旧約聖書の最後の部分ホセアからマラキまでの12巻は小預言書と呼ばれる小さなひとかたまりである。それにならってここでも12巻をひとまとめにする。小とは、量が少ないためであって、12人の預言者が一流でないという事ではない。先のイザヤ、エレミヤ、エゼキエル、ダニエルと同じように神様のみことばを預かり、命がけで働いた。
最後の3人、ハガイ、ゼカリヤ、マラキは、イスラエルの民がバビロン捕囚から解放されて祖国へ帰還し、切願の神殿再建を果たしてからの時代、つまり捕囚後の預言者たちである。無事に祖国の土を踏み、礼拝の場所も建設でき、日々の暮らしも落ちついたはずなのに、神様はなお預言者を遣わして語り続けている。捕囚前、捕囚中と同じように切々と、悔い改めて私に帰れと叫んでいる。なぜだろう。民はまだ神様に背いているのだろうか。
人はどんなに環境がよくなっても、罪を犯さなくなることはないらしい。苦難の時はその原因を神様や他人のせいにし、順境の時は自分の力でやったと豪語して、決して神様に栄光を帰そうとはしない。それは自分自身を見てもよくわかる。12人の預言者たちの叫びは私への語りかけなのだ。ひれ伏して拝聴しなければならない。
これらの預言たちのあと、聖書は神の沈黙時代と呼ばれる闇の中に入る。神のことばは400年なかったと言われる。
この沈黙を破るのは巨大な預言者、いや、神様ご自身であるイエス・キリストである。明けの明星、希望の光、イエス・キリストがついについに来られるのである。こうして聖書は新約時代、開かれた恵みの時代に入っていく。
マラキ書から最後のことばを記す。
『わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼にはいやしがある』
今日まで30回、旧約聖書に吹く神様からの愛と希望の風を見てきました。講義でもメッセージでもなく、聖書と共に生きるひとりのキリスト者の私見、私論、私感にすぎません。
キリスト教用語で言えば、あかしの一文です。