この1月から母の米寿の祝いが続いています。
日曜日の午後には、母の子どもたち、つまり長女である私を含めて、4人の娘たちだけで祝いの宴を設けました。
ああ、私たちはこの人から生まれたんだと、当たり前のことですがしみじみと実感しました。今は年老いて、手を引かなければ一歩も歩けなくなったけれど、かつてはこの手に抱かれ、育てられたのだ思うと、夢を見ているような不思議な気持ちになりました。
母は生涯にひとりの男の子も産めなかったと、少々悔しそうに言っていた時代がありました。それを聞く度に私たちきょうだいの胸は騒いだものです。
しかし、今ではすっかり忘れてしまったようです。
昨今は、私は嫁さんを知らない、姑になったことがない。娘ばかりでこんな幸せなことはないと、口癖のように言うようになりました。私たちきょうだいは、そうだ、そうだとばかり、満足しています。
妹たち3人はわりあいに近くに住んでいるせいか、ちょくちょく顔を見せます。
昨年冬ごろから、母の体力が目に見えて削られてきています。それとなく察した妹たちは以前より頻繁に母を訪ねてきます。来るたびに母の部屋の掃除をし、いっしょに買い物に行ったりして世話をしてくれます。
おかげで、母はまだ介護保険のお世話になることはありません。
今日も、米寿の祝いと称してミニ宴をしました。
我が家に牧師夫妻がおいでくださって、ともに讃美歌を歌い、聖書のお話をし、祈ってくださいました。
母は時々うなづいて牧師のお話に聞き入っているようでした。
今は、90歳、100歳と長生きする人が珍しくありません。しかし、人のいのちは神さまの御手の中に握られています。どんなに知恵の長けた人でも、自分の終わりの時を知っている人はいません。
一昨年来、死につながる病を負うことになった私は、自分のいのちは神さまに委ねつつも、母のいのちが気になります。母が自分の意志で神さまにいのちを委ねられるようにと、今年はいっそう強く思っています。
『人は新しく生まれなければ、
神の国を見ることはできません』