曾野綾子さんの近著『晩年の美学を求めて』を読んでみました。曾野さんはキリスト教の信仰を持っておられますが、プロテスタントではないせいか、発言には多少違和感をいだくときがあります。小説は超一流と思いますが、エッセイには共感できないところが多々あるのです。綾子という同じ名前の三浦綾子さんは、信仰面で同質のものを見いだしますので、エッセーは好きです。
曾野さんは今75歳。本の帯には『老年まっただ中の著者が贈る高齢化社会の新しい人生観、老年のいきいきとした幸福の見つけ方』と書かれています。全体は28の小篇からなり、曾野さんならではの歯切れのよい鋭い論が述べられています。圧迫感を覚える箇所も大いにあります。
小篇のタイトルをいくつか拾ってみます。
『他人の好意にすがらないこと』『分相応の美』『黙して死ぬことの意味』『単純労働の重い意味』『檻に入りたがるライオン』『はるかにそれを見て、喜びの声をあげ』『自立と自律』などなどです。
近年、老年に関する本は山と出回っているし、古典的名著もたくさんあります。先輩賢人たちのご高説に耳を(目を)傾けるのは必要なことでしょう。とりあえず、書店でふいっと買った本書としばらくおつきあいし、曾野さんの論に賛同、あるいは異論しながら、老いについて考えてみたいと思います。ご関心のある方は持論を発言してください。
まず、タイトルですが『晩年の…』であって『老年の…』ではありません。うーん、これにもれっきとした理由があるのです。曾野さんは論じます。
『老年に関する研究はたくさん出て、いい教科書ができた…。しかし晩年の研究はあまりない。老年はたとえば70歳以上、というふうに年が確定しているからわかりやすいのだが、晩年は当人にいつが晩年かわからない…。私の場合、老年が晩年になっているのだから、理解しやすい』
《老年》と《晩年》のちがいを一度きちっと整理した上で、老年と晩年がイコールで結べる人たちにもの申していると考えます。なるほど、です。そして続けます『晩年は誰にとっても輝いているべきもの』と。そこで『晩年の美学を求めて』となるのでしょう。
かくして、曾野さん流の晩年の美学が展開するのですが、さて、私はどんな晩年の美学を会得しておくべきなのだろうかと、最初から大きな宿題を出された気分です。