春に来た道 寄稿者 道草

この2年間のコロナ禍生活での、一番のトピックは散歩、わたし流に名付ければ「ひとり歩き」を日課の一つに設けたことである。ブログでも何度も記し、友人たちにもたびたび話題にしてきた。思えば、過去に、歩くだけの目的で外出したことはなかった。あわただしい年月を過ごしてきたものだ。それが半強制的に閉じられてしまった。行動人間で通してきた私としては牢獄に監禁されたと同じだった。ちょっと大げさかしら・・・・。

今まで聞き流してきた、散歩する、歩くという言葉が急に光り輝きながら目に、耳に、心に飛び込んできた。それは牢獄の戸を開ける都合のよい鍵になった。初めは家の近くの道路を行ったり来たりした。と、散歩スタイルの人たちとよくすれ違うのに気が付いた。ああ、皆さん歩いてるんだ、そういう人たちがおられたのだと知って驚いてしまった。よく見ていると、我が家の脇の幹線道路を同じ時刻に同じ人が通り過ぎていくのだ。それぞれに自分流のコースがあるのだろう。

はじめはごく近場を歩いたが、だんだん遠くへ行きたくなった。少しずつ歩行力も強くなった。今では途中休憩なしで一時間以上はらくに歩けるようになった。なんだ、それっぽっちと言われそうですが・・・。私にとっては快挙なのです。

江戸時代からの掘割、人工河川が縦横に走っている。道路から川べりに降りていくこともある。よく整備されていて歩きやすいし、人影もまばらで、マスクを外すこともできる。季節の草花や樹々が植えられ、景観も楽しい。天然ではなく、人が造ったいわば偽の自然であるが、目には優しく心楽しい。

隣の区の南部に下っていくと、掘割がいくつも合流して荒川に流れ込み、間もなく東京湾に注ぐ。そのあたりは景色も雄大で、川岸には災害時の避難場所にもなる広大な公園が広がる。スポーツ広場もあるが種々の樹々で囲まれたこんもりとした森もどきの一画がある。緩い坂道を登っていく。そこが、すっかり気に入ってしまった。春に初めて来たときはちょうど新緑の頃だった。若緑の葉が差し込む陽に踊って、息を忘れるほど感動した。さすがに真夏の間は足を延ばせなかったが、10月に入って遠路も苦にならなくなり、行けるようになった。

桜樹はところどころ紅葉し始めていたが、落葉樹ばかりではなく小道はまだ鬱蒼としていた。
それでも秋の姿になっていた。赤い実をびっしりと付けた木もあった。ススキも風に揺れていた。吹く風の中に冷えて尖った冬の顔がみえた。同じ場所ではあるが、春と秋では装いが違う。もう一か月もしたらすっかり葉を落とした裸の樹に会えるだろう。その姿も見てみたい。裸木の声にも耳を傾けてみたい。冬鳥のさえずりも楽しめるだろう。

どこかに「哲学の道」というのがあるが、この小さな森への緩い坂道は「祈りの小道」以外に名を付けられない。私の胸に畳む「祈りの小道」はコロナ禍が導いた貴重な隠れ道である。

2021年10月27日