ちっぽけなパンと魚はだれのこと?   投稿者 希望の風(掲載日2006年3月5日(日))

今朝の礼拝メッセージを考えてみます。
聖書はヨハネによる福音書6章1節から15節が開かれました。
ここは《5000人の給食》と呼ばれる、イエス・キリストの奇跡物語のひとつです。イエス・キリストはご自分の話を聞きに集まってきたおびただしい群衆が空腹になっているのをご覧になって心配しました。

たったひとり、少年がお弁当を持っていました。しかし彼が持っていたのは大麦のパン5つと小さな2匹の魚だけでした。少年は自分の大切なお弁当をイエス・キリストの前に差し出します。弟子の一人は、それっぽっちのものがなんの役に立つかと言います。群衆の数は成人男子だけでも5000人はいました。

イエス・キリストは少年のわずかな食べ物を受け取り、天の神さまに向かってお祈りをすると、弟子たちに配り出しました。すると食べ物は全員が満腹するほど食べ、なお12のかごいっぱいに余ったと、聖書は記しています。

これは奇跡です。なんだ、いまどき、子どもでもだまされないぞと言われますか。
奇跡ほど人を躓かせるものはありません。しかし信じるか信じないかはその人の自由です。
全能の神ならできないことはないと信じたとき、実に生き生きとした新しい世界が開けてきます。

奇跡を嘲笑する人も、自分の人生のどこかに、思いもかけないような奇跡が起らないだろうかと心ひそかに願っているのではないでしょうか。
夢を描いているだけでは奇跡は起りません。
信じたとき、奇跡をみることができるのです。

ところで、今日のメッセージの中心は奇跡を信ぜよ、ではありません。教会は信仰を強要するところではなく、神の恵みを紹介し、福音を語り告げるところです。

メッセージでは、どのように小さなものでも神さまは喜んで受けてくださる。また、私たちは無力で貧しい者であって、自力では何もできない。しかし、今あるところで、小さな決断をし、小さな決心をして手にあるものを差し出していこう、でした。
神さまの前には、私自身が、これがなんの役に立つだろうかと一蹴されるようなちっぽけなパンと魚でしかありません。これが私の偽らざる実体です。

しかし、それをイエス・キリストの前に差し出したとき、喜んで受け入れてくださり、5000人も養うような大役を振ってくださるというのです。これほどミラクルなことがあるでしょうか。

背伸びしなくてもいい、肩肘張らなくてもいい。歯を食いしばらなくてもいい。母の胸に帰るように、イエス・キリストのもとに行って、できることをさせていただきながら、今週も、人生の1頁を書き加えたいと願います。

イエス・キリストはご自分を十字架の上にささげて、全人類の救いとなられました。
『わたしが命のパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときでも決して渇くことがありません』

2025年03月06日