祈りは危機の時のつばさ  投稿者 希望の風(掲載日2006年5月28日(日))

朝、教会へ行く短い道には梅雨めいた雨が降りしきっていました。
帰途はすっかり上がって、青空とはいかないまでも雨具の必要はなく、案の定、傘を置き忘れてきました。

5月最後の主日、礼拝説教は30歳そこそこのスイス人若手宣教師でした。私たちの教会にはスイスミッションの宣教師が2家族おられます。数年来の宣教師ご夫妻は50代半ば、日本人の奥様のとの間に3人のお子さんがおられますが、成人してスイスで暮らしています。

若きB宣教師も同じく奥様は日本人女性。未就学児の3人のお子様がおられます。昨年来日してずっと日本語の勉強をしています。まだまだ日常会話も十分とは言えませんが、今日は説教デビューです。特殊なキリスト教用語を使っての説教はさぞ大変だろうと推察します。おそらく、母国語で原稿を作り、それを日本語に訳したのでしょうが、その方がずっと難しかったのではないでしょうか。ご苦労を忍びつつ耳を傾けると、心が開かれてきて、説教が聞きやすくなるから不思議です。

彼もまた今月の教会の主題《祈り》から説教を展開しました。説教題は『み名によって求めること』。聖書は旧約聖書サムエル記第Ⅰ。1章全体が朗読されました。

この箇所はたいへん有名です。イスラエルの偉大な預言者サムエルの誕生物語です。
サムエルの母ハンナは不妊の女でしたから、第二夫人から執拗にいじめられ、苦渋に満ちた年月をすごしていました。ハンナはその悩みと苦しみを神の前に持ち出し、なんとしてでも子どもをくださいと嘆願しました。神を信頼し深い愛で祈りました。祈りは神様の御心にかなったのです。ハンナは願ったとおり、祈ったとおり、男の子を与えられました。しかしこれで、めでたし、めでたしで幕、ではないのです。

ハンナは子どもを我がものとして独占し溺愛したのではありません。ましてや自分をいじめ抜いた第二夫人を見返す事でもありませんでした。子どもは神の働きのために用いてくださいと、幼いときから神殿に預け、プロの働き人に仕立てるために母の情愛を殺して宗教教育に徹したのです。長じてサムエルはイスラエルを救う大預言者となっていきます。

今日の説教の視点はもちろんサムエルではなく、ハンナの子育てでもなく、ハンナの祈りです。

祈りは苦難の海に溺れそうになったときの浮き袋、また鳥の翼のようなものです。祈りによってそこから脱出することができます。神の愛と生きた力を体験することができます。そして、神は何よりも私たちが信頼して祈ることを求めておられます。神を愛し、深い交わりの中にいることを求め願っておられます。以上が私が聞き取った説教要旨です。

礼拝が終わったとき、私の心はいつになく爽快でした。礼拝の中でイエス・キリストのいのちの触れたのでしょう。これもまた礼拝のすばらしい恵みです。礼拝は希望の風を生み出すところです。希望の風に吹かれて、今週の道のりを前進していきたいと思います。

2025年05月28日