セレブレーション(祝賀会、式典)としての礼拝  投稿者 希望の風(掲載日2006年4月23日(日)

今日の礼拝説教をまとめてみます。詩篇96篇

クリスチャンたちが毎週日曜日、いそいそと教会に行くのは、ちょうど大きな祝賀会、記念の式典に列席するようなものです。罪にまみれ、滅ぶほかなかった闇の中から、イエス・キリストの十字架の愛によって救われた現在を感謝して、その救い主を誉め讃えるために、同じ仲間が集まって祝賀会をすることです。聖なる光の中におられる神さまを、こちらも威をただして、心身に礼服を着て、出ることです。外見的な服装についてはまったく自由ですが、晴れ着ではないまでも、多少の気配りは欠かせません。
それよりももっと大切なのは心持ちです。心にも聖なる衣服を着込んで、光り輝く神の前にひれ伏すことです。

考えてみますと、祝賀会とか式典と聞きますとまず会場が浮かびます。
きらびやかなあるいは荘厳な場所、教会ならば西欧のカトリックの教会などです。ところがプロテスタントの教会は人の宗教心をかき立てるような装飾はあまり見られません。私たちの教会などは、かつて、軽作業の工場でした。ビルの一室を会堂としている教会もありますし、牧師家庭の一室を集会の場にしているところもあるほどです。
そんな状況下で光り輝く神を思い描いてひれ伏すためには、ひとえにこちら側の信仰が問われます。神への感謝を基調とした、こちら側の姿勢です。

いみじくもイエス様は『神は霊であるから、あなた方も霊とまことを持って礼拝すべきです』と、礼拝に対する巨大な指針を与えてくださいました

環境や状況がどうであろうとも、霊とまことをもって礼拝をささげたいと思いました。
病床が礼拝の場である人もおられるでしょう。その他、心ならずも不遇な場におられる方々はそこがセレブレーションです。心に聖なる衣をつけて主の前にひれ伏してください。

『人は顔かたちを見るが、主は心を見る』
『神の受け入れられるいけにえ(礼拝)は、悔いし砕かれた魂である』

2025年04月23日