聖書のシンデレラ、エステル  その2~3    投稿者 希望の風(掲載日2006年3月2日(木))

エステル記 4章14節
あなたがこの王国に来たのは、…この時のためである…

エステル記は旧約聖書の歴史部分の最後の書である。年代順なら前記のエズラ、ネヘミヤの方が後になる。ペルシャ帝国内には、初代の王クロスの帰還命令が出てからも、そのまま残留しているユダヤ人が大勢いたようである。第1回目の帰還がBC536年、エステルが王妃になったのがBC478年と文献にある。

この書の芯になるところは、養父モルデカイが、悪大臣ハマンのユダヤ人虐殺の陰謀を知り、王妃に上がっているエステルに、救済のために立ち上がるように促すところと、これに応えてエステルが3日3晩の断食の末、禁令を破って直訴を決意するところである。
帝国の法令では、妻といえども王の許可なしには王に近づくことができなかった。王の意に叶わない場合はいのちはない。エステルは、死を覚悟して謁見の間に赴くのである。

モルデカイは『あなたがこの王国に来たのは、…この時のためである…』とエステルに迫る。わけもなくシンデレラになったのではない。使命があるのだ。あなたにしかできない、そのためにこそ、そこにいるようになった働きがあるのだ、というのである。

 モルデカイの進言は単にエステルだけのものではない。信仰の心で捕えてみると、神さまがひとりひとりに語りかけ、期待し、行動せよと背中を押しておられるのだ。
エステルのような特別な立場や地位にいる人だけのことではない。富んでいようと貧にいようと、健康だろうと病に伏していようと、あらゆる人に適用できる。

なたがここにいるのは、この時のためではないか。
私はこの語りかけをどのように受けとめよう。
ここで、とあるのは、意味深い。日常のただ中で果たすことである。いざ、この時という時があるのだ。
いざ、この時が来ないときはどうするの…。どうしたらわかるのだろう…。
 
そんな心配は無用だろう。毎日がいざ、この時なのだ。
ここにいるのは、この時のためと、意識をクリヤーにしたら、見えなかったものが見えてくるのでないだろうか。                      (続く)

エステル記 その3          使命とは命を使うこと
(続きです)
エステル記 4章16節
エステルはモルデカイに返事を送って言った。
行って、シュシャンにいるユダヤ人をみな集め、私のために断食をしてください。三日三晩、食べたり飲んだりしないように。私も、私の侍女たちも、同じように断食をしましょう。たとい法令にそむいても私は王のところへまいります。私は、死ななければならないのでしたら、死にます。

エステルはモルデカイに迫られて自分の使命に気がついた。自己存在の理由がわかったと言っていい。それまでのエステルにしてみれば、他の人から見て垂涎の王妃の座もさして座り心地のよいものではなかったろう。

同胞救済のためであったとわかったとき、自分も含めてあたりの風景が一変して見えたのではないだろうか。使命を確信したエステルは強くなった。

『私は、死ななければならないのでしたら、死にます』と公言し、死を覚悟で、王の居室に向かった。王に拒否されればその場で命はない。しかし、歴史の神は王に働いた。招きの金の杓が、すっと差し伸べられたのであった。
第一関門突破! 

これからのエステルの活躍とユダヤ人の救済物語の真相を知るには、直接聖書を読んだほうが早道であろう。

『私は、死ななければならないのでしたら、死にます』を文語訳聖書では『我、もし死ぬべくば、死ぬべし』とあり、いまでも心の奥深くに輝いている。

このみことばには大きな思い出がある。30代半ば、ウルトラ級の人生問題に苦しんでいた。対処の方法を祈り求めていたとき、このことばが堅固な城のように立ち現れた。 

死ぬとは自己に死ぬこと、自己主張を放棄することと判断し、正当な報酬も、言い開きもいっさい投げ捨てて、静止沈黙に徹した。眼前に見えたわけではなかったが、神さまの手にある金の杓が伸べられたのであろう、30年後の今、恵みに満ちた日々を生かされている。
 
生き死にの、時と場所を的確に察知して、神さまからいただいた志に立ち、使命をはたしていきたい。
  
聖書のことば
『私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです』
(終り)

2025年03月02日