この4日に、ご長男を急性心不全で天に送ったお父上からお便りをいただきました。名前の知られたりっぱな牧師先生です。ご自分の息子の葬儀の司式をし、告別説教をし、私にまで挨拶状を送られる先生のお心のうちはいかばかりかと、沈痛な思いで拝見しました。
説教要旨が添えられていました。
説教題は『主が与え主が取られる』で、聖書から2箇所が取り上げられていました。
詩篇23篇
死の陰の谷を行くときもわたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖 それがわたしを力づける。恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り 生涯、そこにとどまるであろう。
ヨブ記1章
わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。
『詩篇23篇は祖父の代からの愛唱詩篇で、彼もこのみことばのようにいつも共にいてくださる神さまを信じていました。そして、彼の主である神さまの家に帰っていきました。これからの彼の生涯は、主の家にとどまることになりました。
地上の人間の所有は神さまから貸し与えれているのです。ですから神さまが取り上げるときには直ちに返却しなければなりません。
しかし葬儀のなかで、夢であって欲しいという思いがわきあがりました』
先生は詩人でもあるので、前夜式には棺の前で死を読まれたそうです。その一節
『今の自分の年齢を思うと、30年早い、もったいない、残念だ、くやしい、何故に――と言うことばが出てしまう』
しかし最後のフレーズはすばらしく響いてきました。
『主の家に帰っていった 少し早いが 主の家で再会することを信じる 主の再臨のとき ともによみがえり 手を肩にのせて抱きあうことを信じる』
人間の心だけだったらどんな聖人君子でもこの過酷な現実を受け入れ、悟ることはできないでしょう。しかしキリスト信仰には神さまからの約束が手渡されています。悟りではなく、信仰によって、悲しみの彼方にあるものに目を注ぐことができます。信じることができます。先生のうちに働く信仰による再会の希望が、わかるような気がします。先生がイエス・キリストによって慰められていることがわかり、ほっとしました。