気づきました。