このカテゴリーは、聖書66巻全巻を1巻ごとに大きく見回し、ワンポイントで私見する、聖書エッセイです。【希望の風】発見の旅でもあります。
新約聖書27巻中10番目のこの手紙は、パウロがローマで囚われの身となっていたときに書いた。この時期、AD61年頃、パウロは他にピリピ人への手紙、コロサイ人への手紙、ピレモンへの手紙をしたためた。そこでこの4つは『獄中書簡』と呼ばれる。
それにしても獄中で筆を持つとは大した心意気である。そういえば、かの不朽の名作『天路歴程』もジョン・バンヤンの獄中生活から生まれた。ルターもワルトブルグ城幽閉中に新約聖書をドイツ語に翻訳している。生も死も神さまに委ね切っていなければ、そうした偉業はできない。
パウロは自分が生み育てた教会が、間違った教えに惑わされているのを聞いて、居ても立ってもいられないくらい心配し、やきもきした。そこで、手紙ではイエス・キリストの福音を初めから言い聞かせるように教え、そのうえでどうしたらいいのかと具体的なアドバイスをした。
この手紙では、教会とはどういう存在なのかを、実に深く豊かに美しく表現している。パウロがどんなに深く教会を愛しているか、パウロの愛の源であるイエス・キリストをどんなに貴く愛しているか、随所にあふれている。それらが格調高い、文学的な美を見せながら語られている。
中心となることばはは1章23節であろう。
『教会はキリストの体であり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです』
このみことばは、私の教会生活を究極のところで支える大黒柱のようなものである。教会といえども、クリスチャンといえども、この世では完成されない。教会は罪深く弱い者たちの集まりである。人間関係がぎくしゃくしたり、運営のことで意見が食い違ったりすることもある。
建物にしてもステンドガラスやパイプオルガンのある壮麗な教会もあれば、ビルの地下室やプレハブのような粗末なところもある。私の教会はもと、軽作業の工場だった。
教会に対する思いの中に時にすきま風が吹き込んでくることがある。そんなとき、上記のみことばが立ち上がってくる。どんなことがあろうとも、教会はキリストの体である。キリストのいのちが、愛が、赦しが、あの十字架の血潮が、満ち満ちているところなのだ、そう思うと、急に教会がいとおしくなってくる。みことばは不思議な力に満ちている。こうして50年、私は教会を愛してきた。これからもその愛を与えられ続けたいと祈っている。