この書は48章にも及ぶ大書で、エゼキエルはエルサレム陥落前、包囲中、陥落後の長期に渡って預言した。エゼキエルに託された神さまのことばは厳しかった。これらの惨劇の原因は、神を神とも思わず勝手気ままに生きたことへの裁きだと迫るのである。語るエゼキエルも苦しかったであろう。
神様の警告のとおり、バビロンによって都エルサレムは陥落した。生き残った民は遠くバビロンへ強制移住させられた。これが古代史に名高いバビロン捕囚である。祖国敗戦の悲劇に加えて、二重の悲劇ではないだろうか。預言者エゼキエルも捕囚民の一人であった。神さまはそこでも預言活動を命じた。
表面だけを見れば、外国の軍隊が攻めてきて国中が戦場となり、人民は生き死にの淵に追い込まれたわけである。その最中に、これはあなたがたが神様に背いたせいだと詰め寄られたらどうだろう。すなおに反省できる余裕はない。かえって反抗心を増すかもしれない。
しかし、神さまはエゼキエルだけに言わせたのではない。イザヤもエレミヤも悪に気づけよと語り続けた。神さまは救われるチャンスとありったけの愛を示された。逃れの道はあったのだ。
イスラエルの民の経験は即私たちの姿であり、私たちへのメッセージである。繁栄に酔うときも苦難に喘ぐときも、神様はいつも大切な教えを語り続けておられる。いまはどこで真理のメッセージが聞けるのだろう。聞きたいと願う人がどこにいるのだろうか。
やがて、神さまはイスラエルを回復し、新しい神殿が建てられ、まことの礼拝が行われる日が来ると結んでいる。
『主はここにおられる』最後の一節が希望の風の中で光り輝いている。