せっぱつまったとき  寄稿者  道草

このところ身辺があわただしい。担当している奉仕がふくらみ続け、パソコンから離れられない。これではいけないのだ。気がつくたびに小休止するが、頭や心は簡単にはストップできないものだ。そこが人間と機械の違いかも知れない。

その上、心騒がす問題に取りまかれている。係わっているいくつかの組織からときどき火の手が上がる。人間の集まりだからだろうか。でも、そういって達観してはおられない。火の粉は飛んでくる。降りかかる火の粉は払わねばならない。

せっぱ詰まってくると、視界が狭くなる。いつのまにか、全体を見回せるところから足元しか見えない低い地に這いつくばっている。自分中心、自己保身の言動がエスカレートしていく。

『ああ、できれば、どこで神に会えるかを知り、その御座にまで行きたい』(ヨブ記23章3節)

旧約聖書に登場するヨブほど大きな災難、困難に遭遇した人はいないであろう。息子、娘は災害で死んでしまい、莫大な財産は一夜にして奪われ、自分自身は重病に陥った。妻から親友からも愛想をつかされ、まさに四面楚歌のただ中で懊悩苦悩した。

その時、ヨブは上記のように叫び祈った。ヨブは苦難の解決を願ったのではなく、神さまに会いたい。神さまのおられるところに行きたいと願った。長い煩悶に末、その結論に達したのだ。

心底、ヨブのように思う。これは逃避ではない。一番確かな方法ではないか。
ヨブはまだ、イエス・キリスト以前の人であったから、救いの道は今の私たちほど明らかには知らなかった。

今は恵みの時である。神さまの恵みとまことが、インマヌエルの主となって顕れた。すぐそばにおられるイエス・キリスト御もとに駆け込み、荒々しい思いや息づかいをしずめていただたい。主はそうしてくださる。そして、十字架の犠牲で勝ち取った愛の薬を塗布して、傷を癒し、知恵を与えて正しい生き方を教えてくださるだろう。

目をイエス様に転じたい。『信仰の導き手であるイエスを仰ぎ見つつ…走ろう』と固く激しく思う。

2023年11月16日