『さあ、ベツレヘムに行って』    寄稿者 銀鈴

クリスマスの時期になると、なにか一篇書きたくなります。クリスマスカードといっしょに送りたいと思うのです。できる年もありますが、毎年とはいきません。今年は羊飼いたちに目がとまり心が動きました。

 ルカの福音書2章15節
 『羊飼いたちは互いに話し合った。 さあ、ベツレヘムに行って、
主が私たちに知らせくださったこの出来事を見て来こようではないか』

あそこには 行きたくない
あそこに行くと ひどい目に遭う
あそこの人たちは、臭い、汚い 暗いとさげすみ あざ笑い
 ののしって、石を投げる人さえいる 
あそこには 行きたくない
あそこに行くと 悲しい目に遭うから

その夜のことは、今では世界中の人の知るところとなりました。イエス様がお生まれになった、あの夜のことです。あなたもご存じですね。特に、羊飼いたちが天使から御子のお誕生を告げ知らされるところは、いつ聞いても感動に満ちています。

ああ、できることなら、あのとき、あそこにいたかった。
天使のお告げを聞きたかった。
天使の歌声を聞きたかった。
羊飼いたちといっしょに家畜小屋へ駆けて行きたかった。
みどり子のイエス様を拝したかった。

なんとメルヘンチック、ロマンチック、ドラマチックでしょう。すべてのクリスマス物語がそう思えるように。
ところが、羊飼いたちがベツレヘムに行くのには、乗り越えねばならない厳しい山坂があったのです。心の山坂があったのです。
羊飼いたちはベツレヘムの町から離れた野原で羊の群れを飼っていました。それが彼らの生活を支える唯一の仕事でした。羊の群れは神殿の祭司から託されたものでした。羊たちは一匹、また一匹と神に捧げられるのでした。

羊飼いたちは祭司や町の人々のように律法の一つ一つをまちがいなく守ることはできませんでした。なにしろ野原が彼らの住まいなのですから。水で手足を清潔にすることもままなりませんでした。当然、律法の専門家たちは彼らを侮蔑したのです。臭い、汚い、暗いと声を荒げて。

羊飼いたちはじっと耐えていました。悔しくて悲しくて涙をこぼすこともありましたが、みんなで肩を寄せ合って我慢しました。
ひとつだけ、誇りにすることがありました。仕事です。神様に捧げる羊を育てていることでした。徹夜で出産を見守り、寒さや暑さからも守り、怪我ひとつさせずに育てるのです。声をかけ、膝に抱き、自分の上着を掛けてやるのです。その羊が愛する神様へ捧げられるのです。これほどやりがいのある仕事はないと思っていました。それを支えにして、喜んで、時に楽しんで、群れを養いました。

ベツレヘムの町には近寄らなくなりました。祭司のところにはリーダー格の二、三人が、まるで戦場に行くように緊張して出かけるのでした。
そんなわけですから、天使のお告げを聞いた時、みんな、しばらくは顔を見合せるばかりでした。口をつぐんだまま。

ベツレヘムの町に
救い主がお生まれになりました だって。
どうしてベツレヘムなのだろう。
ほかだったらいいのに。
一番行きたくない所じゃないか。

だれもがそう思いました。天使の軍勢が去ってもなお、星明かりだけの暗い空をじっと見つめていました。しかし、それは、ほんのしばらくでした。みんなの心にむくむくとまったく同じ一つの思いが生まれてきました。
「さあ、ベツレヘムに行って、主がお知らせくださった出来事を見て来よう」
彼らはいっせいに叫んだのです。
 
 時は真夜中です、夜道を行くのです。行きたくない町にいくのです。夜だからいじめる人はいないと安心はできません。夜だからこそ恐ろしい目に遭うかもしれないのです。でも、天使の知らせが彼らの心の闇を照らしていたのです。

飼い葉おけに寝ておられるみどり子こそ
待ちに待った救い主だそうだ。
救い主にお会いしなければ
救い主を拝さなければ

思いますに、
私たちにも行きたくないところがあります。会いたくない人がいます。遠回りしてでも避けてしまいたい、顔をそむけて素通りしてしまいたい、そんな深い心の闇があるのです。でも、そこに主がおられるとしたら、何をおいても、不都合な時間でも、心の葛藤があっても、行かなければならないでしょう。愛する主はベツレヘムにおられるのです。私が選んだところではなく、行きたくないベツレヘムにおられるのです。

『さあ、ベツレヘムに行って、主がお知らせくださった出来事を見て来ようではないか』

   羊飼いたちの勇気と信仰にならって、
   私のベツレヘムへ急ぎたいと思います。
      真夜中であっても、
      寒風肌刺す真冬であっても、
   主いますところに行きたいと思います。

2023年12月18日