ダビデ王の大罪と認罪
サムエルⅡ・11章2節、3節
ある夕暮れ時、ダビデは床から起き上がり、王宮の屋上を歩いていると、ひとりの女が、からだを洗っているのが屋上から見えた。その女は非常に美しかった。
ダビデは人をやって、その女について調べたところ、「あれはヘテ人ウリヤの妻で、バテ・シェバではありませんか。」との報告を受けた。 ダビデは使いの者をやって、その女を召し入れた。
ダビデの中年時代は、惨憺たるものである。これが、緑の野に竪琴をかき鳴らしながら、羊を飼っていた紅顔の美少年と同じ人物かとおもうと、たまらなくなる。
ダビデは異例の出世街道を驀進して王になり、国民から慕われ尊敬され、国外に威勢を誇る一大王国を築いた。
その絶頂期に、一瞬の情欲を制すことできず、部下の妻と姦通する。そのうえ王権を乱用して、夫を最前線に送って意図的に戦死させるのである。これが神と人から愛され、自らも深く神を信仰する人のすることであろうか。
聖書を読み始めた若き日、美少年、英雄ダビデにあこがれ、夢中でページを繰っていったが、ここまできて閉じてしまいたくなった。
なぜ、こんな記事を入れるのか。聖書っていったいどんな本なのだろう。しばらくそんな疑問にとりつかれていた。
ある学者が、サムエル記は10章までで終わっていたらどんなにいいだろうと言ったが、同感である。
しかし、その先を読まねばならない。ダビデが王の面子をかなぐり捨てて神の前に泣き崩れのだ。自分の大罪を潔く認め、土下座して謝罪しているのだ。
ダビデのような堕落もめったにないだろうが、この徹底した悔い改めもまた希有である。
何よりも感動するのは、悔いくずおれるダビデを赦し、抱きかかえるようにして立ち直らせる神の愛である。
人の価値は何できまるのだろう、たとえ罪を犯してしまっても、素直にみとめ、謝罪するところにあると信ずる。
思えば、創世の初めに、アダムとエバの罪をゆるして以来、神の赦しと愛は連綿と、少しも変わりなく続いているのだ。それは21世紀の、今日も、同じである。
アダムとエバを笑えない。ダビデを蔑視できない。
アダムとエバ、そしてダビデは私の罪を映す鮮明な鏡ではないか。
今日、一瞬のうちにどんな大罪を犯して神を悲しませることになるか、だれが想像できよう。
願わくは、信仰の導き手であり完成者であるイエスから目を離さずに、今日一日も清い旅路を進みたいものだ。
それでも、もし、失敗したら、十字架のもとに駆け込もう。
新約聖書から
ローマ人への手紙3章23、24節
すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、
ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いの ゆえに、価なしに義と認められるのです。