年老いてもなお実を結ぶ  寄稿者 銀鈴

日本では全人口の約3割が高齢者に該当するという。高齢者とは65歳以上である。100歳以上の方が8万6千余人とか。「人生100年時代」と言われるのも無理はない。私の直接の知人で最高齢は98歳の女性である。ずっと一人暮らしだったがその後、長く施設で暮らしておられる。コロナでこの2年ほどお会いしていないが認知症ではない。もうおひとりは97歳の女性。昨年施設に入居されたがずっとご家族の中でお元気であった。お一人で都心まで外出もできていた。

私も後期高齢者ではあるがさすがに10年先は考えられない、まして「100年時代」など笑ってしまう。5年先さえも視野にない。一日、一日、一か月、一か月を今できることで充実させたいとそれのみである。

昨日の礼拝説教は「年老いてもなお実を結ぶ」と題して詩篇92篇12節から15節が開かれ、説かれた。ポイントは①実を結ぶ若い人が実を結ぶ年配者に成長する。②神様は年配者に実を結ぶことを期待しておられる。③実を結ぶとは神様の真実を証しすることである。

たしかに、実は直ぐには実らない。若いころからの生き方働き方の結果であろう。「実」というと「成功」(公なり名を遂げる)に直結させやすいが、神様の求めておられる「実」はそうした類のものではないことは明らかである。そこには慰めが満ちている。決して世の評価する「実」、「成功」など手にすることはできないから。

神さまは私たち老年者が「実」を結ぶことを期待しておられる。その「実」とはなんであろうか。説教は、実を結ぶとは神様の真実を証しすることであると説く。「証しする」とは実体験の結晶であろう。目に見えることもあるが、肉眼では見せられないこともあると思う。
聖書には、御霊の実がでてくる。そこには「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実。柔和、自制」と羅列されている。口先だけでなく、御霊の実で整えられた者になって、主の真実を証しできる者になりたいと切に祈る。

神さまは、功なり名を遂げたイスラエルのリーダーヨシュアに、もうそれでよいとは言わなかった。「あなたの取るべき地はなお多い」と激励した。もしかしたら神様は「Doing」の連続であったヨシュアに、御霊の実による「Being」の領域を指し示したのかもしれない。

今年もまた一篇の詩を思い出している。

ヘルマン・ホイヴェルスというカトリック教会の神父で、上智大学の学長をなさった方が書かれた、『人生の秋に』という本に紹介されている「最上のわざ」という詩である。この詩は、ホイヴェルス神父が、故郷の南ドイツに帰った時、友人から送られたものだそうだ。

「最上のわざ」

この世の最上のわざは何?
楽しい心で年をとり、働きたいけれど休み、
しゃべりたいけれども黙り、失望しそうなときに希望し、
従順に、平静に、おのれの十字架をになう。
若者が元気いっぱいで神の道を歩むのを見ても、ねたまず、
人のために働くよりも、謙虚に人の世話になり、
弱って、もはや人のために役だたずとも、親切で柔和であること。
老いの重荷は神の賜物、 古びた心に、これで最後のみがきをかける。
まことのふるさとへ行くために。
おのれをこの世につなぐくさりを
少しずつはずしていくのは真にえらい仕事。
こうして何もできなくなれば、それを謙虚に承諾するのだ。
神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。
それは祈りだ。
手は何もできない。けれども最後まで合掌できる。
愛するすべての人のうえに、神の恵みを求めるために。
すべてをなし終えたら、臨終の床に神の声をきくだろう。
『来よ、わが友、われなんじを見捨てじ』と。

2021年09月21日