女性であること    寄稿者 ママレード

アフガニスタンの様子を報じるテレビは、遠くに住む私たちにも心痛むものが多い。特に女性の人権が取りざたされていた。今渋谷や原宿で大きな声で青春を楽しむ若い女性と、そう年が違わないアフガニスタンの女性たちは、どうしているのだろう。「タリバンが来る、タリバンが」と大声で助けを求めている若い女性の映像には悲惨や絶望の声がしていた。男性の既得権を守るために女性の権利が守られない現実は、遠い昔のことだろうか。

戦後、敗戦国の日本は大きな社会改革を求められた。その中で女性の人権は大きく変わった。
一番大きなものは参政権ではないだろうか。一部の革新的な人々の願いだった婦人参政権。これが女性にも与えられるようになった。そのような在り方が76年前に始まった。それがどんなに画期的なものだったか。

「男の人は外で働いて大変だから、家では少し位わがままでいいの」という明治生まれの女性の声を聞いたことがある。この声は社会の中でも共通したものだったと思う。時代が変わっても社会でリーダーになるのは決まって男性だった。リーダーに向いている人がなればいいのにと思う。

教会でも女性牧師はまだそう多くはない。
たまたま私は女性牧師に2回ほど牧会された。きめ細かい指導をいただいた。女性教職のほうがいい場面も案外多いものだ。

私の教会では数年前に婦人会壮年会をなくした。できる人がやるようにした。今時、掃除は婦人の仕事と考えている教会は少ないだろう。ただし発案し計画するのはいつも女性である。この現実は当分変わりそうもない。食後の後片付けも女性がする。もっともどの協会も女性のほうが多いのだが。

今回の選挙でも女性候補者が少ないようだ。当選者となればなおさらである。しかし今や社会は多様性が求められ、男女を問わなくなる方向に進んでいるという。昭和初期の人には理解できるだろうか。

老いも若きも男も女も、神様の前には同じだ。聖書のみ言葉に聞きたい。

2021年11月04日