(18日の続きです)
ベタニヤ村のマリヤは、ある日、大切にしてきたナルドの香油を十字架目前のイエス様に注ぎかけてお慰めしたことから、イエス様にたいへん喜ばれほめられました。
この場面からいくつもの大切なことが教えられていると思います。
その一つは、イエス様は私たちのささげもの(大小にかかわらず)を喜んで受け取ってくださり、神さまの栄光として用いてくださることです。そんなつもりもない、考えもしない、ささやかなささげものが、主に喜んで用いられるとしたらこんなにうれしいことはありません。受け取られた主は、それを最善、最高、最適に、私たちにしてみれば思いもかけないところに用いてくださるのです。マリヤも自分のささげた香油がまさかイエス様の埋葬のためだとは考えもしなかったでしょう。
そしてさらに主は、今後、福音が語られるところどこででも、世界中でこの人のしたことが語られる、それはマリヤの記念となると言われたのです。これは聞き捨てにできないお言葉です。救いのメッセージが語られるところでマリヤの香油物語も語られるというのです。当然マリヤはすばらしいことをイエス様にした女性としてたたえられるでしょう。現に今でも私たちはマリヤを話題にし、教材にして、学びの対象としています。今後世界中のどこででもこの女のしたことが語られる、とのイエス様の預言は的中しているのです。
さて、マリヤに目を注ぎます。なぜマリヤがとっておきの大切な財産を、それこそ湯水のように一度に使ってしまおうと思ったのでしょう。
マリヤはその時、自分のいちばん大切なものをささげずにはいられなかったのです。そういう思いに迫られたのです。前々から計画していたことではなかったと思います。その時、なにか自分以外の強い力に押し出されて、憑かれたように壺を取りに行き、その壺を割り、注いだのでしょう。ある種の興奮に支配されてしまったとも言えます。感極まってどうしようもなかったのでしょう。霊の衝動、霊の激動といいましょうか。
私たちも時としてイエス様を身近に感じて、つまり主の臨在に触れて、叫び出したくなるような感動、歓喜を体験することがあります。悲しくはないのに泣けてしかたがない。明るい輝きに満ちた喜びで涙があふれてくるような経験をします。きっとマリヤもそのもっと濃密な思いに占領されたのでしょう。
そのとたんに主への愛がほとばしり出たのです。イエス様が慕わしくて、恋しくて、なにもかもささげてしまいたい、自分自身はもちろん、自分の持てるものをすべてささげてしまいたい。それがマリヤにとってはナルドの香油を注ぐことだったのです。いちばん大切ものを思い切ってささげることのできるマリヤ、自分のものを、しかもこの世の中の物差しで測っても十分価値のあるもの、つまり財産をたいへん上手に使ったといえます。
ベタニヤのマリヤ、外側から見れば、姉がじれったがるほど機転が効かなくてたもたしている、世の中のことに疎く、消極的、そんなマリヤですが、内面をよく探ってみますと、驚くような賢さを備えた女性だと思います。『福音が語られるときこの人のしたことも語られるでしょう』と言われるような賢い生き方をしたいものです。
聖書にはマリヤについて他に2つのエピソードを記しています。その一つは、マリヤがイエス様のおそばから片時も離れずじっとお話を聞き続けていたので、腹を立てた姉のマルタが、イエス様に、妹も手伝いをするように言ってくださいと声を尖らせたときでした。イエス様は、どうしても必要なことは一つだけで、マリヤはそれを選んだと言われてマリヤを弁護し、ほめたことです。
もう一つは、兄弟ラザロの突然の死に際して、葬りが終わったところへ来られたイエス様の前で泣いたことからふたたび村中が泣き、ついにイエス様も涙を流された出来事です。もちろんイエス様は単にもらい泣きをしたわけではないのですが、このすぐ後に、イエス様は神様としての力を発揮してラザロを墓の中から呼び出したのです。ラザロが生き返ったことは、イエス様のよみがえりの前知識となりました。マリヤはここにも深く係わったのです。
このところ、ベタニヤのマリヤにしげしげと視線を注いでいます。マリヤとイエス様の間にある強い絆、交わりの豊かさに心奪われます。マリヤはイエス様についていちばんたいせつなものをいち早く見抜き、それをいち早く我がものにしたと思えるのです。
十字架以前に葬りの香油を注いだマリヤは、十字架以後に約束されたイエス・キリストの遺産を、生前すでに贈与された世にも幸いな女性だったと思えてなりません。
終り