春は美術展から はしごをして  投稿者 希望の風(掲載日2012年3月17日(土))

東京の日中は一挙に19度と報じていた。おりしもこの日にねと約束していたので、いそいそと待ち合わせのバス停に急いだ。ひところの寒気は姿を消して、とろっと甘い春の空気である。目指すは上野公園。二つの美術展が開かれている。JR公園口を出てすぐの国立西洋美術館ではバロックの画家『グエルチーノ展』。もう一つは都美術館の『新印象派展』が光と色のドラマと謳って宣伝されている。期日はこの29日までと迫っている。

友人は新印象派に行きましょうと誘ってきた。私は密かにグエルチーノが見たかった。しかしこちらは5月末までで余裕がある。またくればいいと思って友人に付きあうことにした。
ところが昨夜になってメールで「グエルチーノ展には大きな宗教画があるそうだからそちらにしましょうか」と問うてきた。そこで「いっそ、二つとも行きましょう」と意気投合して、時間も30分早めて、開館と同時に入れるように変更した。かくして美術展をはしごすることになった。

二つ同時に観たら、どこで何を見たか混同して感動が小さくなってしまうのではないかと恐れる気持ちもあった。しかし、専門家でもないし、レポートを提出するわけでもないのだから、その場、その場で、作品を楽しめばいいと割り切った。

まずは西洋美術館の『グエルチーノ展』。時間が早かったのか空いていた。絵も大きかったが、絵の前に人が群がることは全くなく実にゆったりと鑑賞できた。不勉強なためかこの画家の名は聞いたことがなかった。宗教画といえばルネッサンス期のあの超有名な人たちばかりしか頭になかったが、彼らの跡を行く多くの芸術家がいたのだ。しかしその作風は次第に変わっていったようだ。

17半ば世紀といえば、ルターの宗教改革から100年以上が過ぎている。この間にカトリックの世界も揺さぶられはしたがローマ教皇は厳然と勢力を保ち、教会も活動を継続して今日に至っている。宗教画の需要も続いたのだろう。宗教画は抵抗なく見られる。聖書を題材にしているものはタイトルを見ただけで内容がわかる。これは便利というより、感謝なことである。素直に楽しめた。見上げるような大きな絵ばかりで圧倒された。

次は都美術館。おなじみの『新印象派』。同じ絵画とはいえ、先のグエルチーノとは天と地ほどの違いがあって、観る前に混同するのではないかとの危惧など一瞬で吹き飛び、こちらの世界に引き込まれました。『点描技法』というこの派独特の技法が楽しくて、近寄っては眺め、離れては眺めて、斬新な技法がもたらす印象に感動した。題材も、教会や聖書や聖人といった宗教的な内容とはおよそかけ離れた、庶民の日々の暮らしや自然が描かれていて、ここはここで親しみを感じた。グエルチーノから200年ほどを経た時代になり、時代の移り変わりを強く感じた。はやく言えば主役が『神』中心から『人間』中心になっているのだ。芸術や芸術家を保護し後押しした教会や王侯貴族の強大な勢力が衰え、芸術家たちは、もちろん庇護するパトロンもいただろうが、自力で自分の世界を築いていくことになったのだろう。美術史に詳しいわけではないから当たっていないかもしれないが。

一つの美術展に約一時間づつで二時間。上野公園に出てくれば早や桜の開花待つばかりで、熱気さえ感ずる。羽織っているものが重たく暑い。汗ばんでくる。日差しがまぶしく、日傘がほしい。ちょうどお昼時である。手ごろなレストランに飛び込んだ。

上野公園の美術展からスタートした今年の春は、どんな物語を紡いでくれるのか楽しみである。思えば真冬の約三か月は辛かった。全くの冬眠ではなかったものの、軽い気分で外出することはなかった。だから、春はうれしい。桜が待ち遠しい。

いつも思い出すのは『雅歌』の一節である。

『ほら、冬はすぐ去り、大雨も通り過ぎて行った。
地には花が咲き乱れ、歌の季節がやってきた。
山鳩の声が私たちの国に聞こえる』
雅歌2章11、12節

2025年03月17日