曾野綾子著『晩年の美学を求めて』を続けます。今回は《たった一度の後始末》です。ひと言で言えば死後に残すものについてです。
曾野さんは御母様の場合を次にように書いています。
「母は83歳で亡くなる数年前から、身辺整理だけはみごとにやっていた。……、和服は病院へ行くためのウールが2枚ほど、草履も一足だけになっていたところを見ると若い人たちにあげてしまったようである。さらに献眼を望んでいて、死後すぐに角膜移植のための処置がなされた。残されたものを始末したが、その整理はたった半日で済んだ。これこそ子ども孝行である」
曾野さんの友人は、お姑さんの残したごみが1000袋あり、捨てるのに半年かかったそうです。
これは真剣に考えねばならない緊急課題です。何十年の間に少しずつ貯まったものが山ほどあります。人にはゴミと見えても、当人にはかけがえのない記念の品であり、生きてきた証です、めったなことでは捨てられない、そんな思い入れのある物ばかりに囲まれているのが、老人の真相ではないでしょうか。
よくこんな話を聞きます。整理しておかなくてはと思い立って、いざ取り出してみると、何日も見入っては思い出に浸るだけ、結局何一つできなかった…。
いつ頃からか「捨て魔」とあだ名されるほど、捨てるのが好きな人と、自他共に許している私ですが、ざっと身辺を見回すだけでも、なくてもいい物がたくさんあります。私の死後、即座にゴミに変わる物ばかりです。ああ、子どもに迷惑をかけてはならない……。
ことわざに「虎は死して皮を留め、人は死して名を残す」とあります。名前など残したくとも残ることはまずありませんが、たとえあったとしても、それを人がいつまで記憶しているでしょうか。生涯を賭けたライフワークであっても、何も残らなくていいと、最近しみじみと思います。
曾野さんの結論はこうです。
「晩年の義務は、後に、その人の記憶さえ押しつけがましくは残さないことだと考える」
今回のテーマには反論の余地がありません。むしろ大いに教えられ、チャレンジを受けました。過去、スリムに生きましょうと、発信したこともありました。
スリムに生きて、ゴミだけは残さないで、たった一度の後始末はわずか半日くらいで終わるように心がけたいと思います。
あの人は今、天の御国でイエス・キリストのそばにいると、希望の風がささやいてくれたら、これこそ最高!