もう一つ、箱舟社会を守った大きな力がありました。大所からの神さまの意志です。愛の視線です。救わずにはいない力強く延ばされた御腕です。
救いの手段として神さまは風を使いました。
『風を吹き過ぎさせた』とあります。『吹かせた』との訳もあります。神御自らが意志をもって風を造り、強さと方向を決めて水の上に送り込まれたのです。風はまだ満々たる水の上を吹きすぎていきました。
さぞ、やさしい風だったことでしょう。洪水をもたらした時の牙のような鋭い荒々しい滅びの暴風ではなく、天のいのちをたっぷり含んだ、口に入れてみたいほどのみずみずしい風だったに違いありません。強からず弱からず、速度も中庸で、もしも包み込まれたら、ナルドの香油にもまさる香りになって天に吸いあげられてしまいそうな、聖霊の風ではなかったでしょうか。
風は空一面を覆い尽くしていた黒雲を吹き払い、裂けた雲間からは待っていましたとばかりまばゆい陽光の束が差し込んできたことでしょう。それからは、神さまの意志を反映する自然現象が一大活動を開始して、地上修復の業が急ピッチで進んでいったと思われます。
洪水の上を吹きすぎた風はこの時一回限りの特別な風だったでしょう。いのちの風、救いの風は神の定めのときにしか吹かないものです。
ところが新約時代になると救いの風は頻繁に活発に吹くようになります。
イエス・キリストのおられるところはどこでも、いのちに満ち満ちた福音の涼風が吹いていました。その風に吹かれるとたちどころに病が癒え、魂が清められ、神をほめたたえる者に変えられたのです。そうです、イエス・キリストこそ救いの風でした。
風は思いのままに吹く。
それがどこからきて、どこへ行くかわからない。
イエス様のみ懐に飛び込みさえすれば、思いのままに吹くキリストの風に吹かれて、気がつくと救われて、新天新地の住民にしていただけるのです。
滅びの大洪水を追いやった救いの風、信、望、愛のキリスト風を背に受けて、今日も一日のいのちを生き抜きたいものです。明日に希望を繋ぎながら。(終わり)