御言葉     寄稿者 青梅

「好きな御言葉は」と、問われ『真っ先に詩編23篇を挙げます』と答えた。
すると、「真っ先に?」と予期せぬ問いに思わず沈黙してしまった。
だが、頭の中は23編との出会いを求めてフル回転していたのである。やがて、洗礼を受けて10年ぐらいたったころ、休職中に日課にしていた散歩中の自分の姿が浮かんできた。
それは、神よりも自分を大切にしているわたしであった。神を知らない人生も苦しいが、神よりも自分を主人にしているクリスチャンも負けず劣らずに苦しかったのである。やがて、周りの人間関係が壊れ、初めに仕事関係、そして家族関係と、もういけない、いったん立ち止まることにした。これが休職中の自分である。また23篇を暗誦聖句として身につける事情があって、休職中の散歩を利用して身につけていた自分でもあった。
その日も散歩をしながら、「主は私の羊飼い。・・・。」と一節一節口ずさんでいると、どこからともなく「今のままで良いのだ」との声が聞こえてきたのだ。
すると、なにか心のなかが暖かいものでいっぱいになったと思いきや、壊れた関係のままで良いと開き直ったわけでもないのに「このままで良いのだ」と思えたのである。
その日からの散歩は自分を責めてばかりいる散歩ではなく、仕事を離れのんびりと過ごせる休職を感謝する散歩に変わった。また、復職へ向かっての出発にもなったのである。

御言葉に出会い、暗誦聖句として身に着け、また教義も含め多くの知識も得ることは嬉しくもあり、喜びでもあったが、はたしてその御言葉を「真っ先」にと呼べただろうか。いいえ、わたしの内の中で働き、神さまとの関係を修復して、新たな人生に導いて下さった御言葉だからこそ、詩篇23篇を「真っ先」にと告白できたのだ。
やっと、沈黙を解くときが来たと思った。

詩篇 23 篇
23:一 【主】は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
23:二 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
23:三 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。
23:四 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。
23:五 私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。
23:六 まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、【主】の家に住まいましょう。

2021年08月17日