オンライン礼拝で・もう泣かなくてもよい 寄稿者 緑風

コロナ禍による緊急事態宣言が出るたびに、教会は日曜日の礼拝をオンラインにし、実際に教会に集まる活動を休止してきている。日本中、さらに世界中の教会がこうしたスタイルを取り入れているはずである。教会員のほとんどがスマホあるいはパソコンを使って、自宅に居ながらにして、教会から配信される礼拝に参加できている。ZOOMからLineからあるいはYouTubeから受信できる。思えば驚くべきことだ。私の教会では9月中はオンラインで行われる。会堂には説教者の牧師と奏楽者と配信の奉仕者だけが、いつもと同じ時刻に同じ礼拝堂で無人の会衆席の前で始められる。それがリアルタイムでそのまま送信されるのである。前日には礼拝のプログラム他の記載された「週報」が添付文書で送付されてくる。

私の友人たちの教会もだいたい同じようなスタイルで礼拝をおこなっているようだ。特に東京の教会は徹底して感染予防に努めていると聞く。教会がクラスター源になってはいけないだろう。一方、感染者数が比較的少ない地方の教会は、可能な限りの対策をしながらいつものようにともに集まって礼拝を捧げている。ある知人の牧師はいのちがけですと語った。
食事会など飲食のある集まりは中止している。寂しく辛いことであるが、永久に続くわけではない。いましばらくの忍耐であろう。

礼拝ではルカの福音書7章から、有名な「ナインのやもめ」が開かれた。一人息子を亡くして悲嘆にくれるやもめの母親に、イエス様は声を掛け、葬列に近づき、遺体に触れて「若者よ、起きなさい」と言われた。そのとたん、若者は生き返ったのだ。一番うれしかったのは母親であったろう。イエス様は心底悲しんでいる人を見分けられる。その悲しみに御自ら魂を振るわせて心を寄せ、ご自分の内にある力を発揮される。死んだ人が生き返るなんてと、たいていの人は一笑に付すだろう。その御業を信じる者をもあざ笑うだろう。そういうこともあるだろう。しかし、その議論はひとまず外に置く。

だれの上にもどこにでも起こる「死」は、動かしがたい事実である。「死」の力は強くこれに勝てるものはない。しかしイエス様はその「死」に自ら近づき、遺体に触れ、あわれな母親に「もう泣かなくもよい」と優しく力強く声を掛けられた。「もう泣かなくてもよい」とは何と的を得た言葉だろう。泣いていた人は一瞬泣くのを忘れただろう。悲しみはいったん」立ち止まり、母親はハッと我に返っただろう。母親の心はここですでに立ち直ったのではないだろうか。イエス様のおことばの力である。続いてイエス様は息子にいのちを与えて救った。

この出来事は単にイエス様が人を生き返らせただけのお話ではない。イエス様は人の悲しみや苦しみに全身で係わり、当人にも勝るほど悲しみ苦しみ同情し愛を注がれた。イエス様の伝道とはこういうことなのだろう。これが福音を伝えるということなのだろう。イエス様はその方法で町々村々を巡って働かれた。寝食を忘れるほど働かれた。「もう泣かなくてもよい」、「もう泣かなくてもよい」と声を掛けながら。

今、私の内にもこのおことばが鳴り響いている。今はこの母親ほどの状況ではないにしても、心には涙の雨が降りしきっている。自分のこと、友のことで、泣かない日はない。そのすべてを主は知っておられ見ておられ、近づいてきて手を触れて「もう泣かなくてもよい」と言ってくださっているのだ。御声の方を振り向き振り仰いだ時、主の御力が働き栄光が表されるのだ。「もう泣かなくてもよい」を聞き続けていきたい。

2021年09月14日