ヨセフの生涯を思う その2 寄稿者  旅女

奴隷、囚人と、この上ない悲劇のヒーローだったヨセフは、不可能を可能にする神様のご計画の中で、エジプトの救世主のような地位に上り詰めた。しかしそれは単に黄金の王座に坐していればいいというのではなく、ヨセフは知恵を尽くし力を尽くして命がけで働かねばならなかったとおもう。でも、もう奴隷でも囚人でもなく王からも国民からも信頼される宰相になったのだ。その名声はエジプト一国におさまらず近隣諸国にも鳴り響いたことであろう。今や英雄ヨセフである。そして、33年ぶりに父に会い、一族郎党に至るまで新しい地エジプトで養うようになった。

めでたし、めでたしである。しかし聖書はそれだけでは終わらない。

創世記の終章50章を読むと、めでたし一色ではすまされない人間模様が見えてくる。考えさせられることが多い。人の心の奥底に潜む闇が見える。ヨセフをいじめた兄弟たちはいつまでたっても罪の呵責から解放されない。いつか仕返しされるのではないかと恐れ続けている。ヨセフの愛がわからない。ヨセフはそのことにも泣く。自分の心を切り開き、はらわたを取り出して見せてあげたいくらいだったろう。愛が伝わらない切なさには泣かずにはいられない。人というものは赦されているのになお疑い、受け入れられないのだろうか。その心理の奥にあるものはなんだろう。

イエス様の十字架の犠牲による赦しを思う。十字架は切り開かれた神様のお心であり、はらわたであろう。その証拠を見せながら赦しを宣言されたのだ。ただ感謝して受け入れればいいのだ。しかし、その恵みを目の当たりにしながらも疑ったりあるいは無視してしまう。自分を変えることができない、いつまでも自分流の生き方に固執する。苦しまなくてもいいのに苦しんでいる。あるいは受け入れれば楽になるのに心の扉を開こうとしない。イエス様は泣いておられるだろう。

自分の来し方を振り返って見る。加害者になったこともあれば被害者になったこともあろう。加害者の場面はあまりないように思うが、それは気が付かないだけかも知れない。被害を受けたことは覚えている。これも身勝手と言えるかも知れない。

イエス様のあがないのみ業によって、いつまでも罪の呵責に苦しみ怯えることからは解放されてしまったが、今日も罪人である自己をしっかり認識し、絶えず悔い改めをし続けることを忘れてはならないと思う。

一方、過去の被害をいつまでもほじくり返し、被害妄想的になってはならない。その事実とそのときに係わった人たちへの悪感情を薄めていかねばならない。記憶の鮮度を落としていかねばならない。できれば記憶喪失してもいいくらいに。それこそイエス様の赦しのみ業にかかわることだ。イエス様を泣かせてはならない。

ヨセフの生涯は実に鮮明に、数千年の歳月を超えて語りかけてくる。  (続く)

2024年02月03日