聖書はヨブの遭遇した災いについて簡潔に切れ味よく記述している。それだけに胸をつかれ同情心があふれてくる。
ヨブはその地方きっての富豪であった。
『潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた』ふたりといない紳士であった。何よりも神さまご自慢の信仰者だった。
その彼が一夜にして人災、天災によって7人の息子と3人の娘を同時に失ってしまう。さらに彼自身が足の裏から頭の頂きまで悪性の腫物に冒され、灰の中に座って土器のかけらで我が身をかく始末。妻には悪態をつかれ、積年の親友たちからは因果応報だと裁かれる。ヨブは心身共に瀕死の淵に立たされ、初めて不可解な人生の深淵に引きずり込まれる。
なぜ正しい者が苦しまねばならないのか。神はどうして味方してくださらないのか。黙っておられるのか。ヨブは親友たちと論戦するだけでなく、神さまにも挑戦する。
ヨブの言い分がよくわかる。悲嘆にも失望にも憤りにも共感できる。彼に親近感が涌いてくる。ヨブが苦しんでくれたおかげで、どれほどの人が孤独な戦いからから救われたことか。
ヨブがいてくれてよかった。ヨブは苦しむ人の代名詞になった。ある友人は『私は女ヨブよ』と言って我が身をヨブになぞらえ、押しよせる苦難の嵐に雄々しく立ち向かっている。
苦悩のヨブが身をよじって絶叫することばが、耳底にこびりついている。
『ああ、今、できれば、私のことばが書き留められればよいのに。ああ、書き物に刻まれればよいのに。鉄の筆と鉛とによって岩に刻みつけられたい』
誰にも理解されない孤独な戦いを、書き刻んでおきたいというのだ。ここに、文学の原点があるのではないだろうか。
ヨブの懊悩はさらに深まっていく。闇の極みまでいったと思われるその時、ヨブは仲保者また贖い主となってくれるお方がいることを確信し、その存在を信じるようになる。
『私は知っている。私を購う方は生きておられ、後の日にちりの上に立たれることを』
これは救い主イエス・キリストを暗示している。ヨブはだれに伝道されたわけではないのに、苦しみの中から福音の光をみつけた。イエス・キリストが誕生するはるか昔に、ヨブは自力でこの真理に到達した。
突然、死の闇を破って、沈黙していた神さまが語り出した。神さまの偉大な顕現の前で、
ヨブは一瞬にしてすべてを悟った。神さまがわかったのだ。神さまを見たのである。
問題解決の鍵がここにあった。
『わたしはあなたのうわさを耳で聞いていました。
しかし、今、この目であなたを見ました。それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔いています』