環境への適応と順応   寄稿者  道草

新しいことを始めるには高い厚い壁を乗り越えなければならない。長く慣れ親しんだ習慣はそのひとつさえも変えるのは難しい。体に染みつき無意識に手足が動くようなことはなかなか変えられないものだ。健康に悪いと知りながらもやめられず「生活習慣病」を患うようになってもよほどの決意がないと抜け出せない。環境順応力は手ごわいものだ。

コロナの脅威が全世界を襲って以来、専門家たちの研究により、防衛のための戦略が練られ、私たちにも伝えられ要請され、ほとんど強制されたことがいくつもある。初めは耳新しかった「三密回避」は今も続いているが、その最たるものだろう。私たちはマスクをしてそのシェルターにもぐりこんだ。ソーシャルディスタンス、換気が呼びかけられ、スーパーのレジを待つ足元にテープが張られ、お店のドアーも開けたままになった。買い物に行く回数さえ減らした。家の周辺しか行かなくなった。いくつかの集いは休会、友達とも会わず、会食は家族の間でも気を付けた。

ところがこの2年間でその生活に慣れてしまった。初めは「適応」するために頑張ったが、今やすっかり「順応」してしまった。当たり前になり体の一部になっている。だが「順応力」に新しい課題が出てきた。特に高齢者であるが、いわゆる「フレイル現象」が加速している。

高齢者は自然現象で身体機能、知能が衰えていく。コロナによって外出などが制限されている間にそれはスピードを上げる。「巣籠り生活」があたり前になってしまう。それに伴って身体機能や認知機能がさらに低下する。悪循環と言えよう。果たしてこれでいいのだろうか。

人間に備わっている適応力、順応力について考えさせられている。年齢に係わらず、人はその環境に適応しようとする。抗ってばかりしたら苦しくてたまらないから、意識して受け入れる。大方の人は、突然の病や貧困、戦禍にさえ耐えていけるようなる。過去、そうしてきた。そのうち、諾々と順応していくようになる。人間の弱さだろうか強さだろうか、わからない。

今現在、私の友人知人はコロナ禍での新しい生活スタイルにすっかり順応している。この2年のあいだに加齢にも拠るが、もうコロナ以前には戻れないのだ。弱くなった自分を受け入れ、静かで穏やかな日々を楽しんでいる。もちろんそこには「適応力」、「順応力」のほかに「信仰力」が大きいのだが。「嘆きを踊りに」変える神への信仰によって、どんな境遇にも対処する秘訣を心得ているからだ。

騒がれたコロナ禍第5波が急速に退いている。その理由をかの専門家たちがわからないというのだから、なにをかいわんや・・・である。ともかくもこのひとときは感謝である。やがて必ず「アフターコロナ」がやってくる。その時、私たちには再び新しい環境への「適応力」と「順応力」が必要になる。生き方の姿勢と行動が問われてくる。神様から恵みの詰め込まれた「信仰力」をいただいて、柔軟に知恵深く「取捨選択」し、「優先順位」をきっぱりとつけて主の新しい世界へ向かっていきたい。

『見よ、私は新しいことを行う。
今、それが芽生えている』
イザヤ43章19節

2021年11月17日